第2話 毛玉


「ぐああん!」

「洗うだけだって、ほら」


 黒い毛玉を抱えたまましゃがみ込むと、黒い毛玉は更に暴れた。これから、自分が洗われることを理解しているようだ。中々に優秀だ。しかし如何して動物は、こう水を嫌がるのだろうか。


「ぎゃわあぁ!」

「水じゃないぞ? お湯だから大丈夫だろう?」


 取り敢えず、先に汚れを大雑把に洗い流した方が良いだろう。水が嫌なら、お湯ならば大丈夫だろう。そう思いレバーハンドルを上げ、お湯を出した。すると、お湯が出るのを見た黒い毛玉は暴れ続けている。嫌がるからと言って、洗わない選択肢は俺にはない。服が濡れるのは、嫌だが背に腹は代えられない。左腕に抱えたまま、シャワーヘッドを傾けるとお湯をかけた。


「ぎゃん……ゔぅ……」

「あ、やっと大人しくなったな」


 お湯をかぶると、この状況から逃れられないと知り、観念したように黒い毛玉は大人しくなった。しかし、毛玉からは墨汁を垂らしたかのような黒い水が流れ出ている。この毛玉は相当汚れているようだ。俺は毛玉をタイルの上に置くと、左手でボディーソープを手に取った。


「目があるなら瞑っておけよ」


 相手は毛玉だが一応、声をかける。ボディーソープやシャンプーリンスが目に入った痛みは耐え難いものだ。後から文句を言われても責任は負えない。毛玉を全体的に濡らし終えると、シャワーを止め両手でボディーソープを泡立てた。そして毛玉をボディーソープで洗っていく。

 ふと、洗い始めてから疑問を感じた。それは、毛玉をボディーソープで洗って大丈夫なのだろうかということだ。洗濯用洗剤が良かったのだろうか、それとも動物用のシャンプーが良かったのだろうか。


「……うわっ……黒い……」


 俺がシャンプーの種類で色々と考えていると、毛玉が泡だらけになった。しかしその泡の色は真っ黒である。どれだけ汚れを溜め込んでいたら、こうなるのだろうか。これだけ汚れているとなると、何度か洗って濯いでの工程を繰り返すことになるだろう。


「お湯をかけるぞ」


 毛玉の汚れ具合に若干呆れつつも、俺はシャワーヘッドを掴むとお湯をかけた。


「……え? お前、毛玉か?」

「きゃわん!」


 お湯をかけると黒い毛玉の姿は消え去り、代わりに白い毛玉が現れた。思わず呼びかけると、肯定するかのように鳴き声を上げた。色以外にも変換が見られた。地を這うかのような低い声から、高く聞き取り易い音程に変わっているのだ。

 そして瞳と口があることに気が付いた。青空のような透き通った瞳と、小さな口が存在している。それから、暴れることもなく大人しく俺を見上げている。洗っただけで、これ程までに変化するのも珍しい。やはり汚れを溜め込んでおくのは、心身に影響を及ぼすようだ。俺もゴミ捨てはこまめにしよう。


「綺麗になると気持ちいいだろう? あまり汚れを溜め込むなよ?」

「きゃわ!」


 毛玉自身が体を洗うことは、出来ないかもしれないが、汚れに関して注意を促した。すると理解したかのように鳴き声を上げた。毛玉の知能指数は分からないが、返事を返されたのは悪い気分ではない。


「よし、じゃあ乾かすぞ」

「んきゅ?」


 声をかけると毛玉を両手で持つ。毛玉は次に自分が何をされるのか理解をしていないようだ。大人しく俺に持たれると不思議そうに俺を見上げた。

 汚れが取れた次の工程は乾かすことだ。しかし風呂場から毛玉を出した際の反応を想像すると少し怖い。ドラマで見るような、幼児が風呂上がりに駆け回り床が濡れるという自体は避けたい。

 フォローリングを汚すのと濡らすの、ダブルコンボは嫌すぎる。折角の休みである日曜日を掃除で終わらせたくない。それに俺は未完成のレポートを仕上げなくてはならない。全ては今夜のアニメを心置きなく鑑賞する為である。


「ほれ、これなら逃げらないだろう」

「きゅ?」


 脱衣所に出ると、バスタオルで毛玉を包んだ。これには余計な水分を取るのと、逃亡を予防するという効果がある。バスタオルは偉大だ。

 しかし、その姿は海苔巻きのようである。本人の毛玉は暴れることなく、只不思議そうに瞬きをした。大人しくしてくれているのは助かる。今がチャンスだ。バスタオルを揉み込むようにして水分を拭き取る。


