どこかの世界に生きる人々の話

ゆか太郎

春にほころぶ君蕾


眠る度、思い出す。貴方の姿を。貴方の声を。顔も、表情も、繋いだ手の皮膚の感触でさえ、ありありと思い出せる。まるで本当に貴方がそこにいるかのような感覚。明晰夢なんて言葉では足りないほどの、完璧な記憶の再現。幾度繰り返そうとも、貴方との記憶だけはカセットテープのように擦り切れることも伸び切ってしまうこともない。他のどんなことを忘れても、貴方と過ごした日々はしっかりと私の脳に焼き付けられたまま。きっと、私の脳が粉々に砕け散るまで忘れることはない。永遠に繰り返される幸せな時間。幸せな空気。幸せを感じる心。幸せそうな、貴方の笑顔。

しかし、夢の世界はいつも突然終わりを迎える。どれだけ長い時を夢の中で過ごそうと、現実の時間は一定に過ぎてゆく。夢は終わりを告げ、目が覚める。脳が現実を認識する。そして、その度に気付くのだ。先程までの幸せな思い出全てが、ただの夢であることを。



物心ついた時から入院していた。私の世界は、病院の中だけ。病院は山の上にあり、眺めがいい日は少し先の街が見えるけど、それも窓から眺めているだけ。街まで降りたことはない。建物の外に出れるのは散歩の時だけで、それも一日のうちに時間制限がある。しかも、必ず看護師さんと二人でだ。でも、看護師さんといるのが嫌と言うわけではない。散歩の時以外でも、誰かと話しているのは楽しい。看護師さんもお医者さんもみんな優しいし、病院から出たことのない私に色々なことを教えてくれる。学校に行けない私に勉強だけじゃなく、色々なことを教えてくれる。おすすめの本を持ってきてくれたり、一緒に折り紙やお絵描きをしたり。

ある日、お医者さんの畑山先生が小さなノートをくれたことがある。シンプルだけど、表紙には薄ピンクに可愛い花柄が描かれている。

「これは?」

「そこに毎日あった事や、思ったことを書くって言うのはどうかな?要は日記だね。どんなに些細なことでもいいし、僕らに見せなくてもいい。君の好きなように使ってね」

それから、日記帳に毎晩その日あったことや思ったことを書くのが習慣になっている。一人きりの病室の窓から見える景色は変わらないけれど、それでも探してみると毎日少しずつ違う発見があることに気が付く。一昨日は部屋の花瓶のお花が変わっていた。看護師さんに種類を聞いたら、スズランと言う花で貰ったものだと教えてくれた。昨日はロビーの掲示板に新しいポスターが貼ってあった。用務員さんに聞いたら、お花見のお知らせだよと言っていた。私にも一枚ポスターをくれて、よかったら参加してねと誘ってくれた。狭い空間でも、見慣れた景色でも、私にとっては毎日が新しい些細な発見に満ち溢れている。今日はこんなことを知った。こんなことがあった。その一つ一つを日記帳に書き留める。感じたことや思ったことを書くのは少し恥ずかしいけれど、一日を振り返りながらペンを走らせる。気づけばいつもその日のページは文字でいっぱいになっていた。書き終えた日記を、大事にベッド脇の戸棚にしまう。サイドテーブルの小さな電気を消して、布団をかぶって目を閉じる。一人の部屋は静かだけれど、私の頭の中では今日一日の出来事が何度も浮かんでは消えていく。そうしているうちに、意識は段々と眠りに落ちていく。


そして毎日、同じ夢を見るのだ。記憶にないのに、やけにはっきりとした夢。しかし、起きれば夢は直ぐにかすれてゆく。不思議な、幸せの感覚だけを残して。微睡む様なその感覚すら、段々と風に吹かれるように溶けて——



はっと目が覚める。勢いよく開いた目に日の光が当たって思わず瞼を伏せる。窓の方に目を向けると朝日がカーテンの隙間から差し込んでいた。今日も天気はいいらしい。最近はもう日が昇るのも早くて、気温も段々と暖かくなってきている。つい最近まで寒くて布団から出たくないなんて言っていたのが嘘みたいだ。もう少ししたら庭の桜が咲くのが見れるかもしれない。去年は確か体調を崩してしまって見れなかったのだった。落ち着いた頃には雨で散ってしまっていて、随分と落ち込んだ記憶がある。そんな事を考えながらベッドから起き上がると、部屋の扉が開いて看護師の中村さんが入ってきた。他にも何人か看護師さんはいるけれど、小さい頃からずっと私の担当をしてくれているのが中村さんだ。

