第15話 悲しみを打ち明けられない姫、気づかぬ宮

逢えなくなって、どのくらい経つのかな…と、東雲の宮は今夜も独りもの思いにふけっています。「今宵こそ」「今宵こそは」と毎日思っているのですが、両親に知られてやっかいなことになるのも鬱陶しい、だからと言って、心から愛する女を打ち捨てておくのは男としてどうかと恥ずかしくなり、ある日の夕暮れ、ようやく意を決して、洛外の山里の家へとお出かけになったのです。



空は高く澄み、風の吹き方も早や晩秋を告げるかのような厳しさ。茜色に照り映える木々を眺めながら、「いかがお過ごしだろう」と小夜衣の姫のことばかり考えて馬を歩ませる東雲の宮。

一方、宮に付き従って歩く従者たちは、最近すっかり関白家での待遇に慣れてしまい、山里の家の訪問をわざとらしく文句を言いつつ歩いています。それはそうでしょう、婿君に通っていただくために、婚家はお付きの従者たちに酒を少々ふるまったりなどの心づけを奮発します。すると従者は婚家へ向かいたがり、なにかと有利になるのです。

供人たちの聞き苦しい不満も耳に入らないほど、東雲の宮は山里の愛しい姫に想いを馳せていました。

「こんな寂しい秋風の吹く山里で、あの姫はどう過ごしているだろう、毎日泣き暮らしてはいまいか」

洛中ではまだそれほど秋らしい景色は見られないのに、ここらはすっかり秋めいて、山の木々の葉もわずかに色づき、しずかな冷気が感じられます。峰を吹き渡る秋風も虫の音も遠くから聞こえる鹿の音も、皆ひとつになってあわれを誘います。

姫も、今の私と同じ気持でこんな景色を眺めていてくれるだろうか…など考えていると、松を渡る風の音にまぎれて、筝(そう)の琴の音がかすかに聞こえてきました。山里の家はもうすぐです。

「小夜衣の姫が弾いているとしか考えられないな。珍しいことだ。今まで聞く機会すらなかったが」

と立ち止まってしばらく耳を澄ましていると、華やかでなまめかしい爪音は雲の上まで響きわたっていくようで、松風と入り乱れてえもいわれぬ風情を醸(かも)し出しています。誰に聞かせるということもなくかき鳴らせるのが、かえってのびのびとできるのでしょう。よくも今までこの妙なる音色を聞かなかったことよ、と東雲の宮がうなるほどのすばらしい響きでした。

「内裏を見渡しても、これほどすばらしい響きの名手は見つからないだろうな。おまけに名人しか弾きこなせないようなコツも身につけているようだ。一体誰から習ったのだろう」

人のいる気配を感じたら姫は弾くのを止めてしまうだろう、と東雲の宮一行は物陰に隠れてじっとしていました。

筝の爪音はいよいよ冴えわたり、圧倒されそうなほどの響きです。

「琴の上手は鬼神を哭(な)かせ、天地をも動かすというが、この音色に惹かれた天人が、天の羽衣をひるがえして小夜衣の姫を迎えに来やしまいか」

不安に駆られた東雲の宮は、思わず懐から横笛を取り出し、静かに吹きながら物陰から出ていきました。

突然現われた宮に驚く女房たち。むら雲の間から月の光が差し込んだような宮のたたずまいに、我に返った小夜衣の姫はぱったりと弾くのをやめてしまいました。

「何も考えずに、おろかにも夢中になって弾いてしまったわ…」

宮に聞かれたことが恥ずかしく、琴を押しやってうつむく姫。

「今まで聞かせてくださらなかった琴の音を、今宵ようやく聞く事ができました。馬で山道を分け入りながら、松風と虫の音に混じってあなたの妙なる爪音が聞こえてきた時の感動といったら…!ああ、これも前世からの私たちの縁なのですよ。もっと聞かせてください」

宮が強く勧めても、姫はもう琴に手を触れようともしません。

「宮中でもこれほどの名人は…一体どのような御方に手ほどきをお受けになったのです?」

「そんな、師匠だなど…師匠と呼べるような方に教えていただいたことはありません。ただ、祖母が若い頃に少し嗜まれたのを、私が真似しているだけでございます」

「そうですか、あの尼君が…まことにすばらしい御師匠ですね。こんな山里に隠れているのが惜しく思われますよ」

更けゆく月に照らされながら語り合う二人。端近に並んで外を眺めながら、東雲の宮は、夜離れの続いた数ヶ月を詫びるとともに、将来の約束を愛情込めて繰り返し繰り返し誓います。

