泡と水の狂漕曲 結び その四
一九二〇年四月 帝都 地下施設 面談室
◇
地下競艇場の惨事を生き残った伊藤は、その後九頭竜会の施設で
逃亡を図らなかった事が幸いし、今の所は刑罰を免れている。
手錠を掛けられた伊藤が面談室に入ると、そこには戸根川が待っていた。
室内は椅子二脚と机が在るばかりの簡素な部屋で窓も無い。
机上には灰皿のみが置かれており、戸根川が吸っただろう吸い
伊藤の入室早々、戸根川は吸っていた煙草を揉み消し口を開いた。
「地下競艇会場の一階部分が水没したあの状況で生きているとはな。
全く、運がいいのか悪いのか……。
今日は幹部の方がお前と面会したいと仰っている。
競艇を任されていたあの方だよ。
さっきお前に関する情報を手渡して来た所だ。
これからお見えになる。
くれぐれも
戸根川が釘を刺すも、三好を盾代わりにした幹部を恨む伊藤に通じているのかどうか。
⦅あん時の野郎にもう出会えるとは、ついてるぜ。
しかと顔おがまして貰うかんな。
人でなしの幹部さんよ!⦆
戸根川が退室して暫くすると幹部が入室。
その顔を観て、三好の仇だと確信する伊藤。
⦅こいつだ!
それにしても見た目が若けえ。
俺と大して違わねえじゃねえか……⦆
伊藤が立ち上がろうとするも、幹部が制して挨拶する。
「そのままそのまま。
初めまして、君が伊藤 開智 君だね。
自分は幹部の宮森です。
今日は君に折り入って相談が有ったので、呼び出させて貰った」
「伊藤です……。
俺に何か?」
「煙草、吸っても構わないかな?」
「……どうぞ」
背広の
「伊藤 君、この銘柄で良かったら君も一服しないか?」
「え?
ええ、頂きます……」
勾留中は煙草など吸えないので、つい承諾してしまった伊藤。
手錠を掛けられている手で受け取ると、宮森が火を移した。
紫煙が漂う中、宮森が切り出す。
「君の事を調べさせて貰った。
君は、〈
それも手傷まで負ってい乍らの生還。
更に、ついこの間の競艇会場襲撃事件でも生き残った。
ああ、競技でも好成績を残していたね。
自分も参加していたから、隣で見ていたよ」
目の前に居る威圧感も糞も無いパッとしない男が幹部だと知れ、複雑な思いの伊藤。
⦅本当に鰐頭と闘ったあいつと同じ奴なのか?
あん時俺が視た、全てを見下すような眼をしてないぜ……。
ん?
あいつの右眼が全く動いていない。
義眼か?⦆
伊藤が
『思念投射は初めてじゃないだろう?
自分は肉声で当たり
重要なのは思念。
思いでの会話だ。
最初は慣れないかも知れないけど、どうか頑張って欲しい。
君の安全は保障するから、今から自分が話す事は他言無用で頼む。
いいね』
伊藤は勝手が解らず『ああ』と肉声で返事をしてしまった。
宮森は唇に人差し指を添え、微笑んでから会話を続ける。
『君が九頭竜会に対し
もし良ければだけど、君の事を話してくれ。
無理矢理君の記憶を視る事も出来るけど、そんな真似はしたくない。
因みに、嘘を念じても直ぐばれるからその積もりで』
叛意を持っている、との言葉に伊藤はギョッとした。
大槻やその仲間達以外には誰にも話していないし、ましてや大槻 達と顔を突き合わせている所を見られた覚えも無い。
九頭竜会の人間にしても、競艇会場に現れた化け物共の処理で手一杯だった筈。
それが全て
『思念でって……。
これでいいですかね、宮森さん?』
観念した伊藤は、慣れない乍らも全てを思念に乗せて語る……。
◇
最初は宮森を警戒していたが、纏う雰囲気に覇気や邪気が感じ取れないため警戒を解いた伊藤。
宮森も威圧的な態度を見せる事なく話を聴き終えた。
『三好 君の事は残念だったね』
『あんたが
俺は忘れねえぞ!
……って、今はあんたが殺ったとは思ってねえ。
何故なら、三好を殺った奴は義眼じゃなかったからだよ』
『そこまで細かい所に気付けるとは鋭いね。
そう、三好 君を殺したのは自分じゃない』
『でもよ、顔はあんたそのものだったぜ。
どうなってやがる?』
宮森は伊藤の誤解を解く為、
『……なんてこった。
予選最終日まではあんたで、あの日は別人と入れ替わってたのかよ。
どうりで雰囲気が違う訳だぜ。
で、三好をあんな目に遭わせた奴はいったい誰なんだ!』
『この国の皇太子、瑠璃家宮
『皇太子だあ?
