第17話
「にーさま、おふろわいたよ」
「ありがとう。彩加は菜季と遊んでてね」
「はーい!」
弐色さんは部屋を出て、入れ違いに彩加ちゃんが部屋に入る。
今までお風呂を見てたのかしら? もしかして、ここのお風呂って、自動でお湯が止まらないやつ……?
「なきちゃん、にーさまにうらなってもらったの?」
「勝手にされたのよ。大凶だったわ」
「よかったね。これいじょうわるいことはおきないよ。きゃははっ」
「それなら良いんだけど」
彩加ちゃんの笑い方は弐色さんと同じだから、ちょっとイラッとする。
あたしは改めて部屋を見渡す。
そういえば、あたしが最初にいた部屋には鏡台や化粧道具があったけど、ここには無い。タンスの上に置かれた市松人形がちょっと怖いわ。
「ねえ、彩加ちゃんは、弐色さんの……子供なの?」
「あーちゃんのにーさまは、にーさまだよぉ」
尋ね方が悪かったかしら。意味が通じていないみたい。
顔が似ているから子供なのかなって思ったんだけど、お父さんのことを「にーさま」とは呼ばないかしら? ということは、妹なのかしら? 年の離れた妹?
そういえば、葛乃さんって、けっこう若かったような気が……いくつだったのかしら。そもそも、弐色さんっていくつなの? あたしよりは年上だと思うんだけど……。
「にーさまはね、とってもきれーなんだよ」
「う、うん。それはわかるわ。綺麗だと思うもの」
黙っていたら、って付け加えてあげたい。
弐色さんは黙っていたら、とても綺麗なお兄さん。
美形ってああいう人のことを言うんだと思う。女物の服を着ていたら、女と言っても信じてもらえそうなくらいに線が細い。声で男の人ってわかったけど、黙っていたら、お姉さんでも通りそう。
ただ、性格が悪い。とてつもなく悪い。
ああ、思い出したらイライラしてきたわ。何であたしの歌をあんなにヘタクソだって言って笑ったのよ。おまけに、胸しか取り柄がないって何よ。
「ああ、もうムカつく!」
「なきちゃん、あんまりおこったら、めっ! だよ」
「え、ええ、ご、ごめんなさい」
つい声に出しちゃってた。
彩加ちゃんはにこにこ笑っている。自然の笑顔だ。とっても愛されてる子の可愛い笑顔。弐色さんの笑い方とは全然違う。
やっぱりあれは……作り笑いだと思う。
無理矢理にでも笑って、好かれようと必死の……。怒りがすーっと引いていく。
可哀想と思うことが可哀想なのかもしれない。他人との接し方がわからないから、あんな態度を取っちゃうのかもしれない。
そう思えば、イライラもちょっとマシに……ならないわよ!
やっぱり思い出すだけでムカついてしまう。
だめだめ。小さい子がいるのに、怒っちゃ駄目。わかってるけど、わかってるけど!
「にーさまね、さみしいっていってたよ。だれにもあいしてもらえないって。だれにもすかれないって」
「え、えーっと?」
「なきちゃんは、にーさまのことすき?」
彩加ちゃんは曇りの無い目でまっすぐにあたしを見る。
うっ、小さい子の純粋な瞳でこんな質問をされると困る。
何て答えたら良いか困ってしまう。正直、若干、嫌いかもしれない。
だって、ムカつくもの。でも、放っておくことはできないような気もする。だって、とても、寂しそうに見えたから。ずっとひとりぼっちだったってわかる。
だからって、あたしの歌をヘタクソと言ったことやいきなりキスしてきたことを許そうとは思わない。だって、ムカつくから!