「あら、おはよう。今日は早いのね」

「おはようございます。なんだか目が覚めちゃって」

「自然に目が覚めるのは良いことね」

そんな話をしながら、服を着替えて朝ごはんを食べる。いつも中村さんは私と一緒に病室でご飯を食べてくれる。朝の準備や片付けもいつも二人ですることが多い。毎日長い時間を過ごしているのに、中村さんと話すことは尽きないし楽しい。

「そういえば、今日は定期検診の日でしたよね?」

朝ご飯の時間に一日の予定を確認するのも話題の一つのうちだ。カレンダーの今日の日付の場所には『定期検診』と確かに書かれている。

「そうね、今日は月一の方だから少し時間がかかってしまうかも。それに、先生も今日は健診に加わるっておっしゃってたから」

「畑山先生が?」

普段の健診はほとんどが看護師さん達だけで行われる。畑山先生が来ることは滅多にない。

「ええ。でも健診はいつも通りだから、特に何か変わることはないわ。安心して受けてね」

「はい、分かりました」

朝ご飯を食べ終えて、片付けをしたら検査着に着替える。検査は大体いつもお昼前からだけれど、いつ呼ばれるかわからないから定期検診の日は一日中検査着で過ごすのが常だ。着替えが終わると、中村さんは食器や着替えの荷物を持って仕事に戻って行く。一人になった部屋は随分と静かで暇だ。検診に呼ばれるまで本を読みながら待つことにした。

今日はどんな発見があるだろう。今日はどんなことを知れるだろう。毎朝起きる度、私の心は楽しみに満ち溢れている。季節以外変わらない景色も、繰り返される検査も、私にとっては楽しみな日常の一つだ。ソワソワする心を抑えながら、本のページをめくる。今日もきっと、幸せな一日が待っている。



「君に、会って欲しい人がいるんだ」

定期検診を終えた後、診察室で唐突に畑山先生はそう言った。いつもなら窮屈な検査着から私服に着替えた後、この部屋で診察結果を伝えられるだけだった。定期検診もその結果もいつもと変わらないものだった。相変わらず病状に変化は無いらしい。先生は検査結果の紙束を机に置いて、向かいの椅子に座る私を真っ直ぐ見た。

「会ってほしい人、ですか?」

「うん。というより、君に会いたいと言ってる人、かな」

君が嫌でなければだけど、と付け加えるように先生は言う。

「嫌、ではないですけど……」

嫌ではない。それは確かだ。人に会うことを拒む理由は私には無い。ただ、緊張しないと言えば嘘になる。先生と看護師さん達以外の人に会うのは初めてだ。先生が紹介するのなら危ない人ではないのだろうが、それでも初めての人に会うのはまだ少し怖さがあった。しばらく悩んでいる私を見て、先生はもう一度声をかけてきた。

「相手も君に無理強いはしないと言っているから、無理にとは言わないよ。けれど、きっと君にとって悪いようにはならないと思う。何かあれば僕もいるし、中村さんもそばに居てくれる」

先生が真っ直ぐ私を見つめる。その瞳はいつものように明るく朗らかな感じではなく、すっと通った眼差しをしている。しかし、その奥にある優しさはいつもの先生のものだ。心なしか緊張しているのか、少し揺れているようにも見える。よく見れば両手を組み、足も真っ直ぐに閉じている。これは緊張している時の先生の癖だ。自分が緊張しているのに、私を安心させようとしてくれているのかもしれない。そう考えると、なんだか構えているのがおかしくなってしまって、ふと笑みが溢れた。

