第一話(後) ノッテステラとルナディア
「よぉ別嬪さん。これから、お仕事かい。良かったら俺と飲まねぇかぁ?」
下卑た声と表情の酔っ払った大男が、幻覚のボクの姿を見て、声をかけてきていた。お仕事っていうのは何の話かわからないけど、こんな男が一人でいる女性に求めていることなんて、そう多くはないだろう。
せめて声をかけられるなら愛読する物語の様な、麗しくも格好良い、そんな人に声をかけて欲しかった。
「悪いが余は忙しいのでな。用があるのなら、他所をあたるが良い」
「忙しいってのはもう客でも捕まえたって言うのかい。良いじゃねぇか、そいつより金ははらうぜ?」
「……は? 客?」
「今晩、あんたと寝る客だろ? そんなすけべな格好をしていて、情婦じゃねぇってのは嘘だろ」
男に言われて、そして辺りの人間と自分の格好を見比べて、そこで気づいた。
身体に関する容姿は《幻影想起》で作り上げたけれども、服装は吸血種に伝わる伝統装束のままだった。
吸血種の女性が身に纏う装束は、黒いボディスーツの様な作りをしており、人類種の男を魅了するために、首から胸元や、鼠蹊部から太腿までがまるっと露出されていて酷く扇状的だ。
意識してはいなかったけれども、周りを見渡してもボクと同じ様な格好をしている者はおらず、それがわかると急に恥ずかしくなってきてしまった。だって、まぼろしのボクも本体のボクも、同じ格好をしているのだから。
それでも平静を取り繕ってこの場を離れよう。大丈夫、今こいつが見てるのはボクのまぼろしなんだ、本体は見られていないんだ。
「これは余の一族に伝わる伝統的な装束なんだ。何かを期待したのならお門違いだ。それでは」
「一族だぁ? あんたのところの家族はみんなそんな格好してるのかぁ? とんだ淫乱な家系だなぁ?」
「……あ?」
聞き間違いでなければ、こいつは今、ボクの家族は『淫乱だ』と侮辱しただろうか。確かにこの格好でこの場に来てしまったのは、ボクの落ち度だけれども、家族のことまで侮辱される謂れはない。
男は何がおかしいのか、相変わらず下卑た目線でこちらを見て笑っている。
「取り消せ。余の家族は誇り高い一族だ。貴様如きが侮って良い存在ではない」
「ぐへへ、姉妹や母もそんな格好してるなら、一族ってのは、よっぽど色ボケしているんだろうなぁ」
もう許せない。お姉ちゃんや今は亡きお母様を侮辱する事は、幾らボクが逃げ出してきた身とは言え許し難い。
この場を離れる前にこの男に何か制裁を加えてやらなければ、ボクの吸血種としての矜持が穢れる。目の前の男に叩き込んでやろうと、拳を強く握りしめる。ボクはとりわけ小柄だけれど、吸血種としての膂力を用いれば、こんな奴をやっつけるのは訳ないのだ。
「その言葉、後悔するなよ」
「ぐへへへ! なんだぁやろうってのかぁ?力づくでってのも悪くはねぇなぁ!」
「おいあんた、その辺に」
「うるせぇ! 店主はひっこんでろぉ!! おら、こっちこい!!」
店主の警告を振り切って、男は幻覚のボクの肩を掴む。普通の女性であればその凶行に萎縮してしまい、その後はもしかしたら、ひどい事になるのであろう。だけどボクの本体は男が掴んだ筈に体の下にあり、当然肩など掴まれてはいない。だからボクはゆっくりと構えた拳を。
「このぉ!!」
男の酒樽の様なお腹に叩き込んでやった。もちろん充分に手加減はしたから、まかり間違っても死んだりはしないだろう。
これでこの男はボクのあまりの力に平伏して、泣きながら非礼を詫びるだろう。まぁそこまでしたなら手打ちにしてやるか。