でも、ここで「嫌い」って言ったら彩加ちゃんを傷つけてしまうと思う。弐色さんのこと心から大好きって感じがするもの。全身から「好き」ってオーラが出てるように見えちゃう。仲が良いって良いわね。
……そういえば、あたしにも弟がいたんだったわ。
「ねー、ねー、なきちゃん、にーさまのことすき?」
「え、ええ。好き、よ」
「僕と彩加に気をつかって、そんな嘘吐かなくて良いよ」
背後からの声に驚いた。弐色さんがクスクス笑っている。
お風呂あがりだからか、白檀の香りはしない。元からカラスの濡れ羽色をしていた艶やかな髪が、濡れて、更に鮮やかな紫光の黒を強めていた。
顔をじっと見ると、にこりと微笑まれた。
「なぁに? すっぴんの僕も格好良いし美しいから近くで見たくなったの? まあ、僕の方がキミの何百倍も可愛いから仕方ないね。キミは胸の大きさしか取り柄が無いものね」
「違うわよ!」
これで何度目になるかわからない。
ただでさえ思い出してイライラしていたところに、追い打ちをかけるような言葉を浴びせられ、あたしは勢いよく弐色さんの左頬を叩いてしまった。
彩加ちゃんが驚いて、ただでさえまん丸で可愛い目を更に大きくまん丸にしていた。
虐待されていた人を何度も叩いてしまうなんて、教育者として、あたしはとても悪い先生だ。
でも、これは、叩きたくなるわよ。体罰反対なんて言ってられないわ。
弐色さんは座ってグズッている。放っておけば元通りになることもわかってる。だから謝らないわよ。だって、ムカつくし。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」
今までと反応が違う。
あたしがビックリしていると、弐色さんは左腕を引っ掻き始めた。
ボタボタ……血が流れ出る。止めなきゃ。あたしは彼の右腕を掴む。弐色さんはビクッと跳ねると、あたしの手を振りほどいて後ずさった。
目の焦点が合っていない、と思う。片目しか見えてないけど、きっと、あたしが見えていない。何処か別の景色を見ているような、そんな感じ。怯えた表情をしている。
「や、嫌や……叩かないで……僕……何も悪いことしてへんのに……何もしてへんのに……してへんのに」
「弐色さん。あの――」
「どうして? どうして僕は叩かれるん? どうして僕は死ねないん? どうして?」
「弐色さん」
「僕は人を愛せない。僕は人を好きになれない。僕は人に愛されない。僕は人に好かれない。僕はどうして――ゲホッケホッ!」
急に咳き込んだかと思ったら、畳に突っ伏した。喉がヒューヒュー鳴っている。喘息みたい。喘息なら、常備薬とかあると思うんだけど……。
「彩加ちゃん、弐色さんが飲んでる薬って何処にあるかわかる? 薬箱ってある?」
「おくすりはあそこにあるよ。にーさまどうしちゃったの? だいじょうぶ?」
「ありがとう。大丈夫よ、多分」
彩加ちゃんが指さしたタンスの上に救急箱を見つけた。
あたしは台所から踏み台を持って来て、救急箱を取る。あった。吸入器。
でも、この状態で吸入でき……そうにないわね。えっと、こういう時は、座らせたほうが良かったはず。
肩を掴むと怯えた表情をされたけど、とりあえず座らせることができたわ。でも、あたしが誰かわかっていないみたい。救急車を――と思ってスマホを持ってあたしは止まった。
ここに救急車なんて来るの? まず、どう説明すれば良いの? とりあえず電話してみよう!
無情にもツーツーツーという音しか聞こえない。あたしが慌てている間に、ヒューヒューという喉の音は消えていた。……治まったのかしら? 座らせるって選択は正しかったのね。良かった。
「僕なんて生まれてこなければ良かったのに……」
ぼんやりした口調で弐色さんは言った。
何処を見ているんだろう。左腕の傷に血が滲んでいる。右腕にも赤い筋が走っている。まだ新しい傷みたい。生傷、よね……。
虐待児との接し方は、授業で習ったことがある。発作のそもそもの原因はあたしなんだけど、謝っても今の状態の弐色さんには届かないと思う。それなら――……。
「大丈夫よ。貴方は何も悪くないわ」
怖がられないように、あたしは弐色さんを抱き締める。
ラベンダーとレモングラスの香りがする。シャンプーの香りかしら。なんだかあたしのほうが落ち着くような香りだわ。ぎゅーっと抱き締める。こういう時は、安心させてあげれば良いって聞いたことがある。
「大丈夫よ。大丈夫だからね。貴方は何も悪くないからね」
「じゃあ、何が悪いん?」
「それは……わからないけど、貴方は悪くないわよ」
「へえ。わかっちゃらんのやね」
弐色さんって、関西人? と思ったけど、そういえば、葛乃さんが関西弁だったわね。ゆっくりした雰囲気だったから京都弁かしら。
弐色さんの目の焦点が合った。良かった。落ち着いたみたい。あたしは離れて座る。
「にーさまだいじょうぶ?」
「大丈夫だよ。ごめんね、驚かせたね」
「だいじょうぶなら、あーちゃん、あんしん!」
「うん。大丈夫だよ。大丈夫」
彩加ちゃんは弐色さんに抱き着いている。
弐色さんは彩加ちゃんの頭を撫でている。やっぱり、仲の良い兄妹なのよね……? 親子ではなさそう。
見ていると弐色さんと目が合った。笑顔が消えている。これが素の表情なのかしら?
