化学実験室

 梅雨はまだ明けない。


「なんか頭痛がする……」

 奈緒なおが机に顔を伏せたままそう言うと

「大丈夫?雨続くと頭が痛くなる人多いよね」

 友美ともみが心配そうに言った。

「そういうの天気痛っていうらしいよ」

 横でパックジュースを飲みながら由香里ゆかりが言った。


 天気痛ではない、と思う。ここのところなんだか眠れない日が続いている。

 あの日。焼却炉で彼を見たあの日から。


 結局、仮面の件は誰にも言えないままでいた。

 まず、仁科にしなという男子生徒の仮面の証言が本当かどうか定かではないことや、仮に本当だとして、教師達がそのことを知っているのかどうか、確信がもてなかった。

 友美の話もあくまで聞いた話だ。万が一、友美の言ったことが事実と違っていた場合には罪もない彼を悪者にしてしまう。


 クラスメイトと親しげに話をしている有村ありむらを見る。

 有村は口数は少ないものの、少しずつクラスには馴染なじんできている。

 そして、があってからも彼は何事もなかったのように日々を過ごしている。

 きちんと話をしないと、とどこかで思ってはいるが、彼は放課後にはさっさと帰ってしまうため、話かけるタイミングすら掴めないでいる。


 ☆

「え~、今日は薬品を使用した実験を行います。適当に四人組の班になってください」

 藤井ふじいの声掛けで、化学実験室に来た生徒は次々と四人掛けのテーブルに座っていく。


「奈緒、一緒組もう!」

 由香里が言った。

「いいよ」

「じゃあ、有村君もね!」

「え!?」

 由香里の視線、自分の背後に有村がいた。

「……別に、いいけど」

 と少し驚いたように言った。

 

 ふと友美の方を見ると自分に向かってウインクをした。


 (ふ、二人とも……)


「よし、あと一人は—―」

「俺も俺も!」

 由香里の後ろで輪島わじまが手を上げて立っていた。

「輪島かよ、まっいいか」

「輪島かよってなんだよ。俺じゃ悪いかよ」

「とりあえず揃ったし、座ろ座ろ〜」

「無視かよ!」


 そうして、奈緒の隣に由香里。由香里の向かいに輪島、その隣に有村という形で座ることになった。

 

「有村君ってさ、頭良いっしょ?」

 輪島が有村に話しかけた。

「え、何急に。別に頭は良くないよ」

「またまた〜、編入試験の成績めっちゃ良かったらしいじゃん」

「誰が言ってたの?」

「数学の高山たかやま

「えー!そうなんだ〜、すごいじゃん。ね、奈緒」

 由香里がさりげなく話を振ってきた。

「う、うん」

「なぁ、有村君、化学も得意だったりすんの?」

「得意かどうか分からないけど、まぁ、嫌いじゃないな」

「マジ?じゃあ、今度の期末まで俺に化学教えてよ」


「そこの班!」

 珍しく藤井が大きな声を出したので周りの生徒は一斉に奈緒達を見た。

「私語はつつしんでください。授業中です。説明をしっかり聞かないと事故に繋がりますよ」

「「……すみません」」

 輪島と有村が声を揃えて言った。


「そこの班は授業終わったら片付けを手伝ってください」

「「え〜」」

 今度は由香里と輪島が声を揃えて言った。



「——ということで皆さん早速、実験道具と薬品を取りに来てください」


 藤井の説明を受け、実験が開始された。

 

 その日の実験は、薬品の色が変われば成功というものだった。調合時の微妙な量で色が変わるか変わらないかが決まり、難しい実験ではあったものの、有村の化学式の計算が正確であったため、実験は一発で成功した。


 ☆

「あー、マジでめんどい」

 授業終了後、洗った実験器具をふきんで拭きながら由香里が言った。

「でも有村君がいたから、実験はすぐに終わって良かったよね」

「まぁね」

「つーか藤井、なんか悔しそうな顔してたな」

 黒板を掃除しながら輪島が言った。

「そりゃ注意した生徒の班が、結局一番結果が良かったからでしょ」

「藤井先生ってここに来て長いの?」

 唐突に有村が言った。

「え?あー、まぁそこそこじゃない?」

 由香里が答えた。

「あたし、十年くらいは在籍しているって聞いたことあるよ」

「マジかよ……。ってかさ、藤井って高山と歳変わんないらしいよ」

「うそ!?」

「ってことは、四十手前ってこと?」

「その割には結構老けて見えるよね」

 

 数学の高山は顔が良く、またアラフォーと自身も言っているが、程よく鍛えられた身体からは二十代後半と言われても不思議じゃない教師だ。授業も分かりやすくて生徒たちからも人気がある。

 一方で、痩せ型でいつも曇った大きめのメガネ、堅苦しくて授業も分かりにくい上、テストが難しい藤井はあまり生徒からの評判は良くない。


「――うちらってハズレなんだよね」

 ぽつりと由香里が言った。

「ハズレ?」

 有村が聞き返した。

「うちら三組までが化学は藤センで、四組からは別の先生なの」

「へぇ……」

「でも、定期テストが難しい分、普段の小テストの結果も成績に反映されるんだよ」

「そのテストが苦手なんだよな〜、奈緒」

「うぅ……」

「結局、小テストもムズイから、みんなの平均点はいつもえらい低い訳」

 補足するように輪島が言った。

「他のクラスが羨ましいなぁ……」

 そう呟いた時に教室の外からガタンと音がした。

「え、まって。何、今の音」

「藤センだったりして」

「今の聞かれてた!?」

 相手に気づかれないようコソコソと話す。

 