「大丈夫ですよ。先生がそう言うなら、信じます。私、その人と会ってみます」

「……わかった。じゃあ、呼んでくるから少し待っててね」

先生は目を緩めると、立ち上がって私の後ろの方の扉から出ていった。一人になった診察室をぐるりと見回してみる。今日のような定期検診や暇な時に先生に構ってもらう時ぐらいしか来ないが、それでも何度も来ている部屋だ。カラフルに色分けされた紙束が棚に敷き詰められ壁を彩っている。机の上には私の分の紙束が積み上げられていて、端には不揃いな小さな手編みのぬいぐるみが置かれている。そういえば、小さい頃はあのぬいぐるみが怖くて泣いてしまったこともあった。今見ても少し不揃いだなとは思うけれど、泣くほどではなかったかなとも思う。子供を安心させるために一生懸命作ったであろう毛糸のぬいぐるみを怖がられた先生がかわいそうだ。あの時の先生の、ショックを受けながら狼狽える姿はよく覚えている。その時の先生の動きがおかしくて泣きやんだのだっけ。先生はいつもはしっかりしているのに、どこか抜けているところがある。そこが親しみやすくて他の患者さんにも好かれているのだと看護師さんたちも話していた。

色々なことを思い出しながら部屋を見回していると、不意に戸棚の奥にしまわれている花瓶が目に入った。それも一つではなく、いくつも並べられている。自分の病室に置いてあるものと形は同じだが、取り出された形跡はない。と言うよりこの診察室で花が飾られているのを見たことがない。それどころか、よく考えると病院内で花が飾られているのは私の病室だけの様な気がする。廊下やロビー、トイレにも花が置かれているのを見たことはない。もしかしたら中村さんや畑山先生が、外に出られない私を気遣って部屋においてくれているのだろうか。それか、入ったことはないが別の人の病室にも同じように飾られているのかもしれない。そんなことを考えていると、診察室の扉が開く音がした。ちらりと後ろを向けば、中村さんが扉を開けて入ってきた。

「今日の検診も大丈夫だった?」

「はい、いつも通りでした」

「それは良かった」

そう言いながら、中村さんは後ろ手に扉を閉めた。私が回転椅子を回して扉の方を向くと、中村さんはしゃがんで私の手を握った。

「いつもの約束、覚えてる?」

「『何かあったらどんな些細なことでも言うこと。苦しかったらすぐに伝えること。無理をしないこと。』でしょ?」

「よくできました。私も畑山先生も側にいるから、何かあったらすぐに言うのよ」

「わかりました」

先生も中村さんも今日はなんだか心配性だ。そんなに私がこれから会う人は危ない人なのだろうか。でも、先生がそんな人を紹介してくる様には思えないから不思議だ。中村さんは扉を開けて、向こうの人と何か話している。しばらくすると、扉が大きく開いて、畑中先生ともう一人が入ってきた。最初に目についたのは手だった。大きい男の人の手が、体の前で固く握られている。

「こんにちは」

その人が声をかけてくる。自分も挨拶をしなくてはと思って立ちあがろうとして、ふと顔を上げた。その人と目が合う。優しそうな、どこか怯えたような目をしたその人を見た瞬間、頭にズキリと痛みが走った。思わず、立ちあがろうとして掴んでいた椅子を倒してしまう。支えるものを失った私の体は重力に従って前へと倒れ込む。咄嗟に横にいた中村さんが手を差し伸べてくれたが、その腕に寄りかかるようにずるずると座り込んでしまった。

「大丈夫!?」

先生が慌てて呼ぶ声がする。

「だ、大丈夫です。少しふらついてしまって……」

頭痛が治る気配はない。しかし、私は何かに導かれるようにもう一度顔を上げて彼の顔を見た。柔らかな目つき。短く整えられた黒い髪に、細いがしっかりとした体つき。その一つ一つを認識するたびに、ドクドクと頭が痛む。知っている。私はこの人を知っている。だが、そのことを思い出そうとすると何かが邪魔をする。もう少しで何かを思い出せそうなのに、考えようとすればするほど頭の中が解けてゆく。もっと深く思い出そうとしてぎゅっと目を瞑った瞬間、それまでの痛みとは比べ物にならないほどの激痛が頭を走った。