「僕の左目のこと気にならないの?」
「気になるけど、眼帯をする程度には何かあるんでしょ?」
「そうだね。そうだよ。僕の秘密を見せてあげる」
弐色さんは眼帯を外す。
何処にも怪我の跡は無い。火傷していた訳じゃなかったのね。
ゆっくり、瞼が開いた。それは――宝石のように赤い瞳だった。
まるで白兎のように真っ赤な瞳。こやけちゃんの目よりも明るい色の、瞳。瞳孔さえも、なにもかも赤い。あたしはその目の美しさに見惚れていた。
景壱のように透き通ってはいないけれど、宝石のように綺麗。
「あんまり見ると、死んじゃうよ」
「え? どうして?」
「僕の美しさでね。きゃははっ」
弐色さんは笑いながら眼帯を着けなおす。瞬間。あたしの視界がぐらついた。畳に突っ伏しそうになったところを、彼が受け止めてくれた。胸を掴まないでよ。すぐに離してくれたから、本当に助けてくれただけみたい。弐色さんは手をグーパーしている。な、何なの。その動き。
「すごいね! マシュマロおっぱいだね!」
「うるさい!」
「五月蠅いことなんて言ってないんだけどなァ」
こういう会話をつい最近していたような気もする。デジャヴかしら? いいえ。きっとしていたわ。
弐色さんはクスクス笑っている。何だか笑い方が変わったような気がするわ。仮面のような笑顔じゃない。自然な笑顔。彩加ちゃんもつられて笑っていた。
「さて、菜季。キミはどうして助けを求めないの?」
「へ?」
突拍子もなく質問を投げられて、拍子抜けした声が出た。
助けを求めるって言っても、あたしは助けを求めるようなことが無い。
だって、あたしには居場所が無いんだもの。家族もあたしのことを嫌っているだろうし。おばあちゃんもいないし。
「こやけが、どうしてキミを僕の家に預けたかを考えた方が良いかもね」
「わからないわ。あたし、気絶している間にここに運ばれたんだもの」
「さっきも言ったけど、わかろうとしてないでしょ。ほら、殴られる前に、何かしてた?」
「家族の話をしていたわ。景壱がパソコンで何かをあたしに見せようとしたんだけど、こやけちゃんに目隠しされて、多分、殴られて……」
弐色さんは人差し指を唇にあてて考えている。爪には真っ赤なマニキュアが綺麗に塗られている。そんなところをじっくり見る余裕が出てきた。
「これは僕の憶測だけど、こやけは、キミを景壱に壊されたくないんだね」
「どういうこと?」
「きっと、景壱はキミの家族の様子を見せてくれようとした。でも、それはキミにとってツラい現実だった。こやけはキミが傷つかないようにキミを気絶させた。方法はもう少し考えて欲しいくらいに荒っぽいけどね。たんこぶできるくらいだし」
「そ、そうね」
「まあ、僕は嘘吐きだから、信じない方が良いけどね」
弐色さんはそう言うと笑った。
カァカァカァ!
カラスの声が部屋中にこだました。弐色さんの表情は変わらない。彩加ちゃんが廊下に出て、何か持って戻ってきた。風呂敷? カラスの声も止まった。
彩加ちゃんは弐色さんに風呂敷を渡す。弐色さんはそれを見て、すぐにあたしに風呂敷を渡してきた。
何か包まれている。重くないけど、軽くもない。いったい何だろう? あたしはゆっくり風呂敷を開く。
「こやけから着替えが届いたよ」
「ねえ、そういうことは先に言ってくれない?」
「僕も開けるまでこやけから何か送られてきたってことしかわからないよ。ああ、手紙がついてるね。『明日の夕方まで預かっててください』だってさ」
「預かっててくださいって、あたしはペットじゃ――」
「ペットだよ。この赤いリボンがある限りはね」
弐色さんは食い気味に言う。そうね。ペットなんだわ。あたしは赤いリボンを見つめる。これがある限り、あたしはペット。
「それより、お風呂に入ってきたら? 着替えも届いたことだしさ。彩加も一緒に入っておいで。マシュマロおっぱいを見れるよ。母様よりも大きいよ」
「わーい! ましゅまろおっぱい! ましゅまろおっぱい!」
さすがに小さい子を殴るのは駄目。
あたしは握り拳を震わせる。弐色さんを殴るのも駄目。駄目だけど、すっごく殴りたい。
「覗かないわよね?」
「きゃはっ。覗いて欲しいの? ご要望にお応えしても良いよ?」
「そんなわけないでしょ!」
勢い余って再び叩きそうになったところをグッと堪える。
駄目。さっきみたいなことになったら、大変だもの。
あそこまで酷い症状になるなんて、どんな虐待をされてたんだろう。
腕に刻まれた傷以上には……あたしが考えても駄目ね。
「彩加。菜季を案内してあげて」
「はーい! なきちゃん、こっちだよ!」
「覗かれないか心配なら扉に鍵をかけておきなよ。僕はここにいるから。はい、行ってらっしゃい」
お風呂に入れば、気分も変わるかもしれない。
廊下の一番奥にお風呂場はあった。タオル類が整頓されて置かれている。几帳面なのね。弐色さんが言っていたので、一応、鍵をかけておいた。わざわざ言うくらいだから、覗く気は無い、のよね? 普段は彩加ちゃんと一緒に入ってるのかしら? それにしても、この二人暮らしってのもなかなかおかしいわね……。遊びに来てるだけとか、かしら?
血の付いた衣類は、漂白剤をお借りして染み抜きした。さすがに洗濯機回しちゃ駄目かしら? 中を覗いても何も入ってない。このままにしておくのも悪いからやっぱり洗っちゃおう。弐色さんには後で報告しておけば良いでしょ。
浴室に入ると、湯気がすぐにあたしの身体を湿らせた。少し熱めかもしれない。彩加ちゃんの髪と身体を洗ってあげてから、自分も洗う。シャンプーは黒髪が艶やかになるという種類のやつ。これ、女性用じゃないかしら? と思うんだけど、シャンプーに女性用も男性用もない? どうなんだろう。
お風呂からあがって、あたしは居間へ足を進める。洗濯したことを言わないと。笑われる予感しかしないのよね。
障子を開いて、あたしは固まった。
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