第四話 甘美な血と彼女の謎——二人の出逢いⅢ——

 ルナディアの手のひらを伝い始めた血から溢れだす、甘美で、蠱惑的で、脳髄を蕩かせてしまう様な香りに、意識の全てを奪われてしまう。ボクの身体は何故か熱くなり、静かな空間に響く様な心臓の音がやけに煩い。


「な……こ、れ……は……」

「……喋ると、溢すわよ」



 目も、鼻も、舌も、血を味わうのに関わりないはずの耳や肌すら、その雫がボクのもとへと垂れ落ちてくるのを、今か今かと待っている。

 早く欲しい、今すぐに、欲しい。誕生日を迎える子供の様に、その瞬間が待ち遠しく思えてしまう。



「ふふ。本当、そうしていると、まるでお預けされた、狗のようね?」



 ルナディアは、どこか嬉しそうに、そう口にする。

 口は開けひろげられ、舌は伸ばされて、きっとボクは今、あられもない表情を、彼女に晒している事だろう。でももう、そんなことはどうだっていい。

 緩く垂らすように差し出された手のひらから、細い中指を伝って、ゆっくりと血が流れている。その流れの一瞬が、まるで永遠に感じられるほど、ボクは待ちきれなくなっていて、喉は灼熱の最中にいるように渇き、胸が張り裂けそうなほど切なく苦しい。



「ほら、溢さないでね」



 彼女がそう口にした瞬間、彼女の手のひらを染めた赤が、いよいよその指先から、ほんの一雫、零れ落ちた。

 宝石のように紅く、丸い一雫が静かに落下するのを、ボクは少しでも早く味わいたくて、だらしなく延ばした舌先で受け止めた。受け止めてしまったんだ。



「——〜〜〜〜〜〜っ!」



 齎された血の味は、その香りに負けないくらい濃密で、魅惑的で、喩えようのない程の美味だった。

 肉汁いっぱいの肉を貪った時の様な、冷えた身体に染み渡る温かなスープの様な、瑞々しい果実を頬張った時の様な、えもいわれぬ充足感が、心を満たしていく。

 そしてすぐに、足元に力が入らなくなって、膝立ちの姿勢を崩してしまった。


「あ、こら、動かないで……そんなに、美味しい?」



 彼女の血のあまりの美味に、ボクの身体の、受け止め、感じる為に必要な器官以外から、砕かれるように力が抜けてしまう。膝立ちの姿勢を保つことは到底できそうになく、ボクは絨毯へお尻をつけて、ただただ零れ落ちるそれを、舌や口で受け入れることに必死になった。

 本当に、喩えようもない味だ。まるで欠けていた月が満ちるように、ボクの胸の中の何かも充たされていく。充たされていくものがあるのだから、溢れ落ちるものもある。ボクはいつの間にか、また涙が溢れて、涎すら溢して、身体には薄らと汗をかいて、血を貪る。ノッテステラという存在の全てを、それだけの行為に費やす。



「……ほら、動くから、逸れちゃったじゃない」

「あ……だめ……もったい、ない……」



 身体が動いてしまった拍子に、口から逸れてしまった血の雫を、胸や腕を使って逃さないように受け止める。

 だって、溢さないでと言われたのだから、ボクがこうしたくてしているわけじゃないんだ。誰に聞かせるわけでもない言い訳を、蕩けた頭の内で呟いて、ボクの小さな身体を使って浴びる様に受け止めていると、血の滴りが止まった。

 ルナディアが魔法を使って、傷口を治癒してしまったんだ。ボクは絶望的な気持ちになってしまって、思わず彼女の方をみると、何故か彼女は満足したように、口元を歪めて笑っていた。



「……これ以上あげちゃうと、貧血を起こすわ?」

「そん、な……もっと、もっと頂戴」

「ダメよ。いくらなんでも、欲しがりすぎだわ?……はしたない子ね」



 あぁ、なんて残酷なんだ。こんな物をボクに味あわせたというのに、はしたないと嗜めて、それでもう、終わりだなんて。

 ボクはまだまだ物足りなくて、腕や口元について残ったそれを、舌を這わす様にして舐め上げる。胸に落ちてしまったものも、薄い脂肪の塊を一生懸命に持ち上げて、舌先で口の中へと迎え入れてあげる。指で掬うなんて、もったいない気がして、出来なかった。



