第16話
頭がガンガン痛む。後頭部を押さえながら、あたしは身体を起こす。布団に寝かされてたみたい。
ここは何処かしら? あたしはどうして寝てたのかしら?
辺りをきょろきょろ。畳の傷んだところから芯だと思う、そんなものがはみ出していた。赤茶けた色のシミもある。こやけちゃんの部屋かしら? でも、こやけちゃんの部屋は襖だったはず。この部屋は障子。多分、三面鏡だと思う。化粧道具の入った箱が隣に置いてある。さっぱり状況が理解できないわ。あたしは頬を抓る。痛い。夢ではないみたい。
ふわり、と香りが漂ってきた。白檀の香り。……白檀の香りで思い出すのは――……。
「おめざめー?」
「彩加ちゃん……よね?」
「そう! あーちゃんは、あやかだよー。こやけちゃんがね、『すこしのあいだ、
「こやけちゃんが……」
「にーさまはね、もうちょびっとしたらかえってくるの。あーちゃんね、ひとりでおるすばんしてるの!」
ということは、ここは弐色さんの家なのね。
あたしはここで思い出した。
こやけちゃんがあたしの目を隠して、それから、多分、殴ってあたしを気絶させた。後頭部にたんこぶができているから、そうだと思うわ。たんこぶができるってどんな力してるのよ。でも、どうして殴ったりしたのかしら? 景壱はあたしに何を見せようと……聞かせようとしたの?
「あれ? どうして菜季が僕の家にいるの?」
「にーさまおかえりなさい! こやけちゃんがね、あずかってほしいって!」
「ただいま。へえ……もう飼うのに飽きたのかな」
「でも、こやけちゃん、なきそうだったの」
「それは、おかしいね」
彩加ちゃんは弐色さんに駆け寄る。弐色さんはそんな彩加ちゃんを抱き上げた。こうやって見たら、若いお父さんとその娘って感じだ。
弐色さんはあたしを見ると溜息を吐いた。うっ、いったいどういう意味の溜息なのよ。
「キミさ。僕の布団を血だらけにしないでよね。血を落とすのって大変なんだからさ」
「あたしは怪我してないわよ。頭は殴られたからたんこぶできてるけど」
「怪我じゃないよ。言わないとわからないの?」
弐色さんは下を指差す。あたしは視線を落とす。瞬時に理解した。
そして、あたしは恥ずかしさで顔を隠す。弐色さんは彩加ちゃんを下ろすと、袖を一振り。そうしたら、コウモリが数匹飛んでいった。
「僕の可愛い式神がコンビニでアレと下着を買ってきてくれるから」
「コ、コンビニって何処にあるの?」
「商店街の端っこだよ。彩加、菜季にビニールシートを持ってきてあげて。血だらけのまま布団に座り続けられたら困るよ」
「はーい!」
彩加ちゃんは嬉しそうに笑うとすぐにビニールシートを持って来た。あたしはそれを敷いて座る。
弐色さんは相変わらずの笑顔であたしの前に座った。
仮面を貼りつけたような笑顔。とっても、魅力的に見える笑顔なんだけど、なんだか妙な違和感がある。
「さて、こやけがキミをここに預けてくるってことは、キミ、何かしたの?」
「何もしてないわ」
「……そう。昼に会った時よりも人間臭さが消えてるね。だいぶ
ドキッと、心臓が跳ねた。
そうだった。あたし、食べたんだったわ。あれは夢なんかじゃなくて現実の出来事。
あたしは、にんげんを――……。
「きゃはっ。本気にしたの? キミって、表情がわかりやすくて面白いね。でも、残念なお知らせをしてあげる。本当は、食べていないかもね。景壱は、思い込ませるのが得意なんだ。人間の心理を把握して、条件を揃えてしまえば、勝手に思い込むことを知っている。そして、自らの言葉で確信させる。だから、キミが何を食べたかは、景壱にしかわからない。こやけも景壱の言葉には騙されるからね。真実を知っているのは、彼だけ。その真実も、いつだって残酷ではない。時には優しさが混じっている。饒舌に甘い言葉で人間を惑わして思い通りに操り、心を奪っていく。それが景壱の一番面倒なところだよ。けっこう面白いんだけどね。彼の知っていることは、検索サイトを開くよりも速く、正確に教えてくれるから」
「でも、あたしは髪の毛のようなものと、服を見たのよ」
「本体は見たの? 骨とかあったでしょ?」
「見ていないわ」
「じゃあ、違う可能性もあるよね」
「それでも――」
「キミは、人間を食べたっていう事実が欲しいの? 『人間を食べて嬉しい!』って思っているの?」
「違うわよ! もう、あたし、何を信じれば良いのかわからないわ!」
「僕を信じて。と言いたいところだけど、僕は嘘吐きだから、信じない方が良いよ」
その時の弐色さんは、笑顔じゃなくて、少し寂しそうだった。
……嘘を吐いていないのかも。
コウモリがコンビニのレジ袋を持って帰ってきた。弐色さんに笑顔が戻って、コウモリの持って来た品物を彩加ちゃんに渡していた。
「はいどーぞ!」
「あ、ありがとう」
「おてあらいはこっちだよ!」
「僕の家に汚物入れなんて無いから、そのレジ袋に入れてね」
「うっ、うるさいわね!」
「何も五月蠅いことなんて言ってないんだけどなァ」
彩加ちゃんに手を引かれて、お手洗いに辿り着いた。
この家には弐色さんと彩加ちゃんしか住んでいないみたい。
蛙が庭でケロケロ鳴いている。もうすっかり夏なのね。そろそろセミも出てくるかしら。
渡された物に着替えて、あたしはお手洗いから出る。彩加ちゃんの姿は見えなかった。
さっきいた部屋に戻っても、誰もいない。何処に行ったの?
