第五章 クリスマス前 ⑧


「魁斗くん」


 廊下で身動きひとつとれなかったところに、後ろからなんとも地味な声が響いてくる。耳には一切入れず、魁斗は振り返らない。


「おーい、魁斗くんってば」


 再び名前を呼ばれるも、やはり耳を引かない声だ。振り返る気すら起きやしない。


「うおおおおい! 魁斗くんってばぁっ!」


 耳元で騒ぎ立てるような声が激しく鼓膜を震わせる。自己嫌悪の底なし沼にはまっていたのだが、その声により強制的に沼から引っ張り上げられる。


「優弥……うるさい……」


 さすがにうるさすぎだ。耳を押さえて、目つき悪く優弥を睨みつける。


「な、なんで睨むの!? そっちが無視したんでしょ!?」


 優弥も怪訝な顔を浮かべた。だけど、すぐに表情を綻ばせて言葉を続ける。


「えっと、今日は例のイブだからさ。紫のこと、色々と相談に乗ってもらったし……今日、事務所に紫を呼んでくれるんでしょ? だから、お礼を伝えとこうと思って」


 ……そういえば、そうなふうだった気がする……。

 

 ここ最近、色んなことがありすぎてそのことが意識にのぼってこなかった。でも、紫は自発的に事務所におもむくから、自分が呼ぶわけではない。協力しようと思っていたけど、もうわけがわからなくなっている。おそらく二人のサプライズが互いにぶつかり合うことになるから、自分はもうかき回さないようにおとなしく話を聞いてやることしかできなかった。だけど、優弥はわざわざお礼を伝えるために声をかけてくれた。


 こんな、どうしようもないアホで、バカなおれに……。


「……いいんだ。頑張れよ」


 今の精神状態で伝えられる精一杯の言葉を送る。


「うん、ありがとう! 頑張るよ!」


 優弥は素直にその言葉を受け取ってると、両肘をグイッと曲げてガッツポーズをしてみせた。そして、屈託のない笑顔を向けてくれる。


 なにそれ、すっごく辛いんだけど……。


「それに魁斗くんが言ってくれたように、演劇部にサンタの衣装も借りることにしたんだ」


 優弥が話を続けてくる。だが、話を聞いてあげられるほど、今は心の度量がない。


「……そうか、頑張れよ」


「うん! 頑張るよ!」


 そう言って、もう一度両肘を曲げてグイッとガッツポーズを作る。気力はなかったが、魁斗もへなへなとガッツポーズを返してやった。すると、優弥が最高の笑顔を浮かべ、


「お互い、いいイブを過ごそうね!」


 などと、言ってきた。


「ははっ、そうだな……」


 もうこれ以上話す元気はない。ぽんぽんと背中を叩いて前へ送り出してあげる。

 優弥はそれをエールだと捉えて、


「行ってくるよ」


 男らしく両目に力を入れて、前を向くと、大股で校舎を出ていった。

姿が見えなくなり、魁斗はただ、ぼーっと廊下の先を瞳に映す。


 恋は盲目ってやつだろうか……? まったく空気読めてなかったな、あいつ……。





 ※※※





「魁斗くん」


 振り返ったのは反射というやつだった。


「風花、ちゃん……」


 振り返って顔を見た瞬間、鼓動が早まる。

 周辺に薔薇の花びらが舞っているかのような錯覚を起こす。幻臭だろうか、鼻から息を吸うと甘い薔薇の匂いが漂ってくる。

 

 風花はこちらを向いたまま、弧を描いた薔薇の花びらめいた唇を開く。


「イブだね」


「う、うん……」


「大丈夫だった? 今日」


「えっ……あ、うん……もちろん」


 脳裏には累の姿が浮ぶ。しかし、風花はべつに悪くない。悪いのは全部自分。もう、なにもかも今さらだ。


「よかったぁっ」


 どこまで自覚があってやっているのか知らないが、風花が手を掴みぴょんぴょんと飛び跳ねる。


「あたしね……ほんとに楽しみにしてたの。魁斗くんとのクリスマスイブ」


 その甘い言葉に、先ほどの累との出来事が途端にかき消されてしまいそうになる。


 あれ……? おれ、さっきまで落ち込んでたよな……なんだこの高揚感。


 気持ちが弾んでくる。心が躍った。ぷかぷかと体までもが宙に浮かんでいるみたいだった。


 これって、現実なのか……。もしや変な病気なんじゃ……?


「じゃあさ、あたし一回お家に帰ってきてもいい?」


「えっ……このまま出かけるんじゃないの?」


 ぷかぷか浮かばせていた体を地に着地。


 おれは、てっきりこのまま二人で光り輝く街に繰り出すのかと思っていたんだけど……。


「あ、そっか。ごめん! 昨日決めとけばよかったよね。その……せっかくのイブだからさ……」


 風花はもじもじと一度瞳を落とすと、くるりと眼球を上げる。ほんのり頬を赤く染めあげて、上目遣いで続きの言葉を口にする。


「おしゃれ……したいなぁって」


 体中に電流が走る。脳が痙攣を起こした。


 風花のおしゃれ。それもクリスマス仕様。

 とても見たい。何があってもこの目に焼き付けたい。


 気がつけば親指が立っていた。

 風花は顔をぱぁーっと輝かせて、手を叩く。


「ありがとうっ! じゃあ、あとでディナー食べようよ! あたしオススメのところがあるから、そこでよかったら予約入れとくけど、どうかな?」


「もちろん、いいよっ!」


 もはや自分のテンションがわからなくなっていた。さっきと同じように力強く親指が立っている。親指周りの筋肉がギンギンだ。


「じゃあ予約入れとくね! あとで連絡入れるから、またそこで落ち合おう!」


 そう言うと風花はスキップするように跳ねていき、一度廊下の先でこちらに振り向いて手をぱたぱたと振ってから、可愛らしく校舎を出ていった。


 姿が見えなくなり、魁斗はただ、ぽけーっと風花が残していった甘い残り香を吸う。


 現実……なんだよな、これ……。変な病気じゃないよなぁ……。


 甘すぎて、いまだに、信じられない自分がいた。

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