「ちょっと見てくるよ」

 有村が廊下に出たが誰もいなかった。


 ☆

「じゃあ、先にうちら戻ってるね」

 一通り実験道具を拭き終え、由香里と一緒に先に教室に戻ることにした。


 暫くして戻ってきたのは、輪島一人だけだった。

「あれ、有村君は?」

「あぁ、もうちょっと時間かかるからって」

「何してるの?」

「薬品の片付けだったかな」

 そこで由香里のスマホが鳴った。

 メッセージを見て、由香里はため息をついた。

「今日届く荷物があるから受け取って、ってLUINE来た。帰るわ」

「あー、あたしも帰る」

「俺も帰ろうかな」

「有村君はいいの?」

「まぁ、教室に俺らいなかったら帰ったって気づくっしょ」

「まぁ、そっか」


 ☆

 布団の中で、奈緒は今日の出来事を思い出していた。

 由香里達と話している感じ、有村はごく普通の生徒であった。

 

(転校生ってだけで、なんか特別な感じがしちゃっただけなのかな……)

 

 きっと、あれもたまたま仮面を拾ってそのまま焼却炉に捨てただけ——。


 きっと。

 

 多分。


 その日は久しぶりに何も考えずに眠りについた。


 ☆

 それは実験のあった日から二日目の朝だった。


 正門を抜けると、昇降口の前に人だかりができていた。


 生徒たちの視線の方向を見ると三階の教室の一角が黒く染まっている。


「火事だって」

「昨日の夜に燃えてたらしいよ」

「あの教室って化学実験室じゃない?」

「放火?」

「人いなくて良かったよね〜」


 周囲の声が勝手に耳に入ってくる。


(化学実験室が火事……?)


 つい先日、その教室で実験していたことを思い出す。


「おっはよ!」

 急に声をかけられて奈緒は驚いた。後ろにいたのは友美だった。

「お、おはよう」

「火事なんだってね」

「ね、びっくりした」

「事故なのかな、放火かな」

「それはまだあたしも分かんない」


 黒く焦げた教室の割れた窓から室内の様子がチラッと見えた。焦げ跡は部屋の天井まで続いていた。朝まで燃えていたらもっと大惨事になっていただろう。


 ホームルームで月乃つきのは火事のことに触れた。

「皆さん知っているとは思いますが、化学実験室が昨日火事になりました。原因はまだ調べている途中です。心当たりのある生徒は職員室か私のところまで来てください」


「以上!」と言い放ち、月乃は教室を直ぐに出て行ってしまった。

 おそらくこれから緊急会議が始まるのだろう。


 ☆

 黒板には「自習」の文字。

 教師達が来れない代わりに各教科、ドリルやプリントをするよう指示された。


「暇……」

 早々にプリントの問題を解き終わった由香里がポツリと言った。

「四時間目まで自習にするなら帰りたかった……」

「ホントそれ」

「先生達会議長いね」

「マジ何話してんだろ」


 そこでちょうどチャイムが鳴った。

「やっと終わったぁ〜」


 暫くして月乃が教室に戻って来た。

「皆、お昼まで自習させてごめんなさい。今日はとりあえず午後の授業はなしになりました。なので各自帰って大丈夫です」


 えー、と声があがる。

「先生ー、結局何だったの?」

 クラスの一人が聞いた。

 数秒の時間を置いて月乃言った。

「……学校側の管理ミスです」

 なんだ、マジか〜、嘘でしょ、周囲が口々に言う。

 それらの声を静めるように月乃はパンッと手を叩いて言った。

「保護者の方には、今回のことは一斉メールできちんと連絡がいくようにしています。今日は部活動も無し。気をつけて帰るように」


 そう言って月乃はまた直ぐに教室を去った。


 ☆

 弁当を持って来ていることもあり、奈緒はとりあえず由香里達と食べてから帰ることにした。


「しっかし、最近物騒じゃない?転落事件といい、火事といいさ」

 弁当の唐揚げを頬張りながら由香里が言った。

「そうだね」

「まぁ今回は、学校側がミスったからアレだけどさー」

「えー、でもどうやったらミスって火事が起こるんだろ~」

「不始末とか?」


 そのときだった。

「三年二組、蓬莱ほうらいさん、二年五組、羽金はがねさん、一年四組、山辺やまのべさん、至急職員室まで来て下さい。繰り返します——」


「あーあ、誰か呼び出しくらったね〜」

 由香里が言った。

「あれ、羽金さんって奈緒、去年一緒のクラスじゃなかったっけ?」

 友美が聞いてきた。

「うん、そう。なんだろう……」


(一年の山辺君って科学同好会の後輩だったような……。後で聞いてみようかな)


 ☆

「奈緒ー、帰ろ〜」

 友美が声をかけた。

「ごめーん、寄るところあって」

「そう、じゃあ、また明日〜」


 廊下で由香里達と別れて、あずさの教室に向かう。


「あずさー?」

 四組の教室を覗くが、あずさはいない。

 あずさがどこにいるか扉近くの女子生徒に声をかけるも、もう帰った、と言われてしまった。


(仕方ない、後でLUINEでもしよう)


 ☆

 LUINEにメッセージを送ったが既読がつかない。


 翌日、パンを買いに購買に行くと、偶然にもあずさの姿を見かけた。

「あずさ!よかった、会えた〜。そういや昨日さ——」

「……ごめん、奈緒」

「ん?」

「暫く私に話かけないで」

「え、それってどういう――」


 そう言いかけたところであずさは無言で走り去ってしまった。

「えっ!ちょっと、待って!」


 何が起こったか分からなくて、ただそこで呆然と立ち尽くすしかなかった。


(どうして?何があったの……?)

 

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