と思っていたのだけれど、何だか様子がおかしい。確かに死んではいないし、血を流したりもしてないのだけれど、男は苦しそうに目を見開き、唸りながらお腹を押さえて蹲っている。思ったよりボクの力が強くって、思ったより男が弱かったみたいだ。
やり過ぎてしまったかなと思っていると、男の仲間と思しき別の男達が集まってきた。この展開は好ましくない。ボクはすぐにでもルナディア嬢のところで血をいただきたいのであって、別に活劇の様な事をしたいわけではないんだ。
「おい、おまえ!大丈夫か!……この女ぁ」
「ふっ!他愛もない!主人、後は頼んだ!じゃ!!」
「待ちやがれぇ!!」
ボクを引き止めようとする男達の怒声を振り切って酒場を出て、すぐさま《幻影想起》で姿を隠し、出入り口の傍へ身を潜めた。男達が次々と酒場から出てきて、どこに行ったとボクのまぼろしを探している。『赤い髪の女』は既にボクが消してしまったのだから、彼らが見つけることはないだろう。
少しして男達の姿が見えなくなった頃、ようやく一息つくことができた。
「まったく、絡んできて、ボクの家族を侮辱して、しかもその上で弱いなんて。本当に愚かだな、人類種は」
せっかく姿を隠してしまったのだから、このまま空へと浮かび上がって、ルナディア嬢のいるリンドバールのお屋敷へ向かってしまおう。そう決めてから、ゆっくりと魔術で風を生み出して、夜空を目指した。
再び夜空へと飛び上がったボクは、緩やかな速度で目的の場所へと向かう。そしてその場所にいる筈の、リンドバール公爵家のルナディア嬢に血を捧げさせるのだ。
曰く、彼女は黄金の様な金の長髪、蒼玉よりも深く輝く青い瞳を持ち、さらに色気のある顔立ちで、身体つきも豊かなのだそうだ。
「まぁ、そんな人、そうそういるわけないよね……」
それでも、見た目の美しさは重要だ。見目麗しい存在が、ボクに媚び諂い、そして自らの血を捧げる。そういった行為こそが、ボクの様な吸血種には相応しいのだ。
加えて、彼女を狙う事にしたのは理由がある。彼女はこの国の王子と婚約関係にあるらしい。恐らくその関係の性質上、『処女』である可能性が高いのだ。
「まさか公爵令嬢と王子が婚前に、なんてないだろ……ふふ、楽しみだ……!」
一度だけ、ボクが監禁されている時に、処女の血が供された時があった。その時はあまりの美味に驚いて、しばらく他の血が飲めなくなった程だった。だからルナディア嬢の血も、美味しいに決まっている。
「ふっふっふ……さっそく処女の、それも生き血にありつけるだなんて……お、ここだなっ」
月のオブジェがあしらわれた噴水を目印に、目的地リンドバール家の屋敷へと辿り着く。近づく前に再び《幻影想起》を行使して姿を隠すと、見つからない様に窓から少しずつ中を確認して彼女の姿を探す。どの部屋にルナディア嬢がいるのかまでは知らないから、ここは手当たり次第に探るしかない。
姿を隠さなくても、もちろん人類種程度はボコボコに出来るのだけれど、わざわざこの高貴な姿を見せる程ボクは慈悲深くないし、あと酒場で結局面倒な事になったから、今日はもうそういう事はしたくなかった。
「えーと、違うな……ここも、違うか……あ、あれは……」
そうして静かに屋敷の中を覗いていると、三番目に目をつけた角部屋の、開かれている窓の向こうに、金髪碧眼の麗しい女性、ルナディア=リンドバールの姿があった。
まさか三つ目にして見つけて、しかもおあつらえ向きに窓まで開かれているなんて。これは最早、ボクを迎え入れているといっても差し支えないのでは?
