第28話

 お風呂場を出て、階段を上ると、こやけちゃんがいた。

 前もこんなことあったわね。

「菜季さん。お尋ねしたいことがあるのです」

「何?」

 こやけちゃんは真面目な顔をしてる。

 燃えるような瞳がジーッとあたしを見てる。

「見たくないものまで見え、聞きたくないものまで聞こえる。それが現実、それこそが、悪夢でございます。悪夢だと割り切ってしまえば、何も怖いものはないのでございます。だって、悪夢は、ただの夢でしかないのですよ」

「そうね。夢は夢よね」

「菜季さんは、現実と夢、どちらを選びますか?」

「え?」

 これは、どういう意味なのかしら?

 現実が悪夢だとこやけちゃんは言った。

 それなら、どちらを選んでも、夢になってしまう。

 選びようがない。選択肢が同じだもの。

「その選択肢だと、どちらも答えが夢になってしまうわ」

「……貴女のような勘の良い人間は好感が持てるのです。今まで出会ってきた人間は『夢』を選んだのです。ですが、菜季さんは気付いてしまいました。そうです。これは、どちらも夢なのです。ですから、どちらを選んでも、夢に囚われたままなのです。しかしながら、貴女は気付いてしまいました。ともすれば、私は、別の選択肢を提示する必要があります」

 こやけちゃんは猛毒を含んだ可憐な笑顔を浮かべている。目を離すと首を刎ねられてしまいそうなくらいに、ぴん、と張り詰めた空気が流れる。

 妙な悪寒があたしの背中を滑り落ちていった。

「ここは夕焼けの里。誰も傷つかない、傷つけるものはいない素敵な里。ここを訪れる全てのものに、永久の安らぎをお約束します。ここは人類を眺める神霊の世界でございます。確かに存在し、存在しない理想郷。誰かに求められた楽土。閉鎖された常世。貴女は、ここにずっと居たいと思いますか?」

「今のところは……」

「今のところは?」

「ここは、戻りたいと思えば戻れるってこやけちゃんは言ってたわよね? その、戻りたいって思うまで、居たいと思うわ」

「フム。菜季さんの考えは賢明なのです。これなら、景壱君に心をうっかり奪われることは無いでしょう。いつだって悪魔は隣のテーブルにいるのですよ」

「景壱は悪魔なの?」

「イエ。景壱君は雨の眷属でございますよ。あれ? 自己紹介してもらっていないのですか?」

「う、うん」

「それなら自己紹介してもらいましょう。こっちです」

 こやけちゃんはあたしの手を引いて、景壱の部屋のドアを蹴り飛ばして開いた。

「こやけ。ノックしてから、ゆっくり開けて。ドアが壊れる。これで三回壊してるんやから」

「そうでございますね。ご主人様が、えっちな動画を見ていたら菜季さんが気まずいですものね!」

 景壱は気怠そうな溜息を吐くと、椅子を回転させてこちらに向き直した。

あたしは開いたままのドアを閉める。ひんやりした冷気が部屋を満たしていた。空気清浄機の赤ランプが点滅している。埃がたったのかしら。

「で、何の用?」

「自己紹介してください」

「ああ……そっか。してなかったな。こやけもしてない気がするけど」

「そんなことないですよ!」

「ううん。そんなことあるわ」

 あたしは少し控えめに言う。こやけちゃんは驚いた表情をした。

「それでは、私から自己紹介しましょう。私の名前は、こやけと申します。これは便宜上の呼び名であり、私の名前の一つでございます。私は人間の姿をしておりますが人間ではありません。斯様な下等生物と一緒にされたくありません。私は精霊です。夕焼けの精霊。偉大なる神霊しんれいの一種なのです。そして、こちらが私の可哀想な主人です」

「俺は景壱。……Keiichi=Soda=Candy。雨の眷属であり雨の末裔すえ。ま……雨の神様の親戚とでも思ってくれたら良い。俺は神の出来損ない。神だったもの。そして、生き人形。俺はあなたの知っての通り、太陽光に弱い。いや、この言い方やと正確ではないし、あなたの知能レベルに合わせていない。そうやな……うん。俺は光アレルギー。だから、太陽光を浴びると、こんな感じに焼けてしまう」

