第3話 兵部卿宮、山里の姫の隠れ家を発見する
さて、ちょうどその頃、兵部卿宮は嵯峨野を訪ねていました。
宮の御乳母で三位の君という女房がいて、夫の大弐(大宰府次官)と共に筑紫に下っていましたが、夫の急死の後、尼になって、ここ嵯峨野で勤行生活をしていました。その御乳母が三月頃からふとしたことで病気になり、最近ではすっかり弱ってしまい、「死ぬ前に一度でいいから宮さまにお会いしとうございます」と便りを寄越してきたので、宮はお忍びで嵯峨野にお見舞いにやって来たのでした。
病気の御乳母を親しく見舞ったその帰り道、ふと目をひく小さな庵を見つけました。ささやかな小柴垣、筧(かけい)の水の音は寂しそうに、庵に住む人々はどんなに心細かろうと宮は思いやりました。
「ここは?」
「雲林院と申します」
従者が答えます。
雲林院という言葉には聞き覚えがありました。宰相の君が滞在しているところです。
「…そうか、ここがかの山里の姫君が住んでいる家なのか。とりあえず宰相の君に取り次いでもらわねば。どこだろう」
牛車を止めてあたりを見渡すと、真っ白な卯の花が垣根をつらねて咲き誇っているのが見えます。こんなすばらしい眺めなら、ほととぎすの初音を待つのもちっとも苦にならない、そんな卯の花に囲まれた家の様子を伺っているうちに、夕暮れがただよってきました。
垣根の向こうには小さな庵が見えます。どうやら仏間らしく、縁先に仏具を奉る閼伽棚(あかだな)があります。妻戸や格子も押しやって、お供えしている樒(しきみ)の花がはらはらと床に咲き散っているのが見えました。
「仏道修行に励んで、ひっそりとした生活を守っておられるようだね」
と兵部卿宮はうらやましく眺めています。仏間の奥のほうに女の童が何人か見え、その中に、宰相の君が召し使っている見覚えのある女の童の姿がありました。そこで宮は従者に命じ、その女の童に宰相の君を呼び出してもらいました。
宮の突然の来訪にびっくりした宰相の君が、大あわてで出迎えに出てきました。
「このような賤家に足をお運び下さるとは、恐れ多いことでございます」
「この近くに住んでいる人に用があってね。すると、あなたが滞在している家が近いというじゃないか。わざわざ足をのばしたというわけさ」
仏間の南面に御座所を用意された宮は答えます。
「かたじけのうございます。伏せっている病人が先行きももう長くはないようですので、こうしてこもって看病しております」
「お気の毒な…そんなに重いのかい?尼上の具合は」
宰相の君は、兵部卿宮の来訪を尼君に申しあげると、尼君は、
「尊い御方のお心に留めていただき、長く生きているとこのようなお恵みも頂けるのかとうれしく思っています。本来ならば、直接お礼を申しあげねばなりませんが、このように弱っておりますゆえご容赦くださいませ」
と消え入りそうな声で宮に答えました。その上品で洗練された物言いに、宮は大変感心します。
まもなく夜がやってきました。山の端からほのぼのと月が昇り、月影にたたずむ兵部卿宮は例えようもないほど美しい、と女房たちがほれぼれと覗き見ています。直衣の着こなし色合い、どれをとっても普通の人とも思えない風情に、「世の中にはこんな月の光の化身のような御方もいらしたのねえ」と夢中になって誉めそやしています。
兵部卿宮は、普段見慣れている広く豪華な邸とはまた違った質素なつくりの家を眺め、
「ねえ宰相の君。こんなに寂しいところにお住まいになられて、心細さはいかばかりだろう。胸が締め付けられそうだよ。はるばる山里に出向いた私の真心をわかってもらえたかい?こちらの尼上には、くれぐれも私のことを印象付けておくれよ?お願いだ」
と宰相の君に念を入れて言い含めます。
「ああ、もう帰らなければ。
ほととぎす 君が垣根に つたひ来て 鳴きてぞ帰る 逢はぬ思ひに
(ほととぎすは、逢えぬ思いを垣根で訴えては帰っていくのですよ) 」
卯の花垣根を打ち眺めて帰ってゆく兵部卿宮。名残惜しそうに見送る女房たち。宮が寄りかかっていた真木柱もしとねも宮の移り香が染みて、人目もまれな山里の女房たちは、
「まるで天人が降りてこられたような」
と大騒ぎなのも無理はありません。尼君も、
「すばらしい御方もいたものですね。あんなにすばらしい御方なら、たとえ仮そめの逢瀬でも、たとえそれが年に一度の七夕の逢瀬であっても、夜通し訪れをお待ちしたいもの。私の大切な姫もこんな尊い御方に縁付けて、安心してあの世に行きたいものですよ」
と感極まって泣くのでした。
屋敷に戻った宮は、さっそく山里に手紙を出します。
『尼上さまのお加減はいかがですか?夜の間も案じています』
こまごまと心のこもった言葉が書き連ねてあり、最後のほうに、
『錦木を 思ひ立ちぬる 甲斐もなく さて朽ちねとや 我が衣手は
(やっと決めた想い人なのに、このまま朽ちてしまえという事ですか)
…夜ごとに薪(たきぎ)の束を愛しい女の門に立てて、千束めに女を諦めた男の話がありますが、私もそうなる運命ですか?あれこれ心を乱しても、所詮は無駄なことなのでしょうか』
としたためられています。流れるような美しい手蹟は、山里に住む女たちが目にしたこともないようなすばらしいものです。
「ご返事は姫さまが直接なさいませ。せっかくの機会ですから」
と宰相の君が勧めますが、姫は手紙に見向きもしません。お返事に手間取るのも宮に失礼なので、仕方がないので宰相の君が代筆しました。
『数ならぬ 身には浮き木の 橋なれば 文見るさえに 危ふかりけり
(浮き木橋のようなはかない縁。手紙を見るのも恐れ多いことです)
年寄りの病状が思わしくありませんで、見捨てる事も出来ず…
「ありがたきお言葉に、露のような命ものびる思いが致します」と、尼上も申しております』
そのように返しました。
屋敷で返事を待ちかまえていた宮は、宰相の君の代筆の手紙を見てがっかりです。
「あーあ、ほんのひとくだりでいいから姫君自身の手蹟を見てみたいよ」
と恋焦がれる宮。そこには、都中の女人たちの賛美の的となっている才色兼備の貴公子の姿はなく、「一文字さえ見せてはくれない、なんと冷たい姫よ」とふり向いてくれない切なさに身をよじる、若い男の背中があるばかりなのでした。
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