春秋の終わり
「最近急にあったかくなったよねぇ〜」
彼女はのんびりとそう言いながら、ふわ、と大きなあくびをした。隣で寝転ぶ顔は少し微睡みを見せていて確かに眠そうだった。
「つい最近まで冬だー!寒い!なんて言ってたのに?」
「そうなんだよねぇ〜。最近は春とか秋とかの季節が無くなってきたって言われるけど、やっぱり急に変わると季節の変わり目を感じるね」
「それ、逆じゃない?」
そう?と彼女は返すが、私はどう逆なのかは詳しく説明しない。彼女も、私が説明しないことを特に気に留めない。それが普段の私たちの会話だった。唐突によくわからないことを言って、特に突き詰めることもなく、気が向かなくなったら会話が終わる。側から見たら成り立っているのかもわからないようなこんなやり取りが、彼女と私の2人きりの関係の様に見えて、私は好きだった。
「やっぱり私、冬が好きだな」
「毎年言うね」
「だって冬は毎年来るじゃん」
彼女は感性が少し独特なところがあって、私はそれが好きだった。冬の寒さを毛布に例えたり、夏の暑さを冷水の痛さに例えたりするところがあった。私は彼女が純粋のまま零す言葉が好きで、いつも覚えていた。彼女が冬が好きだと本当に毎年言っているのも覚えている。彼女の言葉は、彼女の口元を離れても独特な輝きを放っていて、いつも私の頭の中で美しく煌めいていた。
「冬が好きなのに、段々暖かくなってきちゃったなぁ」
「そういうものだからね」
「そういうものかー」
ふわ、と私もあくびをする。先ほどの彼女のあくびがうつったのか、段々と眠気が込み上げてくる感覚がする。2人でかけている毛布をもう一度たくし上げると、彼女はふふ、と笑みをこぼした。
「なんだっけこれ、授業で習ったあれみたい」
ごろんと体全体をこちらに向けながら彼女はそう言う。
「どれ?」
「ほら、春になると眠くなりますね〜みたいな……えっと、『春はあけぼの』?だっけ」
「『春眠暁を覚えず』の方だね」
「あっ、それだそれだ。やっぱりハルは賢いなぁ」
そう言ってにっと彼女は笑う。細められた栗色の瞳がこちらをじっと見つめているのがなんだか照れ臭くて、私もつられて笑みをこぼす。
「習ったのすっごく前じゃない?」
「中学2年の6月の古典の授業だね。」
「そんなに前かぁ……もう覚えてないや……ハルはいつも私の分も覚えててくれてるね……」
随分前のことでも、私にとってはつい最近の事このように思い出せる。彼女がその時の古典のテストの点が低くて泣きついて来たことも。2人とも家に帰りたくなくて、図書室で枕草子を読み漁ったことも。彼女は忘れているかもしれないけれど。段々と記憶は薄れていくもののはずなのに、私の中には彼女との思い出がいつまでも鮮明に残っている。
「ふぁ……ぁ……あーあ、眠くなってきちゃったね」
「そうだね」
「こんなに眠いことある?」
「まぁ、そういうものだからね」
「やっぱりそういうものかー」
彼女は大きく伸びをすると、ふと向こう側の窓の方に顔を向けた。
「あ、明るくなってきちゃった」
確かに、正面の窓の外は先程よりぼんやりと明るくなっている様な気がする。磨りガラスだから景色は見えないが、おそらく日の出が近いのだろう。つい最近までは朝早くなどは真っ暗だったのに。きっと私達が気づかないうちに、春はもうそこまでやっていているのだ。
「なんだか」
彼女はこちらに向き直して、私の顔をじっと見つめた。
「キラキラしてて、ハルみたいで綺麗だね」
ふにゃ、と彼女は笑う。そうして、彼女はそっと目を閉じ、そのまますぅすぅと寝息を立てて、眠ってしまった。ふわふわの茶色の癖毛に包まれた寝顔は、ガラス越しの日の出にぼんやりと照らされている。段々と白んでいく視界の中で、彼女の最後の笑顔と言葉がキラキラと輝いている。
「アキも……アキの方が何よりも綺麗だよ……」
どんなに知識を重ねても、何度呟いても、私の言葉は陳腐なものにしかならない。彼女の、アキの言葉の様には輝かない。それなのに、彼女の薄ピンクの唇が、美しい言葉たちを紡ぐことはもうない。
閉じ切った部屋は段々と白い煙に包まれていく。空になった睡眠薬の箱も、じくじくと七輪の中で燻り続ける炭も、いつからか片付けられなくなったゴミも、全てが白んでいく。襲ってくる強制的な眠気からか、視界がまたぼやけた。もう一度毛布をしっかりと彼女にかける。2人で必死に隠していた傷は、きっとまだ彼女の体にも残り続けている。寒くなると長袖の服を着てもおかしくないから、冬が好きだと言っていた。熱くなると傷の治りが遅くなるから、夏は嫌いだと言っていた。理由をはっきりアキが言ったことは無かったけれど、私はずっと分かっていた。どうか、彼女の傷が、これ以上晒されることのない様に。温もりに包まれたまま、アキが眠れます様に。いつ眠ったかもわからないまま、無事に永遠の眠りに着きます様に。
ぼんやりとただ薄く開いただけの目に、静かになったアキの体の向こう側から、段々と陽の光が差し込むのが見えた。
「はるはあけぼの、やうやうしろくなりゆくやまぎは……」
アキのために何千と唱えた特別な子守唄は、考えなくてもすらすらと口からこぼれ出る。じわりと瞼を閉じれば、彼女にもらった沢山の言葉が夜明けの星の様に散らばっていた。その中でも最後の言葉は、明けの明星の様に一等輝いている。夜明けの空の下、アキが手を目一杯に広げて、私を呼ぶ姿が見えた様な気がした。
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