二人で住むには十分に広いと感じる純和風家屋。田舎暮らしのテレビ番組でよく見るような造りだわ。
静かな廊下を歩くと、庭に紫陽花が咲いているのが見えた。隣には朝顔が俯いている。お花が好きなのかしら。
明かりのついている部屋を見つけたので、あたしは障子を開く。
「なきちゃんもおゆはんたべる?」
「あたしは良いわ。シチューを食べたから」
「にーさまのごはんおいしいよ! こんどたべてね! いただきまーす!」
「慌てて食べないで、よく噛んで食べるんだよ」
台所と居間が繋がっているのね。昔ながらって感じ。
おひつにご飯が入っていて、弐色さんはそこからご飯をよそっていた。
今日の夕食は、肉じゃが、味噌汁、たくあん、ひじきの炒め物。
きちんと一汁三菜の料理に驚いたし、なによりとても美味しそうに見える。
肉じゃがの人参が梅の形に切り抜かれているから、彩加ちゃんは喜んで口に入れていた。
なんだか微笑ましい。本当に家族みたい。……家族?
「菜季。何か思い出した?」
「あたし、おばあちゃんを――」
「ああ。これのこと? 彩加がこやけから預かっているよ」
「なきちゃんのたいせつなものってきいたよ!」
「この骨壺をどうするかって話で、実家に送るってなって、でも、あたしは――」
あたしは、どうしたんだっけ? どうして思い出せないんだろう?
家族の顔さえはっきり思い出せない。あたしには確かに家族がいるのに……いたはずなのに。どうして?
「きゃはっ。そんなに深刻な顔をする必要は無いよ」
「どうして笑っていられるのよ!」
「言ったよね? 僕はキミがどうなっても損も得もしない。キミが死のうが生きようがどっちでも良い。ああ、キミの所為で僕の布団が血まみれになったから損してるかな」
「そ、それは、謝るわ。謝るけど……ごめんなさい」
「押し入れに新品があるから、あれは棄てるよ。交換時期だね」
「うぅ……」
「ごちそうさまでした!」
「おそまつさまです。彩加、お風呂をわかしてきて」
「はーい」
彩加ちゃんは、自分の分と弐色さんの分の食器を台所に持って行って、踏み台に乗り、食器を流しに置いて、出て行った。とても良い子ね。
「それで、キミはどうしたいの?」
「どうしたいって言われても、どうしたら良いのかわからないのよ。あたしは家族の事も思い出せないし、おばあちゃんも……こんな事になっちゃったし」
「こやけの
「その、『ペット』って言い方やめてもらえない?」
「きゃはっ。善処してあげる。……そういえば、キミ、僕に占って欲しいんだったね。今はとっても暇だからしてあげるよ」
「占いなんて――」
「信じる者は救われる、かもね」
弐色さんは三日月を横倒しにしたかのような笑顔を浮かべながら、長い竹ひごのようなものを手に持った。
「それは何なの?」
「
「ぜいちく?」
聞きなれない言葉。あたしには長い竹ひごにしか見えない。筮竹という長い竹ひごは細長い筒に入れられている。ちゃぶ台の上に、正方形の板と細長くて
「見るからにキョトンとしているね」
「だって、何が何だかわからないもの」
「僕は優しいから説明してあげるよ。これは筮竹。細い竹の棒だよ。これで五十本ある」
「へ、へえ」
「それで、この筒が
「だって、説明されてもわからないもの」
「キミの場合は、わかろうとしないからでしょ。最後にこれは
「面倒臭いならしなくても良いわよ」
何か面白いこと言ったかしら?