その皇太子様が競艇に出て、そのあと鰐頭と闘ったってのか。
然も皇太子様自体も化けもんの仲間と来てやがる……』
『信じられないのも無理はない。
しかし、皇太子を始めとした九頭竜会の幹部連中がこの国を滅茶苦茶にしているのも事実。
これからは大槻さんや三好 君達のような〈深き者共〉を量産し、国内の別勢力や外国と戦争を始める気だろう』
この国に巣食う悪魔の正体を知り、伊藤は困惑と
『そんな事までやろうとしてんのかよ、瑠璃家宮って奴は!
で、ハンチョーを知ってるって事は、俺を助けてくれたあの〈深き者共〉も?』
『正確には〈深き者共〉ではなく、〈深き者共〉と鯆との合いの子らしい。
種族名は〈ラニクア・ルアフアン〉と云うそうで、九頭竜会に敵対する意思を持つ自分とは同盟を結んでいる。
今は連絡を取り合う中でね。
大槻さんは君の事を大層心配していたよ』
『そう、なんすか……。
ハンチョー、まだ俺のこと気に掛けて……』
『では、そろそろ本題に入ろう。
自分は幹部への昇進が叶い幾らか融通の利く立場になったんだけど、その代わり帝居から無暗に離れる事も出来なくなった。
そこで、自分の代わりとして動いてくれる仲間が欲しい。
大槻さん達にはその
そこで伊藤 君に白羽の矢を立てた、と云う訳。
自分の秘書として登用したいんだけど、どうだろう?』
『宮森さんすんません。
ひしょっ、てなんすか?』
『ああ、済まないね。
本来は書物を管理する役職の事なんだけど、この場合は単なる付き人と思ってくれていい』
『俺は全くと言っていいほど学もねえし、あんたの付き人が務まるとは思えねえけどな……』
『
でも、九頭竜会を打倒する気持ちが有るなら自分達に協力してくれないか?』
宮森の申し出に驚くばかりで、どう答えていいのか判らない伊藤。
『確かに、このまま九頭竜会に飼われてても実験なり何なりで死ぬだろうな。
でも俺は、〈深き者共〉でも魔法使いでもない只の労働者っすよ。
あんたの弾除けぐらいにはなれるかも知れねえが、それ以上の働きが出来るとは思えねえ』
『それについては心配いらない。
優秀な講師を付けるからね。
じき、魔法使いになれると思うよ』
『は?
俺が魔法使いに?』
ここで、宮森とは違う思念が伊藤の脳中に入り込んで来た。
『グダグダ言ってねえでオイラにまかせんしゃい!』
『何だ⁈
あんたの他にも誰か居るのか?』
伊藤はキョロキョロと周囲を見回すが、声の主を捉える事が出来ない。
宮森が『明日二郎、出て来てくれ』と頼むと、宮森の耳孔から名状し難い化け物が登場する。
ソレを視てしまい吐き気が込み上げて来る伊藤。
『何だ、オイラの
うむ、素質は充分と
今日からお前さんの教育を担当する、比星 明日二郎だ。
シショーと呼ぶが良いぞ!』
そう
そこに居たのは、
『よしっ。
オイラの真の姿、とくとご覧あれ~。
うんしょっと!』
化け物は伊藤にそんな思念を送った後、体節をビクビク震わせて
すると、体節上部より勢い良く『ビュルッ……』と何かが顔を出す。
顔を出したのは、赤い目をして顎の無い……子供の顔だった。
カオが顔を出す様子を間近で視てしまった伊藤は、あろう事か肉声で叫び出す。
「何だ⁈
宮森、あんたやっぱり俺を殺す気だろ!
来るな来るな来るな来るな来るな来るなっ‼」
伊藤が余りにもビビるので姿を消した明日二郎。
そこへ異常を聞き付けた守衛と戸根川が入室し、伊藤を取り抑えに掛かる。
「おい伊藤、お前 宮森さんに何してる!
あれほど粗相するなと言っておいたのにこれかっ。
お前が死ぬのは構わんが、私が責任を取らされ降格にでもなったらどうしてくれる!」
心の声が
しかし伊藤にとってはそれどころではない。
明日二郎を認識した際に感じた霊的悪寒が、背筋ではなく胃の
そして伊藤は……
「く、臭いッ……き、ぎもぢヴぁ…………!」
戸根川の胸に盛大にぶちまけた――。
◇
泡と水の狂漕曲 結び その四 了
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