 景壱は左頬のガーゼを剥がしながら言う。皮膚が突っ張っていて痛そう。昨日よりはだいぶマシになってるけど……って、あれ? 今、名前……。

「ご主人様。菜季さんに真名を教えても良いのですか?」

「この人に教えたところで、何にもならない。そもそも、覚えてるかも怪しい」

「その言い方は失礼よ!」

「それなら言ってみて。俺の名前」

「けーいち、そーだ、きゃんでぃ」

「菜季さん。ご主人様の真名は一繋ぎなので、切ってはいけません」

「え? そうなの?」

「ケイイチソーダキャンディなのですよ」

「そう。ま……だからと言ってあなたは得していないし、損もしていない。きちんとした発音をしない限り、俺の名を使うことはできない」

 景壱はパソコンの横に置いてあるティーカップを手にした。たぶん紅茶が入っているんだと思う。紅茶の香りが部屋中にするもの。よく見ると、本棚に電気ケトルと紅茶缶が置いてある。もう何の棚かわからなくなるわね、本棚だけど。

「で、他に用はある?」

「特に無いわ」

 こやけちゃんがあたしの手を引っ張る。ああ、もう移動するのね。あたしは向きを変えて、こやけちゃんの引っ張るほうへ歩み始めた。

 今度はこやけちゃんの部屋。初めて入ったけど思ったよりも整頓されてる。タンスにシールが貼られてて、文字は全てひらがな。和室に似合わない星柄のボックスの中には、ねじまき式のおもちゃが入っている。

 こやけちゃんは部屋の隅に積み重ねていた座布団を持って来ると、あたしの前に置いて、ちょんちょんと触った。座れってことなのね。あたしは座る。こやけちゃんは敷きっぱなしになっている布団に座った。

「今から何しましょうか?」

「え。そんなこと言われても」

「景壱君は私達のことを見ていません。自由時間なのです。何か聞きたいことはありますか? 私は景壱君と違って代価を必要とないのです。時間だけ頂くのです」

「そうね……。あの、葛乃さんはどうなったの?」

「弐色さんのお母様のことですか? きっと元気にお過ごしだと思います」

 こやけちゃんは手遊びをしながら答える。詳しく知らないのね。こういうことは景壱に聞いたほうが良いみたいね。

 何を聞こう? こやけちゃんは弐色さんと仲が良さそうに見えたし、弐色さんのことはわかるのかしら?

「弐色さんの呪いって何なの?」

「弐色さんは、菜季さんが来てから体調が悪そうです。腕の傷だって増えているのです。剃刀でザックザクなのでございます。治ってきているところもむしゃくしゃしたのか、ザックリなのです。それが答えです」

「え。あたしの所為なの? 答えって言われてもわからないわよ」

「本当のことを言ってたのかもしれませんね」

「何が?」

「私が初めて菜季さんに会った時に、弐色さんが言ったことです。でも、彼は嘘吐きだから、真意はわからないのです。そして、呪いの答えになっていない気がしてきたのです」

「なってないわよ」

「弐色さんについて知りたいなら、私や景壱君よりも、永心さんに聞いてください」

「そうね」

 永心さんなら何か知ってそう。弐色さんがあんなに懐いてるくらいだもの。

 明日また神社に行ってみようかしら。でも、神社に行ったら弐色さんもいるってことよね? 本人がいるのに、永心さんに聞いたらどう思われるのかしら? あの人のことだから、「僕が可愛いから――」とか言いそうだけど、どうなのかしら。いっそ本人に聞いてみる?

「ふわぁ……。眠たくなってきたので、私はもう寝たいと思います。何か知りたいことがあるなら、景壱君に聞いてみてください。それでは、おやすみなさい」

「おやすみなさい」

 こやけちゃんが布団に寝転んだので、あたしは照明を消して、部屋を出て、そのまま自分の部屋へ入る。

 明日は神社に行ってみよう。まだまだ知らないことだらけ。あたしは、知らなければならない。ここで考えることを忘れてはいけない。

 あたしの名前は寺分菜季。よし。すぐに思い出せるわ。自分の名前を忘れるのもおかしい話だけど、思い出すという行為もおかしいけど、不思議な所に来てるんだから、これがきっと、ここの普通。