「ゔあっ」

あまりの痛さに思わず唸り、床にうずくまる。瞑ったままの瞼の裏がチカチカと点滅する。痛み、音、衝撃、声、立ち尽くす誰かの姿。パチパチと電気を付けたり消したりするように、風景が切り替わっていく。狭い部屋、破れたカーテン、公園。怒号、痛み、泣き声、何かが割れる音。それらが切り替わる度に心臓が強く脈打つ。呼吸が段々荒くなる。目元を覆っても首を抑えても様子が収まる気配はない。すがるように服の胸元を握りしめて、ゆっくりと瞼を開く。倒れ込んだ私の目の前には覗き込む中村さんの顔があった。私に向かってしきりに何か言っているように見えるが、痛む頭の中で響く誰かの声に遮られてよく聞き取ることができない。瞼を開いたことで視界のちらつきはおさまったが、頭痛は収まる気配がない。荒んだ呼吸もそのままで、ひゅうひゅうと喉がなり続ける。せっかく開けた視界が再びぼやけ始めた。床にポタリと水滴が落ちる。こちらを見ていた中村さんが何かを見上げる。その目線の先を追えば、誰かと先生が何かを話しているのが見えた。一度ちらりとこちらを見た後、その人は先生に連れられて扉の方へと向かった。その背中を見て、またズキリと頭痛が走った。あまりの痛さに目を瞑りかけたその瞬間、ふと強い思いが心に浮かんだ。閉じてはいけない。この瞳を、この背中を、私は確かに知っている。今この痛みから逃げて目を閉じてしまえば、きっと私はもう二度と戻れなくなる。不思議と直感がそう告げていた。どこから戻れなくなるのか、それともどこかに戻れなくなるのか。何もわからないまま、胸を掴んでいた手を夢中で伸ばした。この手で掴まなければ。あの手を。過ぎ去る背中を。あなたのその手を。

「まっ……て…………」

喉から細い声が漏れると同時に、手のひらに何かが触れる感触がした。少し硬いけれど、骨のある太さの手のひら。厚みのある皮に、太く長い指。それは確かに彼の手だった。そうだ。どうして今まで忘れていたのだろう。あなたの顔も、声も、存在すらも。忘れていた記憶の全てが、当たり前のように、あるはずだった場所へと戻っていく。気がつけば、先ほどまで続いていた頭痛も息苦しさも嘘のように引いていた。指先から温もりが伝わってくる。ああ、あなたはこんな体温をしていたのか。

「……大丈夫?」

その人はそう言いながら、私の目の前にしゃがみ込んだ。ゆっくりと顔を上げれば、そこには記憶の中より少し大きくなった彼の顔があった。

「もう…大丈夫。全部、思い出したよ……」


どうして忘れていたのだろう。私は物心ついた時からここに入院していたわけではない。どうして不思議に思わなかったのだろう。世間一般的な「家族」という存在について知っているのに、自分にその家族がいないことに疑問を持ったことすらなかった。

初めは私にも「家族」と呼ばれる存在がいたのだ。ただ、それはとても幸せの象徴とはかけ離れたものだった。たまに家に帰ってきてはお母さんに暴力を振るうお父さん。お父さんのいないところで私に暴力を振るうお母さん。小さな部屋の中で繰り返される負の連鎖の最終地点が幼い私だった。何もしていなくても殴られたり怒られたりした。家の中はまるで家族の形をそのまま表したようにぐちゃぐちゃで、その部屋が私の生活の全てだった。当たり前のように幼稚園にも小学校にも通わされなかった。そんな生活の中で、唯一手を差し伸べてくれたのが名前も知らない彼だった。

あの家から保護された後、私は苦しい記憶を奥底に埋めるように家族のことも彼のこともすっかり忘れてしまった。そんな私に当たり前の生活と治療を与えてくれたのが、畑山先生と中村さんだった。私以外に患者のいない病院も、私の部屋にだけ飾られ続ける花も、家族のように接してくれる看護師さんも。みんな、私のことを守っていてくれたのだ。




「思い出したんだね……?」

声のする方を見ると、畑山先生と中村さんが心配そうにこちらを見つめていた。そうだ、ずっとこの二人が守ってくれていたのだ。私が過去のことを思い出さないように。それでいて壊れないように。

「はい……ずっと、守ってくれていたんですね……」

「守っていたなんて大層なものじゃないよ。ただ、僕にできる治療と、するべき処置をしていただけさ。それに、彼との接触で記憶を取り戻すかもしれないという見立ては合っていたいたみたいだ。」

「最初はどうなるかと思ったけれど、大丈夫そうならよかった」

二人がにこりと笑いかけてくれる。その笑顔はいつもと変わらず、私を安心させてくれる。二人はいつも本当の両親のように接してくれていた。それにどれだけ救われていただろう。