「次はドライヤーだな……」

「ぷきゅ?」


 簡単に水分を拭き取り終えると、立ち上がりドライヤーを手にした。完全に乾かさないと風を引くからだ。まあ、毛玉が風邪を引くかは分からないが濡れたまま放置はしたくない。  


 ちらりと、白い毛玉の様子を見るとバスタオルの上に大人しく待っている。そのまま大人しくしていて欲しいのだが、ドライヤーは音が出る。子どもや動物もこの音が嫌で逃げると聞いたことがあるからだ。ここまで順調に進んでいるが、音は反射的に逃げることもあるだろう。水を嫌がっていた事を考えると、風をかけると嫌がるかもしれない。


「……まあ、駄目だったら日光に当てて乾かせば良いか……」


 あれこれと考えても仕方がない。駄目だったら、その時にまた別の方法を考えれば良いだろう。そう結論付けると、ドライヤーのスイッチを点けた。


「風が出るけど、これは乾かすものだから……」

「きゅう! んきゅう!」


 ドライヤーから出る風が怖いものではないと伝えようとした。しかし俺の心配は杞憂に終わった。毛玉は風を受けると、心地良さそうに声を弾ませたのだ。しかも、段々とドライヤーへと近づいていく。何がそんなに気に入ったのか分からないが、これ以上遊んでいる時間はない。手早くドライヤーを回転させると、毛玉を全体的に乾かし始めた。


「……出来たけど……どちら様だ?」

「んきゅ? きゅう!」


 手に毛がつかなくなり乾かし終えると、ドライヤーを止めた。するとそこには、白い毛を輝かせる毛玉が居た。艶のある毛は白というよりは白銀だ。俺の言葉を聞いた毛玉は、自身の存在を誇張するかのように跳ね回る。


「はいはい。暴れない、暴れない。下の階の人に迷惑だろう」

「きゅう……」


 此処はアパートの二階だ。騒音で隣人に迷惑をかけるのは避けたい。跳ね回る毛玉を掴み横に抱えると、俺は脱衣所を出た。そして、フローリングワイパーで床の汚れを拭き始めた。掃除機もあるが、煤汚れのようなタイプは拭き取り掃除の方が有効なのだ。


「終わったな。よし、大人しくしているんだぞ」

「きゅ?」


 数分もしないうちに、廊下とリビングの一部分を掃除終えた。この掃除クリーナーは大変優秀だ。クリーナーの働きに満足しながら、ソファーベットの上に白い毛玉を降ろした。俺は左半分側が濡れているのだ。いくら春先とはいえ、このままでは風邪を引きかねない。ズボンとTシャツを新しいものへと着替えた。


「じゃあ、続きをするか……」


 俺が着替えを終えても、白い毛玉はソファーベットの上から不思議そうに見渡していた。正直、この不思議な生物を実家に送り返したい。しかし、俺の最優先事項はレポートである。取り敢えず、こちらに害がないことは判明しているのだ。焦る必要はない。レポートを仕上げた後に、送り返しても問題はないだろう。そう決めると、ソファーテーブルの前に座り途中で放り出したレポートへと手を伸ばした。


「……え?」

「きゅう?」


 ペンを走らせていると、後頭部に重みを感じた。なんだろうと掴むと、先程まで感じていた手触りだった。この毛玉は何故、人の後頭部に乗っているのだろう。というか、洗った時にも毛玉には手足が無かったことは確認をしている。だというのに、如何やって俺の後頭部まで登って来たのだろうか。この毛玉は。

 いや、もしかしたらその体全体の毛が手足なのかもしれない。今はこの毛玉の生態について考えている場合ではない。俺はレポートを終わらせなければならないのだ。


「俺はレポートを作成している。大人しくしていなさい」

「んぎゅう!」


 毛玉を掴み、後頭部からフォローリングの上に降ろすと注意をする。幼児であれば、一人にしたり目を離したりするのは心配である。しかし、対象は毛玉だ。大丈夫だろう。再びペンを握った。


「……いや、なんでやねん……」

「きゅう!」


 今度は膝の上に重みを感じた。視線を下げると、膝の上で楽しそうに俺を見上げる白い毛玉。俺はやる事があると伝えたはずなのだが、何故膝の上に居るのだろう。しかも心なしか。満足気に笑っているのは何故だろう。思わず関西弁が出てしまった。再度降ろそうかと考えるとが、再び何処かに乗ってくる可能性がある。一々その度に、構っているのは時間の浪費だ。白い毛玉をそのままにし、レポートへと向き合った。



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