第七章 綺麗な月とともに ①


 帰り道。

 悲しみは再び雨になって降り注いだ。

 涙が地面にそっと染みていく。


 左喩に借りた一本の傘に二人は入り、遠い自宅に向けて歩いていく。

 パラパラと雨粒が傘の上でタップダンスするように踊る。

 人気のない河川敷の道は、すでにところどころに水たまりができていた。

 視線を地面へ向け、水たまりを避けながら、とぼとぼと歩く累の歩幅に合わせて、ぬかるんだ歩きにくい道をゆっくりと歩いた。


「……」


「……」


 互いになにも話さずに歩き進めていると、雨が弱まり、次第に上がっていく。


 魁斗は手のひらを傘の外に出して、雨が降っていないか確認。手の平には雨粒は伝わらない。手を引っ込めると、そっと傘を降ろしていく。


 もう傘の中に入る必要がないからか累が距離を取るように半歩分だけ離れた。


 雲が流れていて空が広がっていく。

 そして、淡い月明かりが届く。


 累の顔が見える。手を伸ばしたら届くか、届かないかの距離だ。

 微妙な距離感を意識しながらも、ゆっくりと家へ向かって歩いていく。


 そして、累が顔をそっと上げてこちらに振り向く。先に口を開いたのは累だった。


「……結局……わたしは逃げてたの。自分から、誰とも距離をとって、隠れて怯えていたの。あんたの言う通り、わたしは魁斗のことも信じきれてなかった。魁斗がわたしを受け止めてくれるって信じることができなかった。……嫌われるって、思ったのよ……」


 自嘲するように唇を歪ませる。瞳を落とした後、一度唇を引き結ぶ。そして、顔を上げて、こちらに振り向いた。目尻いっぱいに涙を溜めこんで、震えそうになる唇を開いた。


「ごめんね……魁斗」


 目尻から透明な涙が一筋、頬を伝っていく。


 累が顔を俯かせる。


 ぽた、ぽた、ぽた、と溢れる涙が足もとに。地面に沁みていく。


 どう言葉を伝えていいか、わからない。なにを並べて伝えていけばいいのか、わからない。

 だけど、自分の想う感情と気持ちを。今想っている、胸の中の全てを注ぎたい。決して壊れないモノがここにあるんだと累に伝えたい。


 累の涙が地面に吸い寄せられていく。


 その涙の一粒一粒には、きっと意味がある。


 後悔も、絶望も、不安も、悲しみも、狐疑も、自己嫌悪も、寂しさも、全てを包み込むようにして、魁斗は手を伸ばした。その小さな手をぎゅっと握ってやる。

 ただ、ただ、全力で。

 自分の身の全て注ぐように。


「大丈夫だよ」


 その言葉に思いの限りを込めて、魁斗は握った手に力を込める。

 優しく、温かく言葉をかけていく。


「累がなにしてても、なんであってもおれは変わらないから」


 自分だけは絶対に変わらないと累に知ってほしかった。

 傍にいることだけは絶対に。


 累の手がぎゅっと力を込めて握り返してくる。


「逃げたら、また追いかける。累が辛いときや泣きたいときは傍にいる。必ず、また笑顔に、させてやる」



 ――だから、もうひとりで苦しむな。



「……っ」


 累の喉が息を詰めたように鳴った。

 そして、俯いたまま魁斗の手を強く、強く握った。


「魁斗……」


 累は震える声で名前を呼んだ。顔を俯かせて、こちらの方は見ないままに、


「……魁斗…………魁斗…………魁斗」


「うん……」


「……魁斗」


 繰り返し名前を呼んだ。

 それを聞いて、少しだけ微笑む。


「うん……ここにいる……傍にいるから……」


 累が名前を呼ぶとき、いつだってその声に答えるように、傍にいようと思う。

 もしも、累がその手を伸ばしてくれるなら、いつだってその手を掴んで握り返してやろうと思う。


「――大丈夫だよ」


「ぁあっ」


 声にならない嗚咽が漏れる。そして、


「くっ……うぁっ、えぐっ、ああっ! ぅぁああああああ―――――――――――」


 累は子どもの頃に戻ったように、泣いた。

 唇を、頬を、顔全体を歪ませて、瞳を真っ赤にしながら、天を見上げ、叫ぶように。





 ※※※



 わたしはどこまで臆病者なんだろう。

 わたしは罪を、弱さを覆い隠してなにをしていたんだろう。


 ――孤独


 孤独のまま、もう誰の手も届かない場所に、このまま行くと思ってた。



 わたしの中の、なにかが決壊した。

 たぶん、わたしはひとりになるのが怖かったんだ。

 わたしの居場所は世界のどこにもない。

 そう思っていた。

 だけど、いま、温かいものが胸に届いた。

 温かくて消えない光だ。

 

 ――ああ、そうか。

 

 わたしは魁斗に『大丈夫』って言って欲しかったんだ。

 ずっとずっと前から、わたしは強がることを止めて、こんなふうに泣きたかった。

 孤独では、ないんだ。わたしは……。

 この温もりを、優しさを感じて、

 

 生きたい――




 

 ※※※





 ぐずぐずと涙を流しながら、累は今までの自分の行いの後悔で涙が止まらなくなっていた。

 先程までの大雨にも負けないほどに、落とす涙で地面が濡れていく。

 魁斗は夜空を見上げて、累に言う。


「累、見ろ……月だ」


 そう言って夜空を指差した。累は俯かせていた顔を上げて空を見上げていく。


 上を向いていれば、涙はこぼれはしない。

 累は、あの優しい月明かりに照らされて、また歩き出せる。

 こいつなら、きっと大丈夫だ。

 自分はちゃんと知っている。いくつもの朝と夜を超えて、いくつもの季節を超えて、いくつもの月と年を超えた。いくつもの大笑いを、いくつもの涙を流した。そして、大きな悲しみを累は経験してきた。それでも、ずっと、ずっと、踏ん張って歩いてきた。それをおれは傍で見ていたから。


 だから、きっとこいつなら大丈夫だと信じている。


「ほんとだ……」


 累の瞳が美しいものを見るようにきらきらと揺れ動く。

 魅入るように、ぷかぷかと浮かぶ綺麗なお月様を瞳に映した。


 もう一度、累が歩き出すまで、待ってやる。


「うん、綺麗……」


 累の唇が動く。


 そして、月を見た後、こちらに振り返り、淡く笑って言った。


「大好き――」

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