第8話 さらば毛玉

 大講義室には、常田教授の低い声と学生たちが立てる筆記具の音が響く。


「ふぁみゅ? きゅう!」

「…………」


 ただし、俺にはもれなく謎の生物通称毛玉の鳴き声が聞こえている。周囲の人間には見聞き出来ていないことは、騒ぎにならず良いことだ。良いことなのだが……。毛玉は自分の存在を認識されないことを良い事に自由に動き回っている。


「きゅう……きゅ!」

「……っ! くっ!」


 だが、俺には見聞き出来る。今も机の縁から落ちそうになった。思わず立とうとした俺には、机に勢い良く膝をぶつけた。おのれ毛玉。毛玉がどうなろうと俺は気にしないが、実家に送り返す手前怪我をさせるわけにもいかないのだ。

 正直、視界に入り授業に集中出来ていないの。授業妨害もいいところだ。毛玉を視線で追っても不自然に見えないように、適当にメモをとるフリはしている。ノートの内容はきっと滅茶苦茶だろう。後で二人にノートを見せてもらわなければならない。


「きゅう?」

「…………」


 授業時間があと残り十五分程になった。すると不意に、毛玉が教壇の方に興味を示した。嫌な予感がした。何故だ、毛玉よ。さっきまでの全く存在に気が付いていなかっただろう?眼中になかっただろう?正直に言ってごらん?机と机の間を飛ぶという危険な遊びに夢中になっていただろう?俺は知っているからな!俺の膝が証人だ! 

 何故、今になって教壇の方を見るのだ。まあ、落ちそうになる遊びを止めてくれたのは嬉しいのだが。お願いだから、そのまま大人しくしていてくれ。このままでは、俺の膝が痣だらけになってしまうだろう。

 それともお前は、俺の膝を破壊するために実家から送り込まれた刺客なのか?年末年始を実家で過ごさなかっただけで、刺客が送り込まれてくるの?え?俺の実家は治安が悪くないか?よく考えてみれば、矢文をしたり甲冑があったりと色々と野蛮かもしれない。速報、俺の実家が野蛮だった件について。


「きゅ……きゅ?」

「……っ……」


 俺が実家の野蛮性について考えていると、毛玉が教卓の上を探索している事に気が付いた。終わった。手元のシャープペンシルから、軋む音が聞こえた。すまんなシャーペン。耐えてくれ。

 幸いなことに、常田教授は毛玉の存在には気が付いていない。解説を交えながら、黒板に必要なことを記入していく。このまま何も起こらないでくれと切に願う。


「あきゅ! きゅう!!」

「…………」


 だが世の中にはフラグというものが存在する。そしてそれを俺は自ら立ててしまったのだ。最悪なことに、毛玉は俺を見つけるとその場で跳ねた。フラグ回収をした。こんな時はどのように対処をしたいいのだろう?手を振るわけにも、返事をするわけにもいかない。何か行動に移せば俺は不審者が確定する。今は授業中である。俺は無視をすることにした。


「むきゃ! むう!」

「…………」


 俺が反応を返さないと、毛玉は両頬を膨らませた。昨晩のハムスターの再来である。ただし、その頬に含まれているのは空気である。何が不満なのだ、あの毛玉は……。不満を言いたいのは俺の方である。

 ふと、そこで俺はあることに気が付いた。授業が終わった後にあの毛玉を如何、回収したらいいのかということだ。授業が終われば、学生たちが自由に教室内を動く。更に言えば廊下に通じる扉も開く。つまり、素早く毛玉を回収せねばならないのだ。

 そのことを踏まえると、毛玉が教卓の上にいるのは好都合である。授業が終わればレポートを提出に、教授の下に列が出来る。提出をするついでに、毛玉を素早く回収すればいいのだ。名案である。神様はまだ俺を見捨ててはいない!快適な大学生活を過ごす為にも、スマートに毛玉を回収する。


「……チャイムがなりましたね。本日の授業はここまでです。レポートを提出出来る人は、一列に並んで下さい」

「……よし」


 毛玉回収作戦を練り終わると、丁度チャイムが鳴った。授業終了の合図である。常田教授も、話しを終えるとレポートの提出を促した。作戦決行ではあるが、焦ってはいけない。普段、俺がレポート提出する順番は大体後半側である。それはいつも座る席が大講義室の一番後ろの席であり、教卓に行くまでの道に時間がかかる事その間に列が出来る事が理由である。

 従って平静を装うならば、何時もと同じく行動を取るべきである。一番に提出すれば、不審に思われるに違いない。一刻も早く、毛玉を回収したいという気持ちを抑えつつ人の列が出来るのを待つ。