弐色さんはあたしの前でケラケラ笑っている。しばらく見ていると笑いが止まった。キッとなった切れ長の瞳があたしを見る。
景壱とはまた違った怖さがあった。何かどんよりとした闇のようなものが巣食っている、みたい。
「キミ、名前は?」
「知ってるのに聞くの? 菜季よ」
「名字は?」
「名字、名字……あたしの名字は……」
あたしは慌ててポケットを漁る。保険証が出て来た。
そう。あたしの名前は、寺分菜季。
どうして忘れてしまうんだろう。
「名字は寺分よ」
「では、寺分菜季。始めるね」
何でフルネームで呼ばれたのかしら?
弐色さんは筮竹を右手で持って、額の前で目を閉じている。何しているのかしら? 精神統一?
そういえば、彩加ちゃんがお風呂をわかしに行ったきりね。いつ帰って来るのかしら。
静かな部屋に筮竹を置く音がカチッと響いて、あたしは驚いた。
引き抜かれた一本が筮筒の中に入れられていた。次に、弐色さんは筮竹を扇状に開いて、右手に二分した。右手に持ったやつは卦肋器に掛けられている。その中から一本取って、左手の小指と薬指の間に挟んだ。
なんだか複雑そうね。どうなったら終わりなのかわからない。
「ただ見ているだけで暇なんでしょ? それなら、良いことを教えてあげる。この世で、一番短い
「名? 名前がどうして――しゅ? とかいうやつなの? おばあちゃんも言ってたわ」
「呪いって書いてしゅだよ。例えば、夕焼けとか雨とか闇とか海とかそういう名も呪の一つだよ」
弐色さんは筮竹を分けながら話を続ける。卦肋器に筮竹がだんだん増えていってる。
「難しくてよくわからないわ」
「呪とは、要するに、モノを縛ること。例えば、キミの名前。キミも僕も同じ人間という種族だけど、キミは菜季って呪を、僕は弐色って呪をかけられている人ということになる」
「それなら、あたしに名がなければ、あたしはこの世にいないということになるの?」
「ううん。キミはいるよ。ただ、菜季って人がいなくなるだけ」
「え? でも、菜季はあたしよ。菜季がいなくなれば、あたしもいなくなるんじゃないの?」
肯定するでも否定するでもなく、弐色さんは小さく首を振った。
そして、算木を並べて、再び同じことを繰り返している。カチッカチッと筮竹のぶつかる音が響く。
「目に見えないものがある。その目に見えないものさえ、名という呪で縛ることができる」
「どういうこと?」
「ある人がある人を妬んでいる。またある人がある人を羨ましく思っている。その気持ちに名をつけて
「それなら、あたしは――」
「キミは、寺分菜季。それ以外の何者でもない。キミは、キミの名前を奪われないようにした方が良いよ。キミのおばあさまが教えてくれた事は、本当に正しかったんだからさ」
パチッと筮竹が卦肋器に置かれた。そして算木が並べられる。
これ、どうやって結果がわかるのかしら。そもそも何をしているのかあたしはさっぱりわかっていない。弐色さんがただ筮竹を分けているだけにしか見えない。
「うん。出たよ」
「出たって何が? これ、いったい何なの?」
「筮竹だよ」
「その言葉は占いをする前に聞いたわよ」
「わかったよ。キミのとっても弱い頭でもわかるように言い直してあげる。これはね、簡単に言うと色んな工程でランダムに引いた
「聞いたことあるような気もするわ……。胡散臭い占い師がよく言うセリフって感じで」
「まあ良いや。さて、どんな結果が――
「何なの?」
「帰る道を失い迷う。天災と人災に遭う。現在のやり方では上手くいかない。つまり――大凶だね。きゃはははははははははははっ!」
「笑ってる場合じゃないでしょ!」
弐色さんは笑いながら筮竹を筮筒に片付けた。
ついでに、ちゃぶ台の上に乗っていたものが次々に片付けられていく。涙目になるまで笑わなくても良いじゃないの。本当に顔が良いだけで性格が最悪!
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