泡と水の狂漕曲 結び その三

 一九二〇年四月 帝都 地下競艇会場 海側放水路





 大槻 夫妻が海側放水路の堰を破壊した為、海側とは反対方向へ避難していた伊藤。

 破壊が収まり暫くすると、彼の居る場所にも海水が充満して来た。


 焦った伊藤は手直に在った棒きれで扉を叩くがビクともしない。

 扉に鍵が掛かっているのは確認済みだったので、ここで最後か……と、途方に暮れる。


 伊藤に迫る水面。

 その彼方に、白い盛り上がりが浮かぶ。


⦅くそっ、見付かっちまった。

 もし九頭竜会側の〈深き者共〉だったら、ここで御陀仏だな……⦆


 怯える伊藤に向け、その〈深き者共ディープワンズ〉が精神感応テレパシーで語り掛ける。


『伊藤 開智かいちだね。

 ボクは大槻 夫妻の友達さ。

 夫妻から君の救助を頼まれたので迎えに来た』


「あ、頭ん中に声が響いて来たぞ!

 あんたいったい……」


『先ずはここを出よう。

 詳しい話はそれからだ。

 さあ、ぼくの背に乗って……』


 水面に顔を出したのは、鮫型ではなく鯆型の〈深き者共ディープワンズ〉。

 鯆型が反転すると、伊藤は「お、お邪魔します……」と殊勝しゅしょうな態度で背に乗った。


『振り落とされないよう、ボクの胴体に手を回して』


 鯆は背鰭が無い為、伊藤は指示に従うよりない。


 伊藤の準備が整うと、鯆型〈深き者共ディープワンズ〉は放水路出口に向け泳ぎだした。





 鯆型〈深き者共ディープワンズ〉と伊藤が放水路出口に辿り着く。

 そこには、救出された〈深き者共ディープワンズ〉や救助隊の面々がひしめいていた。

 伊藤 達を待ってくれていたのだろう。


 伊藤 達の無事を確認した皆がいざ海に繰り出そうとした時、伊藤は彼らに謝罪した。


「済まねえみんな。

 俺、ここに残るよ。

 どうしても三好を殺した奴が許せねえんだ!」


 伊藤の言葉に、一部の救助隊が文句をぶつける。


「助けてもらっておいて生意気だぞ!」


「死にたいんなら勝手に死ねば」


「ちっ、逃げる時間を無駄にしちまった……」


 罵詈雑言ばりぞうごんを浴びせられる中、伊藤は鯆型〈深き者共ディープワンズ〉の背上で頭を下げ続ける。


 すると、海面に巨大な何かが浮上して来た。

 大槻 夫妻である。


 妻が巨身を翻すと、腹側にくっ付いていた夫が水上に現れた。


ふぃふぉぉふん伊藤 君ふぃふぃふぉ君のふぃふぉふぃふぁふぁふぁっふぁふぉ気持ちは解ったよ

 ふぃふぁふぃしかしふぁっふぁふふぉぅふぁんふぁ全く勝算がふぁふぃふぉふぁふふぉ無いとなると……」


「ハンチョー、なに言ってっか判んないっす……」


 大槻は妻の腹に口を癒着させたままである事を忘れていたようで、意を決して口を引き剥がした。

 鱈子たらこ唇が血で赤く染まり痛々しいが、涙目の大槻には愛嬌も感じられる。


「んおおおぉっ!

 痛い、痛いぞ伊藤 君!

 え~っと、何言おうとしてたんだっけ……。

 そうだったそうだった。

 我々と一緒に行こう、伊藤 君!」


 可愛い手を差し伸べる大槻だったが、伊藤の決意は変わらないようだ。


「すんませんハンチョー。

 俺、やっぱみんなと行けないっす。

 三好を直接ったデカ蜥蜴……鰐頭はもう退治されたみたいなんすけど、三好を盾代わりにして死に追いやったあの野郎はだけ許せないんすよ。

 どうしてもこの手で決着を着けなきゃ気が収まらねえ!」


「解ったよ。

 伊藤 君がそこまで言うのなら残るがいいさ。

 でも、相手と刺し違えようなんて思わないでくれよ。

 生きてまた顔を出してくれ。

 それじゃあな……」


 大槻はそう言うと、また妻の腹に口をくっ付け癒着させに掛かる。

 そして、手を振り乍ら仲間達と共に水中へと没して行った。


 伊藤に思念を送る鯆型〈深き者共ディープワンズ〉。


『伊藤 開智、君が上陸できる場所まで送ろう。

 それと、君が九頭竜会に反旗を翻す気概が有る事をとある人物に伝える。

 その人物は九頭竜会の人間だが組織のやり方に反感を抱いていてね。

 君の目的の為に一肌脱いでくれる筈だ。

 さあ、背に乗って……』


 海豚いるかに乗った少年……ではなく鯆に乗った青年は、数多あまたの災厄が待つあなぐらへと、その身を帰した――。





 泡と水の狂漕曲 結び その三 了

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