第一章 沈む夕日 ③

 

 再度、日常。

 目覚ましが鳴る。


「う~ん……」


 鳴り響く目覚ましを止めて、魁斗は現在の時刻を確認する。

 朝、七時三十分。本日も天気は快晴。窓から朝日がこぼれて魁斗の顔を照らす。

 そのまぶしさに思わず顔をしかめた。


「朝か……」


 もう一度寝ようとするも、いつもの声が一階から届く。


「魁斗~起きなさい~! そろそろ、累ちゃんが迎えに来るわよ~!」


「もう起きたよ、母さん」


 眠たい目蓋をこすり、ようようと体を起こす。欠伸を漏らしていると、玄関のチャイムが鳴り響いた。どうやら累が来たようだ。

 軽く伸びをしながら階段をパタパタと降りていく。

 談笑する声が聞こえ、階段を降りると、夕陽の話している後ろ姿、その先には制服のスカートを揺らしながら楽しそうに笑っている累の姿が見えた。

  

「おはよ、累」


 片方の肩にスクールバックを背負った累は、声の主に視線を向ける。


「おはよ、いつも通りね」


 少々呆れ気味の声。だが、もうあきらめているのか、弱くて短いため息をついた。夕陽はそのやり取りを微笑ましげに見つめ、累が家の中に入りやすいように片手でドアを押さえながら手招く。


「あがって、累ちゃん」





 ※※※





 朝食を終え、いつもの手順で朝の支度をすませた。

 累と玄関で靴を履いていると、夕陽が後ろから声をかけてくる。


「今日はハンバーグを作るけど、晩ご飯どう? 累ちゃん」


 どうやら今日も累を晩ご飯に誘っているらしい。


「んーと……ごめんなさい。今日はバイトが入ってて、晩は適当に食べます」


「あらそう、残念ね……栄養あるもの食べるのよ」


「わかってますって、おばさん。じゃあ、いくよっ魁斗」


「はいはい」


 玄関を出発する。

 今日は時間通りに家を出れた。

 いつものように、今日も遠く後ろで「いってらっしゃ~い」と声が聞こえる。


 ――ぶわり、と。


 強く後ろから風が吹き抜ける。

 魁斗は思わず後ろを振り返った。

 なぜだか今日は、遠く後ろで手を振る母さんの声が二人の背中を優しく前へと押し出してくれているような気がした。









 学校の校門が見えてくると、累が自分の元から離れて一足先に校舎の中へと入っていく。

 毎度のことながらこれは何なんだろう。思春期をこじらせてるのかな、などと首を捻りながら後から校舎に入る。廊下を歩き、教室の前ドアから中に入る。視界の先にはクラスメイトたちが楽しそうに集まって談笑している。


 なにも変わらない朝。その中に、自分はいる。

 なにもかもが当たり前に、いつも通りに動いている。


 クラスメイトの男友達がこちらに振り返った。手を振り、挨拶をしてくる。魁斗も笑顔で手を振り返す。


 そのまま一学期の学校生活の締めくくりを楽しむべく、クラスメイトの輪の中に入って友達との会話を楽しんだ。





 ※※※





 一学期の終業式が終わる。

 ついに一学期が終わった、なにをしよう……と、魁斗の頭の中はすでに夏休みに思いを馳せていた。

 友達と遊ぶ約束もしたし、高校生活一年目の夏は楽しみばかりだ。

 校舎を出たあと、校門を越えたところできょろきょろと辺りを見渡す。累がいるか確認するが、今日はいつものところには居なかった。


 今日はバイトだって言ってたっけな……。


 明日から夏休みに入ることだし、適当にぶらぶら寄り道しながら帰ろうと思い、帰り道の途中にある商店街を見て回る。ショーウィンドウには、夏らしく半袖のワンピースや水着を着ているマネキンたちがズラリと佇んでいた。