「は、む……すごい、美味し……ん……もっと、欲しい、のに……」

「……ふふ、そんなに気に入ってくれたのなら、何より。せいぜい、愉しむことね?」



 ボクはお願いだからもう一度、そうせがもうと思い見上げると、ボクを優しく見つめるルナディアと目があった。愛しいものを見つめる様に、少しだけ細められたその目に宿る瞳には、何か寂しい感情が浮かんでいた。

 甘い香りが漂う中、血の甘美によって身も心も蕩し尽くされたボクは、その美しくも儚げな姿に、目を奪われてしまう。

 だから、彼女が次に放つ言葉を、ボクは信じられず、受け入れられなかった。






「もう、あと三日もしたら、二度と味わう事の出来ない、血の味だから」






 二度と味わう事の出来ない……?……彼女の言葉の真意が読めない。



「二度とって……そんな事は、ボクは許さないぞ」



 彼女の血は、ボクの二百年という吸血種としての生涯の中で、間違いなく最高の味だった。そんな血を持つ彼女の事をボクは手放すなんてつもりはない。そのつもりである以上、その血が味わえなくなるということは、彼女にその原因があるんだ。

 ボクが彼女の血を取り込んだ今、彼女はボクの『眷属』になった筈だ。眷属の彼女が、あんなにも甘美で、ボクを魅了してやまない血を捧げてしまったのだから、上位者で『ご主人様』のボクが、いいよって言うまで、一生傍で捧げ続ける義務がある筈なんだ。

 未だ蕩けたきり、治っていない頭で考えたけれども、きっと完璧な理論だ。



「キミの血を奪った今、ボクはキミのご主人様なんだぞ。ボクが満足するまで、ルナディアは傍に居なきゃダメなんだ」

「傍にって……っていうか、ご主人様?何よそれ。私の方がノッテに血をあげたのに」

「一族の歴史書に書いてあったんだ。血を捧げた方は『眷属』になって、捧げられた方は『主人』になるって」

「そういう大事な事は先に言いなさいよ……その割に強制力とかはないみたいね」

「それは、どうしてかわからないけど……でも、許さないもん」



 眷属になった筈なのに、ルナディアはボクの言う事を聞くつもりはなさそうだ。だからただボクがわがままを言う子供みたいになってしまったけれど、彼女は困った様に、少しだけ悲しむ様に微笑むと、その話の先を続けた。

 続けた、と言っても、その先なんて存在しなかった。



「許さないって言われても……早くて五日、遅くても十日ほどで私は死んでしまうのに、どうすればいいの?」



 十日後には、彼女が、死ぬ?……いよいよをもってわけがわからない。いや、もう正直、彼女の血のせいで、ボクの頭はとろとろになってしまっているのだけれど、それにしても、だ。



「十日で死んでしまうって……まさか病気?……でも、元気そうだ」

「何かの病ではないわ。まぁ、ある意味病んでいるのは、間違いないけど」

「じゃあ、実はキミは何かの重罪人で、処刑されてしまう、とか?」

「違うわよ。……噂される様な、罪となる事はしてない。誓ってもいいわ?……まぁ、誰にも信じては、もらえなかったのだけれど」

「……まさか、ただボクに血をあげるのが嫌だとかじゃないだろうな!」

「あはは!それこそまさか、よ。可愛いノッテを手懐けられるのなら、死なない程度に、幾らでも血なんて差し上げるわ?」

「じゃあ、どうして……それに、何故そんなことがわかるんだ」



 可愛い、の後に、手懐けるの一言がついていなければ素直に喜べたかもしれない。でも、今のボクには、彼女がどうして死んでしまうのか、そして、ボクは彼女の甘い血を貰うことが出来なくなってしまうのかということで、頭の中がいっぱいだ。

 ルナディアは困惑しているボクをみて、困惑するのも当然だと言う様にまた柔らかく笑った。そして少し逡巡した後、またあの諦めた様な、寂しげな表情を浮かべて、その理由を話し始めてくれた。



「……こういうのも、運命って、言うのかしら……私は、もうすぐ死を迎えるという未来を、もう、九十八回も経験してきたの」



 その一言は、ボクの頭にさらなる混乱を呼び込んだ。

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