「清水? 如何した? 並ばないのか?」

「……えっ!? あ、いや……」


 列が出来るのを伺っていると、横から声をかけられた。けんけんである。彼の手にはレポートが握られており、提出することがわかる。大講義室の椅子は長椅子になっているため、俺が席から退かないと奥の人は出る事が出来ないのだ。早くレポートを提出したい気持ちは分かる。俺も出来ればそうしたい。だか、あまり目立つ行動は避けたいのだ。列の出来具合が半分以下である。如何した学生諸君?何故、レポートを提出に行かないのだ!?皆、行ってくれ俺のために列を作ってくれ!そう願うが、列が伸びる気配はない。今行くタイミングではない。しかし、理由を告げるわけにもいかず。言葉を濁らせた。


「もしかして、レポートを忘れたとか?」

「いや! ちゃんとやって来ているから!」


 剣持の後ろから顔を覗かせた山吹の指摘に、ムキになった俺は立ち上がってしまった。やってしまった……これでは列に並ぶしかない。いや、本当にやって来たのだ。やましいことなどない。ただ目立ちたくないだけだ。

 レポートを片手に、列の最後尾へと並んだ。


「きゅ! きゅう!」


 列の前方から楽しそうな鳴き声が上がる。教卓の上を見ると毛玉の姿はない。今度は何処に行ったのだ。だが、声がするということはこの部屋に居ることは確実だ。少し予定はずれてしまったが、レポートを提出したら捕まえればいいだろう。


「はい、次の人」

「は……」

「きゅい!」


 徐々に列が進み、俺の順番になった。前の学生が退くと常田教授の姿が見えた。だが、その姿を見て俺の返事は中途半端に止まってしまった。何故ならば、教授の肩に毛玉が乗っていたからだ。なんでそんな所にいるのだ。毛玉よ?え?これは『教授、毛玉が付いていますよ?』と言って毛玉を回収すればいいのか?まあ、毛玉だから毛玉を回収するには間違ってはいないな。だが、その方法で上手くいくか?碌に話したことのない教授相手だぞ?いけるのか?俺よ?


「如何しました?」

「あ、いえ……レポートお願いします」

「きゅっ! きゅう!」


 不自然な動きをする俺を、常田教授が訝しげに見る。今日はよく人から不審がられる日だ。全ては毛玉の存在が原因である。これ以上、不審者度を上げたくない。教授がレポートの名前と名簿を確認している間に、毛玉を回収しようと目線を向けた。俺が手を伸ばすのは、変なので出来ればこちらに飛んできてもらいたいのだ。


「…………」

「ぶぅ! うぅ!」


 両頬を膨らませると、左右に体を振る毛玉。如何やら交渉は決裂したようだ。いや、相手は初めから俺を嘲笑う為に存在をしているのだ。交渉の余地はなかった。流石は実家から送られてきた刺客である。

 いや、待てよ。これは好機ではないだろうか。毛玉は常田教授に懐いているようだから、このままにして俺は一人暮らしを謳歌すればいいのだ。何故、回収しようなどと思っていたのだろうか俺は……。毛玉は実家から送られてきたが、何も世話や面倒を任されてもいない。故に、毛玉を如何しょうとも文句を言われる筋合いはない。無理に自分で抱え込む必要もない。寧ろ、実家に送り返す送料がかからなく済むのだ。良いことだ。心が軽くなった。


「……はい。清水清音くん。確かに、レポートを受け取りましたよ」

「宜しくお願いします」


 教授が名簿に印を付けると、顔を上げた。俺はレポートと毛玉のこと、両方の意味で『お願い』と口にした。


「……授業前では、時間ぎりぎりでしたね。正直なところ、レポートの提出を忘れているか授業中に作成するものかと思っていました。しかし、清水くんは熱心に授業を聞いてくれていましたね。お友達に心配されるぐらいの変わりようでしたね。私は嬉しいですよ。レポートを楽しみに読ませてもらいますね」

「……は、はぃ……」


 何故か優しく微笑む常田教授。その笑顔が眩しくて、俺は顔を逸らしながら返事をした。俺は熱心に授業を聞いていたのではない。単に毛玉の動きを追っていただけだ。今日の授業内容は何一つ頭に入れっていない。ノートも書き殴ってあるので、お見せ出来ない状態である。罪悪感が胸いっぱいに広がる。

 それにしても、常田教授は人の動きをよく見ている。俺が教室に入った時には教授は本を読んでいた筈である。何故、俺の入室時を知っているか不思議だ。更に言えば、けんけんに話しかけられたことも知っているのだろうか。忍者か?先生という立場の人間には、後ろに目が付いているのかと思うほど後ろの行動を把握する能力があると聞いたことがある。その類いだろう。

 それよりも、今は毛玉から解放される事を喜ぶべきである。教授に一礼すると、列から離れた。

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