 友達と海に行く約束もしたし、水着買わないとな……。


 色々と想像を巡らせながらウィンドウショッピングを楽しんで回る。


 そうしているとあっという間に日が暮れ始め、空を見渡すと、今にも消えそうな夕陽が最後の光を放つかのように、強く揺れて、散乱しながら沈んでいくのが見えた。


 なぜだか、妙に感傷的な気分になる。


 遅くなっちゃったし、もう帰るか……。


 ようやく家に向けて足を運びだす。


 明日は何しよう? 予定は入れてないから昼まで寝ていられるな……そうだ、まずはたんまり寝よう、と明日の計画を組み立てていると我が家の屋根が見えてくる。そのまま自宅へ歩き進めていると、一つの人影がごそごそと自分とは反対側に駆けていくのが見えた。


 誰だろう? お客さんかな? 


 首を傾げつつ、玄関のドアノブを回す。

 ガチャリと言う音と共にドアを開いた。口は「ただいま」を言おうと形を作る。

 そして、


「……っ!?」



 ――絶句した。



 しばらく口を固め、呆然と立ちすくんでしまう。

 体は硬直。眼球しか、今は動かせない。


 唯一動く、その眼球でドアを開いた先、その廊下を見渡す。


 そこには赤く染まった壁。血みどろのフローリング。

 赤、アカ、緋、あか、朱、紅、赤ばかり。


 どう見ても、血……。

 それも、おびただしいほどに。


 むせかえりそうになる血の臭いは、独特な鉄のような香り。


 あまりに今朝と違う情景に十秒ほど思考が停止。

 そのまま、魁斗の頭は混乱状態に発展。思考回路が正常に働かない。

 

 気持ち悪い……。


 口を押さえて思う。


 ここは、ほんとにおれの家……?


 一瞬、頭をよぎるも、どう考えても我が家だ。間違えるはずがない。

 でも、こんな光景は……。


「……なんだよ、これ……」


 そんなぐちゃぐちゃな思考の中で、真っ先に思い浮かんだ人物の顔が脳裏に映る。


「母さんっ!!!!」


 靴も脱がずに家へと上がると、魁斗はおもむろにリビングのドアを開けた。



 ――言葉を失った。



 リビングには自分がよく知っている人物が居た。居たのだが、その人物は今朝とはまるで別の姿。


 顔や体からは大量の血を垂れ流し、うつぶせになって横たわっていた。


 部屋の中は荒れた惨状。

 壁紙が傷つき、テーブルも椅子も倒れて、花瓶がバラバラに割れ、生けていたオレンジ色のラナンキュラスが無造作に床に転がっている。


 争ったような形跡。

 しかし、そんなところに目が向くはずもなく、


「嘘、だろ……母さんっ!!!!」


 急いで夕陽の元へ駆け寄り、抱きかかえる。大声で名前を呼ぶが返事はない。


 魁斗の煮詰まった血液が一気に氷点下まで凍りついて、冷たく足元まで流れ下がっていく。

 視界が歪む。

 これは、現実なのかと自分に対して疑いをかけた。


 夕陽を見て、自分の手を見た。

 

 自分の手に付着するおびただしい量の血液が夕陽のものだと判明。震える手で夕陽の肌に触るとすでに温度を失っており、もはや人間と言えるモノではなかった。

 

 魁斗はそのまま身体を硬くする。


 身体が冷たい。

 息をしていない。


 ――感情の消えた顔。

 ――命の灯が消えた体。

 ――死んだ。死んでいる……母さんが。



 自然と息が上がっていく。まともに呼吸ができない。酸素を身体の中に取り込むことができない。

 思考が回らず、何が起きているのかも理解できない。朝まで普通に動いていた母親の夕陽が目の前では、もう動かない。

 

 まるで、壊れたおもちゃのように息を切らして、完全に無機質と化していた。




 頭が……


 これは――現実?――なんで――どうして――嘘だ――だって――夢……?――なにが?――なぜ――そんな――血――壊れて――いつ――嫌だ――母さん――ねぇ……――声を――出してよ――いつも――みたいに――さ――笑ってよ――だって――可笑しいだろ――そうだ――ありえない――こんな、こと……




 ――思考がただれる。

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