 あたしは、ここの普通に慣れないといけない。慣れないと、ここで生きていけない。

 ここにいる人達が死んでるのか生きてるのかもわからないけど、あたしは生きてる。それだけは自信をもって言える。

 あたしはベッドに寝転ぶ。気持ち良い。いつもの自分の部屋の自分の布団の香り。落ち着く。居場所ができたから、あたしは幸せ者なのかもしれない。そっか。これが安らぎってやつなのね。そういうことなのね。

 あたしは目を閉じる。今夜もゆっくり眠れそう。明日の朝食は何にしようかしら? 冷蔵庫にお肉が入ってたわよね。何を作れば二人は喜んでくれるかしら。

 やっぱり、人間の――……。

「菜季。まだ起きてる?」

 ドアをノックする音と景壱の声に、思考が引き戻された。

 人間は食べちゃ駄目なんだってば。危ないわ。あたし、今、何考えてたのよ。

「起きてるわよ」

「ちょっと出て来て」

 あたしは起き上がって、ドアを開く。景壱がタブレットを持って立っていた。

「何?」

「タケちゃんについて知りたいって言うてたやろ?」

 景壱はタブレットに指を滑らせて、ロックのかかっていた画面を解除した。開けた画面に映っていたのは、タケちゃん――の両親。あたしは画面を見つめる。

「いやあ。アイツが死んでくれて良かったよ。これで荷が下りたってもんだ」

「ねえあんた。これで何にもお荷物はないんだ。アタシと結婚してくれるんだろ?」

「おうともよ。殴っても平気なバカだったけど、溺れて死んでくれたから、良かった良かった」

 どういうこと? ここで景壱はタブレットの画面を消した。いったい今の会話は何?

「人間って残酷やね」

「今のは、嘘じゃないの? 想像じゃないの? 貴方が作った映像じゃないの?」

「俺はこんな映像を作ろうと思わない。これが現実、これこそが悪夢やね。そして、真実」

「そんな……」

 こんな、むごい事ってあるの? あたしをクビにまで追い込んどいて、死んで良かったなんて……。

「ああ、もう一つ見ておいた方が良いかもしれない」

 景壱は再びタブレットのロックを解除して画面を見せてくれた。

 そこには、弐色さんが映っていた。神棚か何かの前にいる。よく見ると着物は左前になっていて、腕から血が滴ってる。手首にザックリ開いた切り傷がある。また、切ったの? 何で? 弐色さんは手首の深い傷から血を小指に取って唇に塗っていた。血化粧、よね。何か呟いてるようだけど、聞こえない。

「景壱、これ、音は? もっと音量上げられないの?」

「正真正銘、の拝み屋のまじないの言葉なんて、あなたは聞かない方が良いと思うけれど……。ま……良いか。これは、あなたに関わるとっても大事なまじないやからね」

 景壱は音量の設定を切り替えてくれた。

 音が聞こえる。あと、パチパチ、火の音が聞こえてきた。

 弐色さんは手を叩く。拍手にしては異様だった。手の甲で拍手してる。手の平を裏返してるって感じだわ。

「寺分菜季が帰りたいと思わないように。現世うつしよに帰りたいと思わないように。ずっと僕の側にいるように。ずっと夕焼けの里にいるように」

 やっと聞き取れた言葉はそれ。

 おまじないをするくらい、あたしにここにいて欲しいの……?

「景壱、これって、どういう意味?」

「知りたい? って言うのも面倒臭いな。あなたって人の好意に対して鈍感過ぎるところがある。嫌われる事を怖がる余りに、好かれてる事にも気付かないとかそういう感じやな」

「じゃあ……」

「この人は嘘吐きだけれど、まじないというものは、嘘を吐くものではない。よこしまな気持ちがあると、術は完成しないとも言われているくらい。腕の確かな拝み屋がここまでする理由を、あなたは考えた方が良いと思う」

「もうちょっと詳しく教えてよ」

「俺も詳しくは知らない。けれど、これだけは言える。あの人は嘘吐き」

「わかんないわよ」

「わからない方が良い時もある。あなたの場合は、特にそう。睡眠の邪魔をした。おやすみ」

「おやすみ」

 景壱はくるぅり、操り人形のように回って自室に戻った。あたしも部屋に戻って再びベッドに寝転がる。

 本当にどういうことなんだろう。明日は神社に行くしかないわね。

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