第9話 お早いお帰りで……

 アパートの階段を足取り軽く上る。買い物袋が俺の動きに合わせて、ビニールの擦れる音を立てる。何時ものならば五月蠅いと思うその音も、今の俺には祝福の歌声にさえ聞こえるのだ。

 昨日から俺の一人暮らしの生活を乱していた、毛玉を厄介払いすることが出来たのだ。嬉しくないはずがない。今日は炭酸水と肉でお祝いだと、浮かれながら部屋のドアを開けた。


「……うわぁ……取り敢えず。片付けからだな……」


 家に入り、リビングへと行くと部屋が荒れていることに気が付いた。そういえば今朝は、寝坊したため慌てて出かけたのだ。散乱した衣服を片付けなければならない。


「……あれ? 綺麗になっている……」


 食材が入った買い物袋をキッチンに置きバッグを置いた。すると昨晩使用した調理器具が綺麗に洗われていることに気が付いた。

 あれ?俺は昨日ホットケーキを作り、疲れて寝てしまった筈である。俺は一人暮らしで、兄姉が泊まりに来ているわけでもない。つまり、俺以外の人物が使用した調理器具を洗ったということになる。


「……え……? 誰が? ……」


 小さく呟いた筈の声が、俺しか居ない空間に酷く響いた。本当に誰が、使用した調理器具を洗ってくれたのだろう?いや、作るだけ作って寝た俺が文句を言うのも悪いが、洗うのならば拭いて仕舞うまでしてくれても良かったのでは?まあ、折角そう思いながら、調理器具を仕舞う。


「……そういえば……。食べていたな……」


 最後の大皿を仕舞うと、つい毛玉のことを思い出した。昨晩のホットケーキという名の暗黒物質を、頬いっぱいにして食べていた。何が毛玉をあれだけの食欲に、駆り立てたのは分からない。今はもう俺の所には居ない為、知る術はもうないのだ。永遠の謎となった。


「……あ……。食事は如何するのだろう?」


 毛玉のことを思い出していると、ふと食事を如何するのかと疑問が浮かんだ。常田教授に擦り付ける形で預けたが、常田教授には毛玉の存在を認識出来ていない。

 つまり、毛玉が教授の食べ物を勝手に食べると、料理が急に消えた。という現象が起きることになる。毛玉の食事回数と摂取量は分からないが、毎日食材や料理が勝手に消えるというのは非日常的だ。その狂気的な状況に、果たして常田教授が耐えられるだろうか?

 まあ、俺よりも年齢は上であるから経験豊富だろう。きっと大丈夫だ。実家から毛玉という刺客を送り込まれた俺が大丈夫なのだから、大丈夫だ。


「毛玉、如何か教授に迷惑をかけるなよ」

「きゅう!」


 来週の授業も教授が元気よく、教室に来ることを祈った。


「…………は?」


 幻聴だろうか。一瞬、毛玉の鳴き声が聞こえたような気がした。如何やら昨日と今日の疲れが出ているようだ。毛玉は常田教授に預けてきたのだ。此処には居ない筈である。


「…………毛玉?」

「きゅっ!」


 万が一のこともある。俺は恐る恐る毛玉を呼んだ。すると、足元にあるショルダーバッグから鳴き声が上がった。大丈夫だ。落ち着くのだ、俺よ。帰りに寄ったスーパーでもバッグを開けたが、毛玉の姿はなかった。大丈夫だ。


「……大丈夫。大丈夫……」

「ふゆぅ!」


 嫌な予感がしたが、確認をしないわけにもいかない。大丈夫だと己に言い聞かせる。俺はしゃがむと、バッグを開けた。そこには、青い瞳を持つ白い毛玉が居た。


「なんで居るんだよ……」

「きゅう? きゅう!」


 俺はそのままの体制で固まった。それもそうだろう。居ないと思って安心をしていた存在が、目の前に現れたら驚くだろう。毛玉は俺の胸中を意に介さず、青い瞳で不思議そうに俺を見上げる。


「……っ! なんだよ……。綺麗にしてやったのも、俺なのに……。常田教授のことが気に入ったんだろう? なんで此処にいるんだよ……」

「きゅう? きゅう!!」


 毛玉の態度に、俺は思っていることをぶつけた。別に毛玉のことなんて、なんとも思っていない。只の毛玉で実家から送られてきた刺客だ。何処に行こうが、誰と居ようが俺には関係ない。だが、あの暗闇な姿を洗ったのは俺だ。礼の一言でも言えよ。理不尽にも、毛玉に文句を言う。すると、毛玉が俺の顔に飛びかかってきた。


「……うわっ!?」

「きゅ! きゅう!」


 毛玉の突然の行動に、俺は驚き尻餅を着いた。怒ったのか?俺はこいつの夕飯に食べられてしまうのか!?そう思い一瞬身構えたが、俺の頭が齧られることはなかった。鳴き声を上げながら、俺の頭に引っ付いている。


「人の頭の上で何をしているんだ?」

「きゅぅ! うきゃ!?」


 如何いう原理で俺の頭に引っ付いているのは分からない。しかし、いつまでもこの状態でいるわけにもいかない。頭の上で鳴き声を上げられるのは、正直鬱陶しいのだ。両手で毛玉を掴むと、頭から降ろす。鳴き声を上げながらも、暴れる毛玉。暴れるからと言って、相手のご機嫌を取るようなことを俺はしない。


「きゅう……」


 膝を上に毛玉を降ろすと、なんだか元気がないようだ。今さっきまで、俺の頭上で暴れていたよね?何?頭の上に居ないと元気じゃなくなるの?俺の頭からは元気エネルギーが出ているのか?俺の頭はパワースポットだった!?

 急に大人しい毛玉に過去の記憶が重なる。昔、俺が幼い頃に実家で一緒に遊んでいた白い犬が居た。田舎だと同級生が中々居らず、兄姉とも遊ぶのに飽きていた時に出会ったのだ。毎日、森で一緒に遊んだ。日暮れになると、家まで送ってくれたものだ。とても賢い犬だったことを覚えている。あの犬も悲しかったり、反省していたりすると悲しげな鳴き声を上げていた。


「……もしかして、万が一にも……その……反省していたりするのか?」

「……きゅ……」


 不意に思い出した記憶から、一つの可能性に思い至った。この毛玉があの犬のような賢さがあるかは分からない。だが、俺の直感が確かめるべきであると告げたのだ。

 俺は己の直感を信じて、毛玉に真意を訊ねた。すると、体全体を小さく揺らし頷いた。


「…………はぁぁぁ。反省するなら、始めから何処かに行くなよ……」

「きゅぅ? きゅうう!!」


 予想は当たっていたようだ。反省する毛玉とは世にも不思議である。授業に集中できなかったこと、色々とヤキモキさせられたことアニメを見逃したこと。文句を言いながら、八つ当たりをするように毛玉の頬を指で突く。

 毛玉は俺の文句を理解していないのか、俺の手にじゃれついた。ふわふわの毛は肌触りがとても良い。流石は俺が洗っただけのことはある。


「……まあ、毛玉だし……いっか……」

「きゅう!!」


 色々と考えなければならないのだが、今日は色々とあり疲れた。取り敢えず、周囲の人間からは毛玉の存在は認識されない。これで大家さんや両隣の住人から、不審がられることはないだろう。それに動くクッションだと思えば毛玉一匹ぐらい居てもいいだろう。そう結論付けると、毛玉を撫でた。


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