「本当に、ありがとうございます」

「いいのいいの。積もる話もあるだろうから、二人でゆっくり話すといいよ」

そう言うと、先生と中村さんは部屋から出て行ってしまった。二人残された部屋で、再び彼と向き合う。

「迎えに来るのが遅くなってごめん。思ったよりも手続きに時間がかかってしまって。それに君の治療にも時間がかかるとわかっていたから」

「ううん。いいの、こうして迎えにきてくれただけで嬉しい」

名前も知らない彼の手を、ぎゅうと握る。両手で彼の手を包み込むと、彼も答えるように私の手を両手で握りしめてくれた。顔を見れば、優しそうな瞳がじっとこちらを見つめている。

「先生にずっと話は聞いていたけれど、健康になっていてよかった」

「だって何ヶ月もここにいたんだよ。もう外だって走れるし、勉強も沢山したよ」

「本当?それはすごいや。また今度外に遊びに行こうか」

「いいの?」

「もちろん。ちゃんと先生にも許可はとってあるし、君が望めば退院もすぐできるよ」

お外に退院と魅力的な言葉が並べられて、心が浮き足立つ。それでも、その前に、私は彼に言わなければいけないことがあるのだ。どう切り出そうかとぐるぐる考えが回り続ける。黙り込んでしまった私に、彼がゆっくりと声をかけた。

「一つ、聞いていい?」

彼の声は慎重で、それでいて真っ直ぐだった。

「君は今、幸せ?」

彼の声は確かに、私の思考を真っ直ぐに断ち切った。そうだ、私は、彼と約束をしたのだ。大事な約束を。

「幸せ、だよ……。約束破って……ごめんなさい……」

何かが頬を伝うのを感じる。俯けばポタリと膝が水滴で濡れる。目から溢れる水はとめどなく流れて、床へと落ちてゆく。しゃくり上げるように私は呟き続ける。涙を止めようとどれだけ目を擦っても、勝手に流れて止まってはくれない。

「ごめんなさい……約束、したのに……幸せにならないって……」

あんなにも大切な約束を、すっかり忘れてしまっていたのだ。どんなに謝ってもきっと許されないだろう。顔を伏せて擦り続ける私の手を、彼が掴んで止めた。

「いいんだよ、君が幸せでいてくれたら。幸せになるのに、誰かの許可なんて必要ないんだから」

彼は私の頬を優しく拭ってそう言った。

「それでも、君がもしよかったら、僕に幸せにされてくれないかい?」

彼の声に引き上げられるように顔を上げる。そこには不安そうな彼の顔があった。

「あの時の約束を、僕に叶えさせてほしいんだ。もちろん、君がよければ……だけど」

ああそうだ。彼もまた、ずっと不安だったのだろう。約束も何もかも忘れてしまった私を、ずっと待ってくれていたのだ。そんな彼の思いを、願っても無い未来を、どうして拒むことができるだろうか。

「これまでもね、先生や、中村さんや、みんなのおかげで確かに幸せだったよ」

彼の手をもう一度握り込む。私をずっと、知らないところで守ってくれていた手。大きくて優しい手。あの時伸ばしても届かなかった手を、今度は自分から掴めたのだから。

「でも、あなたが一緒にいてくれたら、もっと幸せだと思うから」

「だから、一緒にいてくれませんか」

まるであの時のように、診察室の床に座り込んだまま、どちらからともなく小指を絡める。

あなたに話したいことが沢山あるのだ。ここでの生活のこと。色々な発見や楽しかった毎日のこと。ここで過ごした2年間を語るには数日では足りないだろう。外に出ることができたら、聞きたいこともやりたいことも山ほどある。それでも、急ぐ必要はないのだろう。これから先、時間は沢山あるのだから。書き溜めた日記を二人で振り返りながら、あの時のようにいろいろな話ができたら。

それでも、もし1つだけ叶うなら。最初に桜を見るのは、あなたと一緒がいいと思った。

診察室の外。少しはだけたカーテンの向こうには、大きな桜の木の蕾が、暖かな光を浴びてその身を膨らませていた。待ち望んでいた春が、もうすぐそこまで来ていた。





それは久しぶりに雪の止んだ日のことだった。学校の帰りに偶然立ち寄った公園で、どこからか子供の泣く声が聞こえた。親とはぐれてしまった子だろうか。それとも、友達に置いて行かれてしまったのだろうか。周りを見るが公園には僕以外に誰もいない。もう夕方だし放っておくわけにもいかないと思い、泣き声の主を探した。その子は案外すんなりと見つかった。大きな遊具の中の空洞で、うずくまって泣いていた。しかし、その子を見た瞬間、この子がどんな状況なのかすぐに分かった。まだ寒い冬だと言うのに薄い長袖の服。ボサボサの髪に服の裾から覗く青黒いアザ。この子は親とはぐれて泣いているわけでも、友達に置いて行かれて泣いているわけでもない。この子はきっと、昔の僕と同じなのだ。なぜ自分が泣いているのかもわからない、助けを呼ぶこともできない小さな子供。

