第39話
「お疲れ様です、存瀬くん」
俺が体育館の喧騒に疲れ、誰もいない教室に戻り一人自分の席で惚けているところにその人物は訪れた。
「……氷見沢か。俺に何か用か?」
確か今は、俺たちのクラスの野球の試合が行われているはずだ。人気者である氷見沢は当然応援に言ったものだと思っていたが、なぜわざわざこのタイミングで俺なんかに話しかけにきたのだろうか。
当然俺には思い当たる節なんて……いや、あるな……。
「用……というほどでもないですが、私はただ、存瀬くんの頑張りを讃えたくて来ました」
「え、それだけ?」
「そうですが……?」
氷見沢は何のことかさっぱりわからないという様子であり、どうやら俺の杞憂だったらしい。
「そういうことなら、俺もちょうど氷見沢に改めて礼をしたかったところだ。昨日は助かった」
「いえいえ。ほんの少しでもお役に立てたなら何よりです」
氷見沢はほんの少しと言うが、実際あの試合の半分は氷見沢のおかげで勝てたようなものだ。あの作戦は俺のシュートが決まってこそ、もう半分の、丹生をやる気にさせる結果に繋がったからな。
「そういえば、氷見沢の方はどうだったんだ?」
「私たちも初戦は勝ちました!」
「そうか。まあ氷見沢がいるんだから、そっちの方は心配するまでもないよな」
「私のことを高く評価してくださるのは嬉しいですが、実は先ほどの試合はとてもいい勝負で、負けてしまうかもとヒヤヒヤしたんですよ?」
「そうなのか」
体育の練習試合の時から氷見沢の一騎当千ぶりには目を見張るものがあり、この調子であれば本番も余裕で勝ち抜くだろうと予想していただけに俺は少し驚いた。
「私たちの初戦の相手もDクラスだったのですが、詩苑ちゃんを中心にチーム全員が一致団結していて、正直なところ試合に勝って勝負に負けた気分です……」
「へぇ、眠崎が」
俺が言えたことではないのだが、彼女も俺と同様、運動が得意なタイプではないと思っていたが……。いや、俺が人一倍練習をしたように、眠崎も相当な練習をしたのだろう。
やはり彼女には俺と似たようなところがあるようで、俺は友人として少し嬉しさを覚える。そして、そんな感情から俺にとっては何の気もなしに飛び出した次の一言で、事態は一変することとなる。
「俺も見たかったな、その試合」
「それは、詩苑ちゃんがいるからですか?」
「……え?」
先ほどまでののんびりとした空気を裂くような、氷見沢からの予想外の質問に俺は一瞬たじろぐ。
「この間の体育の授業中に行った練習試合の時も、和泉さんと一緒に詩苑ちゃんを応援していましたよね?」
「ああ、確かにそうだけど……」
というか気づいていたのか。
……あっ、まさか。俺が氷見沢に練習に協力してもらいながら、他クラスの眠崎を応援しようとしていることに怒っているのか?
クラス思いの氷見沢ならあり得る話だ。確かに、俺も氷見沢がしてくれたように、クラスの勝利を第一に考えるべきだったと思い直す。
「なるほど、すまなかった氷見沢」
「えーと、何がなるほどなのかわからないですけど、存瀬くんは多分何か勘違いしていると思いますよ?」
「え、そうなのか?」
「ええ。私は怒っているわけではなく、単にその……、存瀬くんは詩苑ちゃんとはどういった関係なんでしょうか?」
なんだそんなことか、と俺は胸を撫で下ろす。氷見沢は前のイベントで眠崎と仲良くなっていたし、さらに仲を深めるために彼女の交友関係が知りたいと言ったところだろう。
そういうことなら、俺も丁寧に答えてやろう。
「眠崎とは委員会が一緒でな。趣味が合うのと、隣のクラスだからシフトが被るということもあってそれなりに仲良くしてるってわけだ」
「なるほど……。ちなみに、趣味と言うのは?」
「なんと言ったらいいか……。まあ簡単に言えば、喫茶店、だろうか?」
俺の答えに氷見沢は、普段の彼女らしからぬ、心底驚いたような素振りを見せる。
「えーっと、もしかして、眠崎さんとも例の喫茶店に?」
例の喫茶店というのはラニのことだろう。ここは正直に話すと面倒なことになる予感がするが、今ここで俺が隠してもいずれ眠崎から伝わり、余計面倒なことになりそうなので隠すべきではないだろう。
「ああ、そうだが……」
「なるほど、それで眠崎さんもアルマさんのことを知っていたんですね……。っは、ということは……」
氷見沢は小声で一人考え事を始めたが、俺には何を言っているのかほとんど聞き取れない。ただ、何やら俺にとって都合の悪い言葉が飛び交っているような気がするのは気のせいだろうか?
俺は氷見沢が考え事に夢中になっている間に、ひとまずその場を離れることにした。これ以上彼女と会話を続けると、なぜか俺の平穏な学校生活が崩れ落ちる音が聞こえる気がしたから。
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