秋の日に
住んでいるアパートの裏手に公孫樹の木が植わっているのだが、ひょんな釦の掛け違いから、コミュニケーションがとれるようになってしまった。この世界のだいたいの事象に興味がないか反感を覚えるかする僕であるが、例外的に公孫樹は少年期から好きだった。色が鮮やかで、空との境界がはっきりしているためかと思われる。元来、寡黙ながら我が強いものに共感を覚えやすい性格のため、如雨露なんかも好きである。
散歩しに公道に出る前に、なにげなく公孫樹に手を触れると、小説の進捗を聞いてきた。まずまずだと答えてみると、満足げに葉を揺らした。一枚手元に寄越してきたので、洋袴のポケットに曲がらないように入れた。部屋に帰り、辞書の間に入れると、色が少し赤らんだような気がした。可愛いやつである。女性にはとんと縁のない自分であるが、妙に植物や静物に好かれやすい性質のようだとは、幼少期から感じていた。
虎猫は恋人(というか恋猫)をつれてうちのベランダの張り出した部分を陣取っている。僕と違ってよくモテるらしい。ころころと相手が変わる。今は白猫らしい。洒落た形にくねる尻尾を持っている娘で、執筆しながらふとベランダのほうを見やれば、振り子のように揃って揺れるふさふさしたものが見られる。もっとも、それを見て喜ぶのは蒼山と妹くらいで、僕は半ば嫉妬しながら、どこかに行かないかと睨めつけているのだが、いっこう気にする素振りを見せない。
大家の浅海さんに柿を三つもらった。蒼山と妹に一つづつやり、最後の一つを文机の上に乗せる。秋という季節は好きである。寂しげなのがいい。人間本来の孤独を容易に感じることができる。妹などは早くも、早く夏にならないかとぶうたれているが、彼女のそういうところが、会社員向きだと思う。自分自身振り返ってみても、来る季節を淡々と受け入れるだけであり、季節が早く来てほしいなどというだいそれた願望は抱いたことがない。
蒼山がカレーを作りすぎたと言いながら鍋ごと持ってきたので、向かい合って消費した。蒼山は坊っちゃんであるので、ルーが非常に濃い。それを平気な顔で食べるから、元来出自が違うと実感すると同時に、味覚を疑う。こんなどろどろでなんとも思わないとは。こっそり口の中で水と調合する。まぁ、作る手間が省けただけでよしとする。最近蟻の観察をしているんだと土の入った瓶を見せてくる。やはり奴は小学生に違いない。
大家に頼まれて裏手の庭の花々に水をやっていると、ワンレングスの女性が前を通り、「綺麗な花ですね」と声をかけてきた。僕は女性と縁のない性質なのでへどもどしながら「これはサルビアでこれはセージで」などと花の説明を始めれば、女性はくすりと笑って「マメな方ですね」と言った。もう何も言えなくなってサルビアを摘み、贈呈した。女性は顔を輝かせて「ありがとう」と花に頬を寄せた。なにもかも絵になる女性である。どことなくフェルメールの匂いがしたので、真珠の乙女と内心呼ぶことにする。
架空の街を舞台にした内向的な人間の懊悩を書いた小説が佳境に入ったので、一日の大半は文机にいる。何かと邪魔が入ることがあるが、それでもできるだけ齧りついていた自分は立派であると思う。今どき原稿用紙に書く小説家なんていたのだなと、花瓶の幽霊がちゃちゃを入れてきた時だけは、振り返りいかに私がアナログと共に滅びようと心に決めているかを熱弁したが、花瓶は理解できないようだった。花瓶なんぞに理解できるはずがない。
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