「これが最後なのかしら…ここを出て行ったら、二度と宮さまにお逢いできなくなるかもしれないわ。いっそ打ち明けた方がいいのかしら。でもでも、宮さまにわずらわしい思いをしていただきたくない…」

心の中はあれこれ乱れ、耐え切れずに涙をこぼす小夜衣の姫。じっと黙ったまま、悲しみを隠そうとしている姫を見る東雲の宮は、『あまりに長すぎた夜離れを恨んでいるのだろう』くらいにしか気遣ってやれません。姫がこの家から出て行くなど、まったく気付いていないのです。

お互いがこんなにも愛し合っているのに、次第にずれてゆく二人。

「いつになったら、やっかいな問題が解消できるのかな。まったくもって情けないことです。朝も夕もずっと一緒になんて、そんな夢みたいな間柄に、いつなれるんでしょうね」

とつぶやきながら、姫の髪をやさしくかきやる東雲の宮。

袖を顔に押し当て、遠い将来までもと一晩中かき口説き続ける宮。

自分の口から出る愛の言葉の数々に、宮は少々酔っているように見えなくもありません。

姫はその言葉を聞きながら、内心、

(真の愛情があるなら、二人を隔てる関守なぞものともしないはず。やはり女房たちの言うように、殿方の真心なんて露草のように移ろいやすいものなのかしら)

と今ひとつ信じきれずに涙をこぼしています。

世間が何と言おうと、こんな可憐な方を自分の愛で幸せにしたい…宮のその気持に偽りはないのですが、如何せん、自分の手で幸せを勝ちとろうという男気はないようです。

何とか言葉で慰めながら、夜が更けてゆきます。

妻戸を開けると、峰から吹き降ろす風音が雲の彼方までとどろくよう。

「恐ろしい風の音だな。この音では夜もろくに寝られないだろうに。昼はこの里景色を眺めて過ごし、夜は夜で嵐を聞き…それもこれも、すべて私のせいなのだ。何も知らなかった無垢な姫に、男女の仲のつらさを思い知らせてしまった。私がはっきりした態度を取らないから…」

自己陶酔に浸っている男君、意外と冷静に殿方の心を見透かす女君。

端近でいつまでも寄り添ったままの二人でしたが、月も西の山の端に沈んでしまいました。夜が明けぬうちに帰らねばなりません。従者たちの催促に、

「必ず、必ず今宵も訪ねて参ります」

と宮は固く約束し、お互いの衣を交わして名残りを惜しみます。

「もうこれっきりなのでしょうか…

逢瀬をば これやかぎりの 忘れ水 たえにし中の またたえねとや

(これが最後の逢瀬なのでしょうか。絶え絶えに流れる水が、さらに途絶えてゆくように)」

袖を顔に押し当てたまま、悲しみをこらえきれずにつぶやく姫。

感極まった東雲の宮は、

「必ず来ます。

せきやらぬ 涙の河の ふかければ 逢瀬はたえぬ 中の契りを

(私たちの縁の深さは川の堰にも負けない、一つの堰を越えれ

ば、次の瀬で必ず逢える宿命なのですよ)」

皆に知られたってかまわない、「この人が私の運命の人」と、世間の人に公表してしまいたい、だが…と東雲の宮はじれったくてたまりません。

(帰らねば。けどこんなに愛しくてしかたのない女人をどうして独りで置いとけようか。私はいくじなしなのか?親や婚家に波風立てたくないからといって、大事な女人を粗末に扱ったままでいいのか?)

東雲の宮の心は千々に乱れ、小夜衣の姫を抱きしめたまま動くことも忘れてしまったかのよう。出発を何度も促す従者たちの声に、ようやく山里の家をあとにしたのでした。





早朝の山路はいちめんの露野原。姫の住んでいるところなら、草一本木一本だってなつかしいのに…さんざん後ろ髪をひかれる思いで京に戻った東雲の宮は、自邸に着くなりどっと御帳台に倒れこんでしまいました。

疲れているはずなのになかなか寝付けません。小夜衣の姫の、白玉のようにこぼれる涙、神業とも思える琴の音、思い出すと胸がいっぱいになって我慢ができなくなりそうでした。

(関白殿は私の忍び先をご存知なのかな。それで憎まれるならそれでけっこう。この恋を誰に非難されようが、自分の身ひとつにふりかかるなら、それはそれで全然かまわない。あの人さえ無事なら。婚家にビクビクしながら過ごすより、したいことをして日々を送ることこそ、憂き世の生きがいというものだ。そうだ、姫を私の別荘にお移しするのはどうだろう。そうすれば、気楽にいつでもお逢いできるじゃないか)

東雲の宮は、一刻も早く良き日を選んで、姫を安心できる場所に移そう、と決心したのでした。

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