水たまりの哀舞曲(タンゴ) その六
一九二〇年六月二三日 帝都丸の内 帝都劇場屋上
◆
『……リ、……モリ。
ミヤモリ起きろ!
戻って来い!
お前さん顔が……』
〈イ婦人〉が昏睡状態となったのはいいが、後催眠暗示を掛けた宮森の方も
「……明日二郎、なのか?
自分は、今まで……」
明日二郎の叫びが届いたようで、宮森の
異常に感付いた宮森は、明日二郎に確認を頼む。
『なあ明日二郎。
いま目の前が真っ暗なんだけど、何が起こってる?』
『ミヤモリよ、心して聴くんだ。
お前さんの顔から、目ん玉が消えてるぜ……』
明日二郎の言う通り、宮森の眼球は消えている。
ただ消えていると云うよりは、眼窩が埋まっている、と表現した方が正確だろう。
これ以上ない
『お前さん、のっぺら坊になっちまってるぜ……』
いま宮森が味わっているのは、視覚の根絶状態。
しかし彼には観えていた。
降りしきる雨が身体を打つ感触。
水の匂い。
音。
⦅視覚があった頃よりも遥かに深く、鮮明に空間や物質を認識できる。
精査や感覚拡張術式を使っていないにも拘らずだ。
そのお蔭で、彼女の美しい顔がはっきりと判るぞ。
いや……解る⦆
彼の感覚が今迄以上に研ぎ澄まされたのではない。
物質的な感覚を超え、次なる段階へと進んだのだ――。
◇
現在の状況を理解した宮森の行動に
宮森は床に転がっている二臂の
その内の一臂が眠り続ける〈イ婦人〉に灯油を浴びせ掛けると、もう一臂は
この雨の中で火が点く筈は無いと思いきや、宮森が
雨中で消えない所を見ると、宮森の霊力で火勢が増強されているらしい。
只〈イ婦人〉を焼殺する程の勢いは無く、せいぜい皮膚や着物を焦がす程度だ。
それでも、幻魔の核を探り当てたい宮森にとってはこの上ない指標となる。
緩やかに
その流れは
だが今の宮森には、暗い快感に浸る事など許されない。
⦅核は、ここだな……⦆
核の位置に当たりを付けた宮森が〈イ婦人〉に語り掛けた。
だが彼の言葉は、ここには居ない誰かに向けたものとしても聞こえる。
「予想は付いていました。
貴方は矢張り、
宮森が ふじ の演技を気に入っている理由の一つに、舞台上で良く通る声がある。
はきはきとした彼女の声は、後部席や天井近い
歌唱力も高く、
近頃は若さに
[註*
小唄は
なお、〘盟治〙という元号は作中での設定]
ふじ は自身の声で演技を牽引している自負が有り、その想いが核の場所を決定したのかも知れない。
ひと仕事終え待機していた
彼は
その瞬間、〈イ婦人〉への後催眠暗示が解ける。
それを感知して宮森に注意を促す明日二郎。
『ミヤモリ、ヤッコさんが完全に目を醒ます前に
お前さんの気持ちはよーく解るけんども、早くしねーとオカアチャンやオニイチャンの頑張りがムダになっちまうぞ!』
誅滅待った無しの〈イ婦人〉は、最後の反撃に出る。
視覚を超えた把握能力を持続させている宮森には、〈イ婦人〉の変容がはっきりと解った。
彼女の変容は彼の動揺を生み、
「その顔は、ふじ さんの……」
「
矢張り貴方は……
大口の奥には血管針の
彼の口から血管針を侵入させ、体内から喰らい尽くす積もりなのだろう。
明日二郎は居ても立っても居られず、未だたじろいでいる宮森へと警告を発した。
『躱せミヤモリ!
死んじまうぞーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!』
明日二郎の警告も
『カチィィン……』
していなかった。
「躊躇ったのは……偽りだったのですね。
これでは、どちらが役者やら……」
指定方向からの接触、衝撃だけに対し効力を発揮する
その効果で血管針に対しては防御、〈イ婦人〉の核へは一方的に攻撃を加えられる。
結果、宮森の振るう剣は
幻魔としての
それを感知した明日二郎は何故か眉間から左頬に掛けて切り傷を出現させ、〖何とかの奇妙な冒険第一部〗に登場する名脇役の決め台詞を吐く。
『もう勝負は決したようだ。
比星 明日二郎はクールに去るぜ……』
見事に空気を読んだ明日二郎が消えると、そこはもう恋人達の時間だった。
ふじ本人そのものの口調で愛しい
「宮森さん、今はお
無神経な言い方で励ましますから、先に謝っておきます。
ごめんなさい」
「ふじ、さん?」
彼女の軽い物言いに、目をパチクリさせた……積もりの宮森。
その仕草が判るのか、彼女が続ける。
「あらやだ、驚いたんですか?
わたしだって真面目に話す時ぐらいありますよ。
いいですか宮森さん、これからわたしが言う事をよく聞いて実行して下さいね。
約束ですよ!」
「ええ。
ふじ さんの言う事でしたら、誓って実行します……」
彼女は口元に手を当て、「コホン」と咳払いした。
余りに
「あなたがどんなに悲しんでも、もう涙は出ません。
だから、どんなに辛くても前を向いて進む事ができるはずです。
そしてどうか、わたしをこんな目に遭わせた人達を恨まないでやって下さい。
そのうえで、その人達の悪事を止めて下さい。
以上がわたし、寅井 ふじ からの
さようなら、
「ふじ さん。
最後の舞台、楽しみにしていますよ」
感情の高まりが抑え切れなくなった彼は、堪らず彼女を抱きしめる。
そしてふたりの唇が重なったかに見えたその瞬間、彼女は消滅した。
彼が心から愛する人と交わした初めての口付けは、死の味。
彼が心から愛する人と明かした初めての一夜は、別れの時。
せめてもの救いにと、彼は自身の命を削る。
恵みを受けた彼女は、
彼女が意識を失うと、〈
〈
◆
一九二〇年六月二三日 帝都丸の内
◇
夜明け直前の街に現れたその白猫は、裏路地を進み袋小路の暗がりへと辿り着く。
只の行き止まり。
その行き止まりが、白猫に語り掛けて来る。
『宮森に覚醒の
私の可愛い〈アイ〉よ。
これからも上手く彼を
クフッ、クフフフフフッ……』
行き止まりの〈影〉が笑うと、白猫は黒猫へと変じた。
その毛並は、帝都に沈殿している夜の残りを吸い上げたかのように真っ暗。
その双眸……ではなく、縦に大きく見開かれた
黒猫と〈影〉は踊る。
黒猫と〈影〉は奏でる。
【
水たまりの
◆
水たまりの哀舞曲(タンゴ) その六 了
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