第一話(前) ノッテステラとルナディア
広がるセンテンブル王国王都クラーリアを眼下に据えて、ボクは魔術で生み出した風で空に漂う。
二百年という人類種にとって途方もない時間を、あの薔薇の庭園や大きなシャンデリアが象徴する赤い屋敷で過ごしていたボクは、たったそれだけのことで感動してしまいそうになった。吸血種の一生がいくら途方もない時間とはいえ、失われた二百年という歳月は、かけがえの無いものだ。
その二百年を取り戻すべく自由や、それから伝承に伝わる《命血》と呼ばれる、吸血種に力をもたらす特別な血を求めて、恐ろしい姉が屋敷を留守にしている間に、逃げ出してきた。
「はぁ……自由だ……ここから、ボクの未来が始まるんだ……!」
空に浮かぶ大きくて丸い月と、無数の煌めく星々の光だけがボクを照らす、夜の空を散歩するように漂う。眼下に見える街灯の光も遥かなここには届かない。今はボク以外の誰も存在しないこの領域は、濃紺の闇に全てを優しく蕩けさせて、その身の一部へと受け入れてくれている。
落ちこぼれの象徴であるこの黒髪も、自由に憧れ、なおも誇りを纏うこの心も、ローゼン家という戒めも、包み込む様にして忘れさせてくれた。だからボク、ノッテステラ=ローゼンは、すっかり夜空を漂うという事に夢中になってしまった。
「まさにこの夜空は偉大な吸血種、ノッテステラ様の旅立ちにぴったりだ……楽しみだなぁ」
永く苦しいあの屋敷での監禁生活におさらばし、初めて自分の力で空を征く。その行いの、なんと心地よいことか。
これからボクはもうあの愛おしくも恐ろしい姉に怯える事なく、自由に空を駆け、そして人類種どもに血を捧げさせ享楽に耽る。もしかしたらボクの二百年という月日は、今この瞬間の為に存在していたのかもしれない。
「って、ダメだ。今晩ボクに血を捧げる、生贄を探さなくては」
少しの間呆けてしまって、ようやく我に帰る。屋敷を出てきたからにはやるべき事も、やりたい事も山積みだ。まずはやはり腹拵えをしなければ。
偉大なノッテステラ様の旅立ちには、やっぱり相応の美しき者の血がふさわしい。そんな事を夢見ながら屋敷を抜け出してきたわけなんだけども、具体的にどうすればいいのかは考えていなかった。こういう時、自分の向こう見ずな性格がちょっと恨めしい。
兎にも角にも情報がいると考えたボクは、空の上でふよふよと漂いながら思案に暮れる。
「情報……こういう時、物語では『酒場』に行くのが、鉄板だ」
酒好きの荒くれどもが集う酒場。そういう所なら王都の内外を問わず、情報が集まるのではないか。
二百年も閉じ込められていたせいで、一般的な社会常識が薄いという自覚もあるボクは、とりあえず愛読していた物語を参考にして、それらしく盛り上がってそうな所へ行く事に決めた。
魔術を行使して人気のなさそうな場所へ降りる準備をする。
「ああ、そうだ。このままはマズイかも」
降りる前の準備として、深呼吸をして外界魔力――空気や水、草木など、生物の身体の外にある魔力――を取り込む。そして、今まで行使していた風魔術とは違う、吸血種としての力の一つ、《幻影想起》を発動する。
《幻影想起》は、それを行使する者の思い通りに、他者の認識を改変する。いわば催眠、幻惑の力だ。五感の全てに作用するこの力があれば、姿をコウモリや途方もない化物に変身した様にも見せられるし、霧が散るかの如く姿を隠した様にも認識させられる。
弱点としては、行使するものの想像力が足りなかったり、或いは力を受ける側の人間の教養、知識などが足りなかったりすると、うまく作用しない。少しくらいの行使なら、困る事もないだろうけど。
酒場にいる人類種どもに高貴なノッテステラ様の容姿を見せつけてやっても良かったが、ボクの目的はあくまでも美しき者の血なのだ。だから、面倒な事になって足を引っ張られない様、《幻影想起》を使って見た目を変える事にした。……別に、酒場にいる人がもしかしたら怖いかも、なんて人見知りの考えがあったわけではない。
「えーと、背は高くして、髪は……赤色にしようかな。顔立ちはとびきり大人っぽくして……」
やはり偉大で高貴な吸血種としては、他者の眼に映った際に一見してその偉大さがるわかる様にしたい。
お姉ちゃんだったらその氷の様な美貌で、目にする事が叶った男どもを瞬時に虜に出来るだろうけど、残念な事に姉妹といえど顔立ちや発育の良さは同じ様にとはいかなかった。だから自分が思う空想のノッテステラを想像して、ボクはその幻の姿を身に纏う。
「よし、上出来だね……『赤い夜のステラ』とか名乗ったら、カッコいいかな? くふふ!」
幻で作り上げた姿は赤色の長い髪、黒い瞳を有し、男性にも迫ろうかという長身の美女だ。これなら何があっても、ボク本体にたどり着くことはないだろう。
とにかく幻は出来上がったので、颯爽と都の空き地に降りて手近な酒場へ足を運ぶ。狙い通り、酒を煽り語らう人々で賑わうそこは、情報収集にはもってこいに思えた。ボクは悠々とカウンターに腰掛けて店内を見渡す。
