第三話 温かなハグとあまい香り——二人の出逢いⅡ——

 何一つ上手くいかなくって、まるで自分が、本当に何もできない子供の様に思えてしまって、ボクの頬を目から溢れた涙が濡らしていく。



「……ノッテ……弱くない、もん……吸血種……ぐずっ……だもん」

「あ、あら……?」

「吸血種の、力で……偉くなって……頑張るんだもん……」


 涙が出ると共に、鼻が詰まってしまって、苦しくなった呼吸が思考をさらに狭めていく。

 こんな涙だって、見せるつもりなんかなかった。

 ボクは吸血種としての力があって、人類種よりも強くって、だから奴らを支配して……いつからかずっと考えて、夢に見ていた全てを否定された様な気がしてしまって、溢れた涙は止まってくれない。



「もう、やだ……なんで、ノッテ、こんなに、頑張ろうとしてるのに……」

「あ、ああ、泣かないで?」

「ノッテ、ノッテは……うあああ」

「ほら、こうしてあげるから、お願い、泣かないで?」



 ふと、ボクをベッドに押さえつけていた重みが消えて、寝かされていたボクの身体が起こされ、それから暖かくて柔らかくて甘い香りがするものに包まれた。

 ルナディアがボクを抱きしめてくれていた。思い返せば久しく、誰かに抱きしめられた事なんてなかった気がする。

 お姉ちゃんも頭を撫でてくれたり、頬にキスをくれたりしたことはあったけれど、直接的な肌の温もりは、どうしてか与えてくれた事はなかった。

 ルナディアの暖かさに、少しずつ悲しかった心が解けていく、そんな気がする。



「ごめんなさい。少し、イジワルしすぎたわ」

「うう……イジワルは、やだ……お姉ちゃんも、キミも……」

「ほら、暖かいでしょ?……泣かないで?」

「んぅ……あったかい……気持ちいい……」



 ボクを抱きしめて、ふわり、と彼女の髪が揺れた時、さっきから気になっていた甘い香りが、さらに濃く漂ってきた。

 あの香りの主人はやっぱりルナディアだったのだ。香水なんだろうか、心が落ち着いて、でも何か胸が高鳴る様な好きな香りだ。彼女に聞けば、どこで売っているのかだとか教えてくれるだろうか。

 もっとその香りに浸っていたくて、頭を彼女の身体へ擦り寄せると、少しだけくすぐったそうにした。



「キミ、いい匂いがする……なんか、好きな感じの……甘い香り……」

「あ、女性の香りを口にするのは……はぁ。ま、いいか……」

「うん……ごめん……ずっと嗅いでいたい……」



 ボクより背が高くて女性的な体つきの彼女は、ボクを受け止める様に抱きしめて、さらにボクの背中を優しくさすったり、たまに、ぽんぽん、とまた優しく叩いてくれる。

 それをされてしまうと、彼女の甘い香りと相俟って、なんだか眠たくなる様な、身体や心が蕩けてしまいそうな気がして、少しだけ甘えたくなってしまう。



「それ、気持ちいい……もうちょっとだけ、して?……それで、許してやる……」

「ふふ……偉大なノッテ様に、赦しを戴けるなんて光栄だわ?」

「ん……ボクは、寛大だからな……」

「はいはい……ノッテは、吸血種なのよね?……って事は、私の血を吸いに来たの?」



 彼女が、ボクにとっては今更な事を訊ねてくる。ボクは別に彼女に投げられる為に来たわけじゃないというのに、おろかなルナディアめ。説明しないとわからんとはなにごとか。



「そうだよ……ぼくは、お屋敷から逃げ出して、《命血》を求めてきて……そしたら……んぅ……キミがとびっきりの美人だって聞いたから、来てやったんだ……」

「《命血》が何なのかは知らないけど……でも、美人だって言ってもらえるのは、嬉しい」

「そうだろうとも……もうちょっと、ギュッとして……」

「ふふ……あー、でも、牙を立てられたりするのは、ちょっと嫌かも」



 美人だという話に、ルナディアはその白い頬をかすかに桃色に染めて、照れる様に微笑んだ。けれどもその後。吸血する為に牙を立てる事を嫌がられてしまうと、ボクとしては少し困る。生き血を貰う為には、現状ボクはそれくらいしか方法を知らないからだ。



「別に血をあげる事は、『今更』拒んだりするつもりはないけれど……ちょっと怖いわ」

「そ、そんな事を言ったって、キミには、じゃなくて、其方には拒否権などない」

「なに、また投げられたいの?いいわよ?」

「あ、うぅ……やっぱりイジワルだ……」



 吸血種は、美貌や力などで『虜』にした人類種の、その血を奪う事で『眷属』に出来るという。そしてボクが彼女の『主人』になる為には、『虜』にする部分はともかくとして、彼女の血をもらわない事には話が始まらないのに、彼女はそれが嫌だという。