「こんにちは」

僕が声をかけると、その子はびくりと肩を揺らしてゆっくりとこちらを見た。

「こ……こんにちは……」

瞳いっぱいに涙を溜めながら、その子はおずおずと口を開いた。

それから僕は何度も公園に通ってその子と会って話をした。遊具の中に二人座って、自然のことや、天気のこと。子供がどんな話で喜ぶのかわからなかったけれど、その子は僕の話をいつも笑顔で聞いてくれた。雪の日も、雨の日も、その子は決まった曜日にいつも公園の遊具の中にいた。

春が近づいたある日、どうしても耐えきれなくなって、一緒に来ないか訪ねたことがあった。完全な保護はできないけれど、一緒に警察に行くぐらいはできると思った。でも、その子は俯きながら呟いた。

「お母さんがね、わたしはしあわせになっちゃいけないっていうの」

「大事なやくそくだって、おいていかないでって」

「だからね、私はしあわせになっちゃいけないの」

そう言って、笑うその子の姿を見て、僕は何も言えなかった。この子はきっと、僕がどんなに説得しても、こう言って笑うのだ。それがこの子を守り続けてきた生き方なのだろう。だから僕は、こう言った。

「僕とも約束をしないかい?」

「お兄さんと、やくそく?」

「そう、大事な大事な約束」

その子の小さな手を取って僕の両手で包む。

「僕が必ずいつか迎えに行くから。それまでは、幸せにならないで」

「これなら、お母さんとの約束も破らないで済むでしょ?」

にこりと笑いかければ、その子も明るい笑顔で笑い返してくれた。

「本当だ!お兄さん、かしこいね!」

嬉しそうにその子は僕の手を握り返してくる。折れそうなほど細い腕を目一杯振って喜ぶその姿があまりにも痛々しくて、僕は思わず抱きしめた。

「?お兄さん、どうしたの?」

不思議そうな声にはっとして体を離す。なんでもないよと言って、その子の手をもう一度握った。細い小指を自分の小指に絡めて呟く。

「これは?」

「約束のおまじないだよ」

不思議そうな顔をしながら小指を見つめるその瞳の奥には、確かに光があった。この光を絶やさないために、僕にできることは全てしよう。警察にも、お世話になった医者の先生にも既に連絡はしてある。あとはこの子が家に帰ればきっと手はず通りに保護されるはずだ。そっと手を解いて立ち上がる。

「それじゃあ、今日は帰るね。君も早く帰るんだよ」

「……ばいばい、お兄ちゃん」

小さく手を振るその子を背に、僕は公園を出た。空を見上げれば、以前よりも沈むのが遅くなった夕日が白い雲をオレンジ色に染めている。あの子が陽に当たる場所で笑えるようになりますように。そう願いながら、強く手を握りしめて僕は歩き出した。



ふと伸ばした手は空を切った。腕が地面にぱたりと落ちる。どうして今、私は手を伸ばしたのだろう。いつもと同じ、お別れなのに。いつもと同じ、さよならなのに。どうして私は、帰るお兄ちゃんの手を掴もうとしたのだろう。しばらく地面に落ちた手を見つめていると、夕方のチャイムが鳴り響いた。そうだ、早く帰らないと。お母さんがきっと家で待っているから。地面に手をついて、ゆっくりと立ち上がる。外は気づけば薄暗くなっていて、街灯が付き始めていた。ふと、公園の中心にある大きな木を見上げた。暖かくなったら、きれいな花が咲くのだとおにいさんが教えてくれた。いつになったら見れるのだろう。その時は一緒に居られるだろうか。そんなことを考えながら、重い足を動かした。



雪がちらつき始めた寒空の下、名前も知らないあなたとの約束を胸に、ゆっくりと歩き出した。

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