その後

 ドサっと音がして、奈緒なおは全身から血の気が引くのを感じた。


「あ……、あぁ……」


 頭の中は真っ白だ。


(どうしよう……。どうしよう、どうしよう。有村ありむら君も、藤井ふじい先生まで……)


 ショックのあまり声が思うように出てこない。


「奈緒!なーお!」

 パニックになっていると、下の方からあずさの叫ぶ声が聞こえた。


「あ、ずさ……?」

 這いつくばって、声がする方へ、二人がいたところまで進む。

 端まで行って下を見ると、藤井と有村がマットの上で横たわっていた。気絶しているのか、二人は動かない。藤井が有村を抱えるように両腕を頭の後ろに回している姿から、彼が最後まで有村を必死に守ろうとしていたのが分かった。


「よかった……」

 涙が溢れて視界を遮る。

 そして糸が切れたように力尽きた。


 ◯

「いや〜、助かってほんとよかったっす」

 切ったばかりのりんごをムシャムシャと食べながら山辺やまのべは言った。

 

「まったく……。運が良かっただけなんだぞ、君たちは」

 山辺の横で仁王立ちの尾崎おざきが言った。


「はい……」


 有村が目を覚ますとそこは病院だった。

 藤井とともに屋上から落ちて、そのまま気を失ったらしい。


 横のカーテンを見る。隣で寝ている藤井はまだ目覚めていない。

  

 尾崎が言うように、助かったのは本当に奇跡だった。

 あずさが前もって輪島わじまに声をかけ、サッカー部ら数人が陸上競技用のマットを持ち出したことが幸いだった。

 有村と高山たかやまがいる場所が屋上かもしれないと考えたあずさは、万が一に備え、運動部の助けを借りることにした。

 しかし、それもほんの数秒遅かったら、とっくにあの世に行っていた。それくらいタッチの差で助かったのだ。


羽金はがねさんも、ありがとう……」

「あたしじゃなくて、輪島って人にお礼を言って、あと仁科にしなにもね」

「……うん」


「そうだ……!桐本きりもとさん、桐本さんは!?」

 奈緒の姿が見当たらず、有村は不安を感じて思わず起き上がった。


「ちょ、ちょっと!まだ安静にしていた方が……」


 あのとき、手だけで身体を支えていた状態だったため、有村は声だけしか高山と奈緒のやりとりを知らない。

 けれど、殴られたりした音が聞こえたのは確かで、そんな彼女をどうにもできなかった有村は、ずっと自分への情けなさと腹ただしさを感じていた。


(あの時点では歩けそうにもなかったはずだ……)


『待ってて……!今……、今からそっちに――』

『有村君が……、死んじゃう!落ちそうなの!』


 奈緒の必死な声を思い出して胸が痛んだ。

 

(俺のせいで、俺を助けるために、守るために、怪我までして、それなのに――)


「奈緒は、手当受けて今は休んでる。骨折はしてないみたい」

 有村の気持ちを察するかのようにあずさは言った。

「よかった……」

「少ししたら、会いに行きなよ。あとで病室教えるから」


 〇

 病室から出て来た松葉杖姿の奈緒を見つけて、有村は駆け寄った。

「桐本さん……!」

「……有村君」


 中庭のベンチに座って、二人はあの時のことを思い出していた。

「桐本さんが無事でよかった……」

「それを言うなら有村君もだよ。助かって本当によかった……」

「いや、俺は……。それに桐本さんの方がよっぽど辛かったはず……」

「うん……。まぁ、でも、ちょっとスッキリしたし、いいかな〜」

 奈緒は舌を出して笑った。

 

「ごめん……」

 有村はそっと奈緒の頬に触れた。左の頬にはガーゼが当てられていたが、覆いきれず赤黒い肌が少し見えていた。

「俺のせいで……、こんな怪我までして」


「何もできなくて、ごめん……」

 気づいたら涙が頬を伝っていた。


(いつも自分は誰かに助けられてばかりだ……)


「……有村君は結構泣き虫だね」

「……うん」


「でも——」

「でも……?」

 奈緒は有村の言葉を聞き返した。


「桐本さんになら、こんな顔も見られたっていいや……」

 有村の思わぬ言葉に、奈緒は少しドギマギした。


「……そ、それ、そういうこと、ほ、他の人には絶対言わないでよね??」

「ん?え?どういうこと?」

「そういうこと!」

 奈緒は恥ずかしさで顔を赤くした。


「……分かった、言わない」

「ほんと……?」

「うん、言わない」

「……指切りげんまんでもする?」

「また?」


 奈緒と有村は思わず笑った。

 全てが終わった今、二人の間にあった不安は無くなった。


「――くっそ〜。あの二人、まだ自覚してないんかね……」

 有村の跡を密かについて行ったあずさは、二人の様子を茂みの陰から見ていた。

「あら、あずちゃん、盗み見なんて良くないわ」

蓬莱ほうらい先輩も人のこと言えないじゃないっすか……」

「二人ともいつからいたんですか!?」


 しかし、その後も三人がひっそりと見守っていたことに、奈緒と有村は全く気がつかなかった。


 〇

「事件解決しても、なんだか休まらないな……」

 お馴染みのグラッドのキャビネット席。奈緒は頭を抱えた。

「まぁね……」

 アイスコーヒーをストローでかき混ぜながら、奈緒の横のあずさが言った。


 退院後、奈緒達は学校や警察による事情聴取を受けることになった。その他、臨床心理士によるカウンセリングも。


 学校と警察からは、なぜもっと早くに相談しなかったのかと、何度も説教をされた。

 今にして思えば、最もなことだった。最悪の事態を招いてしまうところだったのだから。


 高山に関しては、あの日屋上で話した通りだった。

 彼は編入試験で有村のことを知ったが、採点は複数人で行う。そのため点数上、落とすことはできず、転入後に退学に追い詰める計画を立てていた。

 そして、転落事件を起こした犯人に仕立て上げようとし、火事の犯人として藤井に疑われるようにし向け、倉庫に閉じ込めで事故死させようとした。それでも上手くいかず、噂や動画を流すことで孤立させて、精神的に追い込もうと考えたらしい。