愚かな人類種どもめ、偉大なボクがいるというのに楽しそうに浮かれて。そのうちに支配してやるぞ。
などと考えていると、カウンターの向こうから渋い酒場の店主が僕をひと睨みして、声をかけてくる。
「……お客さん、注文は? ここは酒を飲む所だぜ」
「ふぇ?……あ、ああ! じゃあ葡萄酒の赤をもらおうか」
「好みの銘柄は?」
「めいがら……そんなものは決まっている。『主人のおすすめ』を頼む」
「……あいよ」
情報を集めようと躍起になっていたボクは、唐突に尋ねられた注文に慌てて、口調をそれっぽく変えて応えた。
お酒なんてあまり飲んだことはなかったけれど、注文したそれならお姉ちゃんも飲んでいたし、きっと妹のボクにだって飲めるはずだ。
そうして運ばれてきたグラスを傾けて口に運ぶと……うえ、苦い、渋い、美味しくない。どうしてあの姉はこんなものを平気で飲めるのだろうか、味覚まで凍りついているんじゃないだろうな。
表向きにはわからない様に、『お酒を楽しそうに飲んでいる自分』の幻を作り上げてから、気を取り直して、辺りの声を聞く事にした。
「どれどれ……目当てのお話はあるかな?」
吸血種は身体能力ももちろん優れている。それは腕力や脚力といったものにとどまらず、視力や聴力といった五感も、人類種のそれとは比べ物にならないほどに優れている。だから、意識して耳を傾けるだけで、この場にいるものの話を聞き分けることくらい造作もなかった。
『聞いてくれよ、ついにうちのカミさんが』『あの森の話だろ?奥にはこわーい魔女がいるって』『おい、見ろよあのカウンターの』『ねぇダンナぁ?今晩どうだい?安く』『ついにお宝を見つけたんだよ!おっと、あまり大声は』『やっぱり新しくできた港湾都市は良かったぜ?』『魔法療院の代金がかさんでなぁ。奢ってもらって悪いな』『聞いたかよ、またあの、美人悪役令嬢が』『おい!それは俺が注文した料理だぞ!』『近頃はこの辺りでも、魔物が出るしなぁ』『見てろよ、あの女をヒィヒィ』
……想像の三倍くらい煩かったけど、どうにかそれらしい言葉を拾い上げることができた。美人で令嬢だ。悪役……と言うのが何を指しているのかはわからないけれど、美人というからにはそれなりの者なのだろう。その話をしていた男達二人の話を、注意深く拾い上げる。
「また、ルナディア嬢の話かよ。相当あくどい事をしてるって話なのに、お前も好きだな」
「当たり前よぉ。あの黄金の様な金の長髪、蒼玉よりも深く輝く青い瞳。年の割に色気のある顔立ち、そして」
「あの乳、だろ。十八の歳の割に美人だなとは思うけどよ。他所様のお嬢さんまでいじめる様な奴ぁ好きになれねぇな」
「馬鹿野郎。女ってのは、小悪魔な方がいいんだよ。あんな女を抱けるなら、死んだっていいぜ……」
「お前それ、あのリンドバール家に聞かれたらぶっ殺されるぞ。」
「あの噴水のあるデカい公爵様の屋敷から、どれくらい離れてると思ってんだよ。……それにしても、婚約した王子様が羨ましいぜ」
「それも噂じゃ、王子は別の女に入れ込んでるらしいが? 何が羨ましいんだよ」
「結婚すりゃあ、あのチチやケツが揉み放題なんだぜ!!」
「うへ、気持ち悪りぃ。そんなだからモテねぇんだ」
「なんだとぉ!!」
男達がやいのやいのと喧嘩をし始めたので、集中していた意識を手元へと引き戻して情報を整理する。
噴水のある大きな屋敷を有するリンドバール公爵家の、『ルナディア』という令嬢は、男達二人が認めるほどの美人の様だ。性格は良くない噂が流れるほど、あまり好ましくはない様だけれど、人類種の価値観で言う性格の悪さなどどうでも良い。ボクが口にする価値があるほど美しく、それでいて美味な血であれば良いのだ。
とりあえず欲しい情報が得られたので、酒場の主人に代金を払って早速向かう事にしよう。
「ご馳走様。代金はこれで良いか?」
お姉ちゃんが要らないからとボクに寄越した、白金の首飾りをカウンターに置く。小ぶりだが華美なそれは、お姉ちゃんがよく知らない貴族から押し付けられる様に贈られたものだそうだ。どれくらいの価値になるのかはわからないけれど、あまり好みではなかったお酒の代金としては、充分にお釣りが返ってくるだろう。
「……これなら構わないが、釣りは出せないよ」
「えっ、なんでぇ?! 高価なやつだよ?!」
「うちは換金はやってねぇからな。嫌なら現金払いでいいんだが」
「うっ、ぐぐぐ……」
今の今まで監禁されていたのだから、現金なんか持っているわけがない。しょうがなく主人の言う事に従い、その首飾りで手を打ってもらった。先に換金出来ていればと後悔しながらも席を立つと後ろから、おそらくボクを呼び止める男の声が聞こえてきた。
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