番外編No.1

「私のことはもうほっといてよ!」


 始業式の日の朝。母親にそう言い放って、私、氷見沢冬紗ひみさわかずさは家を飛び出した。一応、学校へ行く用意はしてきたけど、今は学校にも行きたくなかった。


 それに、さっきは冷静さを欠いていて、今日の始業式が午後からなのをすっかり忘れていた。スマホも財布も忘れてしまったけれど、今から家に帰るのは無理だ。


 とりあえず、今は一人で落ち着ける場所に行きたい。できれば、あまり人がいないところで。


 ふらふらとあてもなく歩いているうちに、近くに公園があるのを見つけた。その公園は、今はあまり人が来ない小さな公園だった。この日差しから身を隠すのにおあつらえ向きな東屋もあり、一休みするにはちょうど良い場所だった。


 この時は本当に一休みするつもりだったのだ。


 それが、次第に家や学校での嫌なことを思い出しているうちに、段々と何もしたくないという考えになっていた。気づけば、時刻はとっくに昼を回っていて、そろそろ始業式も終わるころだった。


 それでもなお、朝のことが何度も思い出される。母にとってはいつも通りの、けれど私にとっては重い一言だった。


「二年生の評定は大切だから、今年のテストは必ず毎回三位以内には入るのよ。去年は一度だけ四位の時があったけど、あなたならできるわよね?でももし一度でも三位以内に入れなかったら塾を増やすから覚えておくように」


 今朝、朝食の時間に母は私にそう言ってきた。母にこういうことを言われるのは慣れている。


 だから、なぜ今日の朝はあんなに怒ってしまったのかわからない。春休み明けで、またあの面倒な学校に行かないといけないのかと気が立っていたのもあったかもしれない。


 今まで我慢してきた分が、たまたま今日弾けてしまっただけのことだと自分の中で納得することにした。




 いつ帰ろうかと考えながら呆けていると、突然強い雨が降り出した。幸い私はずっと東屋にいたので、全く濡れることはなかった。


「ここ、俺も雨宿りさせてもらってもいいか?」


 不意に声をかけられて、私は咄嗟に声の主の方を向いた。その男の人は何だか重そうな箱を持っていて、濡れないようにとても気を遣っていた。


 当然この場所は私のものというわけではないので、すぐに「どうぞ」とただ一言だけ返した。


 でも私は別に、この人と世間話をするつもりなんて全くなかった。


 なのに彼が、「少し話し相手になってくれないかな」と言いながら話しかけてきた。私は第一声と違う喋り方をするこの人を少し不気味に思い、警戒していた。


 でも、自分の身の上話をさせられるうちに、私はあることに気がついてしまった。多分私は、誰かに話を聞いて欲しかったんだということに。一人で溜め込んでしまった結果が、朝の喧嘩だったのだと。


 彼に食事のことを指摘されて、初めて自分がお腹が空いていることに気がついた。お腹が鳴ってしまったのは不可抗力だけど、恥ずかしいものは恥ずかしい。


 それからお店に連れていってもらい、食事までご馳走になってしまった。普段の両親と私の三人で静かに食べる食事は窮屈だけど、彼に目の前で見つめられながら食べる食事は、少し恥ずかしかったけど不思議と嫌じゃなかった。


 そして、私は彼の言葉に救われた。


「でもそれも君なんだよ。俺は普段の君がどんな人間なのかは知らないけれど、少なくとも周囲から期待されるような、輝きを持っているということはわかる」


 周囲が期待する自分を演じているだけの私を認めてくれた。それも本物だと肯定してくれたのが、私にとっては嬉しかった。


 その店員さんの名前は「アルマ」。確か、今話題の人気カフェの店員さんだと、クラスの女子たちが言っていたのを耳にした覚えがある。それに、彼女たちが言っていた通り、本当に王子様みたいでカッコいい。


 でも、この人は誰にでもこんな優しさを見せてくれるのだと思うと少し嫉妬してしまう。……って、いけないいけない。私たちはあくまでお客さんと店員さんという関係なのだから。


 でも、この関係を今回だけのものにしたくない。

せめて名前だけでも覚えてもらえないだろうか。でも、普通に名乗ってもきっとこの店員さんは人気だから私一人の名前なんてすぐ忘れてしまうだろう。


 そこで私は、せめてもの悪あがきとして、わざと。もう一度この店に来る明確な理由として。そして、名前と顔をもしかしたら覚えてくれるかもしれないと、そんな期待を込めて。

 


**



「……あなたは確か転入生の方だそうですね。昨日学校を休んでいたので、私にも自己紹介をしてもらえないでしょうか?」


「俺は存瀬柊真あるせしゅうまです。昨日からこの学校に通うことになりました。よろしくお願いします」


 


 ……転入生の方に既視感を覚えるなんて、私はまだ昨日の出来事に浮かされているのでしょうか?

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