 最終的には自らで手を下そうとして、あの日、有村を屋上へと呼び出した。

 

 高山はネットのサイトで、生徒の個人情報を集めては流すことで金に換えていた。

 高山の下で動いていた島本しまもとは、高校時代、高山の取り巻きのような存在だった。同窓会で再開し、その後彼が児童ポルノを集めていることを知った高山は、半ば脅す形で今回の計画に協力するよう求めた。

 ちなみに島本は今年に入ってからこの学校に来たのだが、それも高山のツテで入っただとか。

 そしてあの日、藤井を襲ったのは、島本だった。高山からの直接の指示はなかったようだが、屋上に有村を呼び出す計画は事前に知っていたらしい。あの時複数人が同時に動いたから良かったものの、「計画を邪魔するものは始末する予定だった」とのちに証言した。

 

「優しそうに見えて、何を考えているか分からないから人間って怖いわよね……」

 あずさの向かいで蓬莱は紅茶をすすった。


 あの事件があってから、学校は落ち着かなかった。教師からの信頼も厚く、生徒から親しまれていた優しい教師が、生徒を陥れ、殺そうとしていた事実にみんな相当のショックを受けた。


「そういえば……、有村先輩の叔父さんが亡くなったのは、結局事故だったんすね」


 あのとき高山が言っていたように、有村の叔父の死は故意的なものではなく、自らが誤って落ちてしまったものと判断された。ましてや証拠など何もないため、今更他殺と調べるのは難しいようだ。


 そして、有村の叔父が書いていたという原稿用紙は見つからなかった。やはり全て燃やされてしまったようだ。


『返して……』


 山辺が語ったあの話の幽霊――、“彼”はずっと親友のことが気がかりだったのだろう。亡くなってからも、約束を果たそうと彷徨さまよい続けていたに違いない。


「なんだか叔父さんも藤井先生も可哀そうだね……」

「……うん」


 藤井はその後無事に復帰したが、かつての親友の真実を知り、それなりのショックを受けていたようだった。

 校内で有村と話すときには、時々辛そうな表情を見せた。


「あ、そうだ。聞いた?藤井先生のこと」

 思い出したようにあずさが聞いた。

「え、何?なんも知らないけど」

「今年度いっぱいでこの学校を辞めるらしいよ」

「そうなんだ……」

「残念ね」

「それは――、有村先輩がいるからすっか?」

 恐る恐る山辺が聞いた。

「え?いやいや、違うよ。なんか今度結婚して奥さんの実家の方に引っ越すんだってさ」

「えっ?ええっ!?マジっすか!超めでたいじゃないっすか!」

「先生、恋人いたんだ……」

 奈緒は正直驚いた。

「あら~、じゃあ元々決まってたのね」


「……ってか有村君、遅いな」

 奈緒はスマホの画面を見た。ホームルームが終わって既に三十分近く経っていた。


「――そういえば、有村君のお母さん、そろそろ戻って来るんだっけ?」

 蓬莱が聞いた。

 彼の母親も、向こうでの仕事がまだあったようだが、今回のことをあとで知り、急遽帰国することになった。

「そうみたいです」

「マジか〜。まぁ、二世もこれで少し安心だな」

「家のこともおばあさんのことも、もう一人で抱えなくてよくなるんすね〜」

「そういや、二世のお母さんってどんな人なんだろ……」

「あぁ、そういえば――」


 奈緒が言いかけたちょうどそのとき、店のドアのベルが鳴って、有村が顔を覗かせた。


「も~、有村君、遅いよ」

「ごめん、ごめん。前橋まえばしさん達につかまっちゃって……」

「え、また?」

「なんか怪しいなぁ~」

 ニヤニヤしながらあずさが言った。

 

 実際のところ、有村は友美ともみ由香里ゆかりの二人に奈緒との関係を訊かれていただけだった。


「ベ、別に、その、そういうことでは……」

「どういうこと??」

「まぁまぁ」

 しどろもどろに言う有村に対し、腕を組んで怪しむ奈緒を蓬莱はなだめた。


 有村の頼んだジュースが来たところで山辺が言った。

「えー、全員が揃いましたところで、えー、梅雨時の転落事件から始まり、火事や盗聴と次から次へと災難に見舞われ――」

「んもう、早くしてよ~」

 蓬莱が急かす。


 咳払いして、山辺は仕切り直した。

「では、学園の無事と同好会……いや、の今後の活動を祈って」


「「「「「乾杯!」」」」」


 窓の外では、道路脇に添えられた木々が少しずつ色づき始めていた。

 

 季節はすっかり秋になっていた。


【完】

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