そう思い、格好良く室内に入る為、少しだけ身なりを整えて準備をする。今回は力は使わず、ボク本来の偉大な威容を見せつけてやるつもりだ。
長い黒髪をツインテールに纏めたリボン、良し。伝統の蠱惑的な衣装、良し。白い肌に汚れ、なし。自慢の赤い瞳や、前髪を確認できないのはちょっぴり残念だけれど、まぁ良いだろう。
それではいよいよ、彼女の前に姿を現してやって、平伏させて、血を戴くとしよう。
「こんばんは、お嬢さん」
「……!……貴女、は……」
室内の椅子に腰掛けて本を読んでいたのであろう彼女がボクの声に気付くと、彼女は驚いた様に、そして静かに顔をこちらに向けた。
ボクは流れる様に窓枠へ腰掛けて片足を室内へ投げ出し、涼しい目で彼女を見やる。このポーズ、カッコいいかなと思ってやったんだけど、窓枠が尾てい骨のあたりを抉ってきて、結構痛い。
痛みに耐えながら、この目に映したルナディア嬢は、この世のものとは思えない程に美しく思えた。
正しく黄金を思わせる髪や蒼玉の様な青い瞳もさることながら、貞淑な室内着の端々から見える肌は、煌々と照らす月の光を反射して一層美しい白さを湛えている。涼しげで鋭さのある眼、主張し過ぎず且つ、すっきりとした鼻筋。薄く色づいた唇は瑞々しい果物の様に照っていて、確かに十八歳という歳の割に大人びて、むしろ大人よりも妖艶な色気を纏っていた。
「キミが……わぁ……綺麗……」
「え、えぇと……?」
ボクはどこからか漂う甘い香りと彼女のその美しさに、少しだけ、本当に少しだけ惚けてしまった。ま、まぁ、ボクの次くらいに美しいんじゃないかな?
彼女の方は突如現れたボクに困惑した様で、開いていた本を閉じて此方を見つめている。
ボクは彼女の、その白く透き通る肌から、赤く滴るものを戴きにきたのだから、見惚れている場合じゃない。ここは一つ吸血種という人類種の上位者たる余裕を見せてやろう。
「コホン……こんな月の綺麗な夜に、窓を開けているなんて、余の様な存在が其方を攫ってしまうかもしれないよ……?」
「はぁ……?」
ふっふっふ、ボクの高貴さにあてられて、ろくに言葉も出ない様だ。
そろそろお尻の痛みが限界なので、それとなく室内にお邪魔して彼女に歩み寄る。やっぱり彼女はボクの尊い姿に、指一つ動かすことができない。だからボクは静かに体を寄せて、彼女の頬に手のひらを寄せて、さらにボクの偉大で高貴な姿を見せつけてやる。ふふーん、どうだ。
そしてここで決め台詞。ボクが二百年の監禁生活の中で考えに考え抜いたセリフで、その心を射抜いてやる。
「麗しいお嬢さん。今日から其方の全ては、余が貰い受ける」
決まった。これでもう彼女はボクの虜になって、一生その身を捧げるに違いない。ま、ボクも鬼じゃないから、虜になった彼女がどうしてもって言うなら、傍に居させてやって長く楽しんでもいいかな?
そう思って、その深い、とても深く青い瞳をじっと見つめる。鋭さのあるつり目の中に宿るその青い瞳は、見つめているとまるで吸い込まれそうになる程美しい。あまり美しさに心を奪われすぎると、どっちが上の立場かわからなくなりそうなので、心の中で地面をぐっと踏ん張る。
はやく、『素敵!貴女に服従します!』的な事を言ってくれないかな。部屋の中に漂う、甘く、なぜか懐かしい香りに鼻をくすぐられながら、その時を待っていると。
「変質者、なの?……こんなちっちゃくて、可愛らしい女の子のくせに……?」
ボクの耳に、酷く耐え難い、暴言にも等しい言葉が飛び込んできた。
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