 どうしたらいいのかわからなくなって、収まった筈の涙がまた溢れそうになってしまうと、ルナディアが慌てた様に逡巡し考え始めた。



「……血を吸う、というより、血を呑むことが出来ればいい?」

「血を摂らせてもらえれば、いいよ。別に首筋とかじゃなくたって、二の腕とかでも良いけど、咬まないと血が出ないだろ」

「二の腕もちょっと……ノッテ、咬むの下手そうだし」

「なっ……確かに、誰かから直接なんて、初めてだけど」

「そうだ、こうしましょう」



 何かを思いついた様に彼女はボクを引き離すと、ベッドから降りていそいそとクローゼットを漁り始めた。ボクの方は、与えられていた温もりが唐突に失われて、少しだけ寂しい様な気持ちになってしまうけれど、彼女が何か妙案を思いついたのかと考えてその姿を見守る。

 何故だか蕩けた頭で、ほんの少しの間ベッドの上でそうしていると、彼女は目的の物を見つけた様で、それを手にしてこちらへと振り返った。

 手にしていたのは、月の光に妖しく照らし出される、いかにも切れ味の良さそうな、ナイフだった。



「ひっ」

「これはこの国の名工の作で、『飛んでいる燕も宙で切り落とす』くらい、切れ味に優れているんですって」

「ま、まさか、そんな」

「ええ、これを使うわ」



 まさか、血を吸われたくないからって、ボクを殺してしまおうというつもりか。尊い命というものを、この女はなんだと思っているのか。どんな教育を施したら、人のことをぶん投げて、あまつさえ害してしまおうという、凶悪な令嬢が出来上がるのか。家族の顔が見てみたい。

 彼女からしてみると、多分ボクはこの世の終わりの様な青い表情をしていたのだろう。そんな意図はないと言いたげな目線を投げかけてくるけれど、ボクの目は彼女が手にしたあからさまな凶器から離れる事はない。



「あー、別にこれを使って、ノッテを傷つけようとかは、思ってないわよ?」

「し、信じられるか!さっきぶん投げたくせに!あと気安くノッテとか呼ぶな!」

「滅茶苦茶今更ね……でも、せっかく血をあげようかと思ったのだけれど、信じてくれないなら、無理な話ね」

「あ、ぅ……は、話だけなら、聞いてあげても良いぞ!」



 しょうがないから、ルナディアの話を聞いてあげる事にする。よく考えたら、彼女がボクを殺すつもりなら、信じようが信じまいが結果は一緒だ。それに気づくとゾッとするけど。

 彼女がいうには、ボクが彼女に咬みついてしまうのは怖いから、いっそ自分で切れ味の良いナイフで手のひらを傷つけるから、そこから垂れる血を呑んでほしいという事だった。そういうことなら、物騒な物を見せる前に話してほしい。



「でも、どっちにしろ、キミが少し痛い思いをするんじゃないか?」

「気にしないでいいわ。自分で綺麗につけた傷なら、治すのも容易いから。それじゃ、血を溢したら困るから、絨毯の上に座ってくれる?」

「傷を治す……?それってまさか、《治癒》ってこと?ルナディアは遣い手なの?」

「あぁそっか……魔法はそういう扱いなのよね……ま、いいから、ほら早く座って?」


 促されて、ベッドから降りる。……ルナディアは、《生命魔法》の一環である《治癒》の遣い手だった。ボクはその事について少し思う所があるのだけれど、でも、彼女はそれを用いることでボクに血をくれるというのだから、自分の気持ちには蓋をする事にした。

 ともあれ、一つ喜べる事がある。ボクが咬みつかなくっても、ルナディアが自らの掌を傷つけて、そうして血を差し出してくれる。まさしく献上されるものとするもの。これこそボクが求めていた、偉大なる上位者とその眷属という形なのでないだろうか。

 彼女のその綺麗な手を傷つけさせてしまうのは、少しだけ申し訳ない気もするけれど、本人が魔法を使えるというのであれば、きっと些細な心配なのだろう。



「えぇーと……ここでいい?」

「ええ。それから、溢さないように、両手でおさらを作って……いいわね。そうやって口元に添えておくのよ?」



 ボクは指示された通り、ルナディアに向かい合って、絨毯の上で膝立ちの姿勢をとり、両手を口元へ添える。さらに頭は、彼女から捧げられる血を零さないように上を向いて、小さい口もできるだけ開いて、なんだったら舌まで伸ばしてみた。

 だけど、なんだかこの体勢……。



「なんかこの格好……雛鳥の様というか、おねだりしているみたいというか……」

「実際、おねだりしてる様なものでしょ?」

「ちがう!これはキミが、じゃなくって、其方が余に捧げているんだ!」

「ああ、はいはい。わがまま言うのなら、あげないわよ?」

「ぐ、ぬぬ……は、はやくしろ!」

「ふふ、良い子ね。それじゃあ……ん……」



 つぷ、とナイフの切先がルナディアの手のひらに沈んで、そっと横に滑る。少し遅れて、彼女の白い手のひらについた真っ直ぐな筋から、赤い雫が小さな球の様になって染み出した。

 ここにきて、ボクは一つだけ、勘違いしていた事を知る。

 先程から漂っていた甘美で、心を蕩かす様な香りは、部屋のどこからでも、ましてや香水からでもなく、彼女の身体、むしろその血から醸し出されていた。何しろ、その血が彼女の手のひらについた傷から溢れた瞬間、今までよりも芳醇で濃縮されたような甘い香りが、ボクの心を更に蕩し始めたからだ。

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