41 事故物件
なんとか滑り込んだ会社の給料と手当はお世辞にもよいといえなかった。
地方出身で近隣県の大学に進学した僕にとって、東京での暮らしは夢ではあった。
ただ、僕が働くのは、家賃補助もろくに出せないような会社。もちろん薄給。そんな僕が住めるのは築云十年のボロく狭い部屋しかなかった。
こんな部屋では人も呼べない。
僕は隣の隣の住人――一度だけ見かけたことがあるが、ランニングにステテコ姿のお世辞にも清潔感があるとはいえないおっさんだった――がほぼエンドレスで視聴しているアダルトビデオの音声を聞きながら引っ越しを決意した。壁が薄いのか、おっさんの耳が遠いのか、はたまた両方か。アダルトビデオの音声は驚くくらいによく聞こえる。
あんあんというよがり声に合わせてもやしを炒め、出るという声に合わせて調味料を投入するなんて正気の沙汰ではないのだ。
引っ越しを決意したとはいえ、何も考えずに同程度の家賃で探せば同じような物件しか見つからないだろう。
アダルトビデオの音声が実物に変わっただけなんてのも嫌だし、かといって、通勤時間が二時間超えるなんてのも嫌だ。
そんな僕が狙ったのは事故物件である。
おっさんがアダルトビデオの中の女優に向かって話しかけるのが聞こえてくる部屋よりも、幽霊の声が聞こえる部屋のほうがまだ人も呼べるんじゃないか。
「事故物件、ないですかね?」
一ダースにおよぶ不動産屋で追い出されて、心が折れかけた僕だったが最後に行ったところはちゃんと話を聞いてくれたし、紹介もしてくれた。
「殺人事件のあった部屋でして」
長袖のワイシャツを中途半端に袖まくりした男が見せてくれた部屋は綺麗だし、広かった。
フルリフォーム済みだそうだ。
「出るんですか?」
「まぁ、出ますね。風呂場とかは特に。そこでまぁ色々とバラしていたみたいなんで」
それはフルリフォームしないといけないだろう。
覚悟はしていたので、そこは気にならない。
とはいえ、「犯人がまだつかまっていない」と聞いたときには、僕の覚悟も正直揺らいだ。
「犯人が戻ってくる、とか?」
「いや、そのようなことはありません。これまでだって、目撃されたのは女の幽霊ばっかりですよ。そもそも、事件自体、随分昔の話ですしね」
不動産屋は袖まくりの上から腕をかきむしりながら答える。
「幽霊はやっぱり首絞めてきたりするんですか?」
「それもないらしいです」
ならば、大丈夫ではなかろうか。
そういえば……事故物件、正確に言えば心理的瑕疵物件、賃貸の場合、いちいちここまで告知してくれなくても良いのではなかったろうか。
僕はネットで調べた記憶を思い出す。たしか三年だったような……。
そもそも心理的瑕疵物件扱いにする必要すらないのではないだろうか。
僕は正直に問いをぶつけてみた。
不動産屋は「うちは正直がモットーですから」と笑顔で答えたあと、表情を変える。
「それぐらいしないと危ないんですよ」
彼は腕をごしごしとこすりながら続ける。これまで袖で隠れていた部分にただれた傷跡があることに気がつく。
「まさか、その傷、関係するんですか?」
僕は確認をする。「心理的瑕疵」狙いの僕であっても、身体的な危険はごめんだ。
「……関係しないといったら嘘になりますが、霊とかは関係ない話ですよ」
不動産屋はまだ腕をかきむしり続けている。
「この部屋を紹介して無事契約となったお客さんの一人がですね……どういうわけか激昂して刃物振り回されましてね。この部屋をご紹介してしばらく経ってのことでしたね」
正直がモットーなんですよという不動産屋のことばに、微塵の嘘も含まれていないだろう。
これが嘘だとしたら、彼は損得勘定抜きで嘘を吐き続ける病的な虚言癖ということになる。
内見は断られた。足を踏み入れたくないらしい。
その商売っ気のなさに僕は納得して、契約をする。
◆◆◆
不動産屋の見せる写真というのは、大抵の場合、画像加工でもしているのかというくらいに綺麗で、実物を見ると幻滅する。
しかし、僕の部屋は、違った。
写真を撮ってから随分と時間が経っているはずだが、それでも写真以上に綺麗であった。
「正直がモットー」
本当に嘘偽りない言葉である。
嘘偽りがないといえば、心理的瑕疵についてももちろん嘘偽りはなかった。
入居して一月もしないうちに、僕は幽霊たちに遭遇した。
不動産屋のいうとおり、女性だった。
首から血を流す女性、全裸で泡を吹く首に赤い痕のある女性、這いながら玄関に向かおうとする長髪の女性……様々である。
ただ、どれも無害であった。
なにか伝えたそうにこちらを見てくることはあった。
ただ常に遠慮がちで、夜中、僕の上に覆いかぶさってくるようなことなどなかったし、金縛りにもも合わなかった。
もちろん頻繁にあうわけでもないので、そういうものだと自分を納得させる。
ただ、彼女たちの冥福を祈って、線香をあげることにした。
人を呼ぶことは、まだできていないが、そのうち、誰かを家に呼ぼう。
前向きで気持ちはどこか高揚している。
◆◆◆
最近、妙に気持ちがたかぶる。
会社で押しが強くなったと褒められることがある一方、すれ違う人に避けられることも多くなったような気がする。
僕の名誉のためにつけくわえておくが、別に僕は不潔な格好をしているわけでもないし、チンピラめいた格好で周囲を威圧しているわけでもない。
ただごく普通に気分良く歩いているだけだ。
それなのに、先日は不良に絡まれた。
僕は喧嘩とは無縁の生活をしていたし、不良の類に絡まれたこともなかった。
それがどういうわけか、ツラ貸せと言われて路地裏に連れ込まれてしまった。
誰かに助けてほしかったのに、いや、誰かに見ていてほしかったのに、都会では誰もが他人には意識的に無関心を装うのだ。夜の繁華街はとてもとても人通りが多いのに。
だから、僕が路地裏に連れ込まそうになったときも、僕が路地裏から出てきたときも皆、僕から目をそらした。
路地裏に連れ込まれた僕は、ありがたいことに無傷で出てくることができた。正確にいえば、手の甲からはそれなりに血が出ていたのだが、これはしょうがない。
誰だって歯が刺されば、血くらいは出るだろう。
歯が刺さった経緯については、実のところ、あまりおぼえていない。
気がついたら、いきがった不良が泣きわめいていて、僕の手の甲に歯が刺さっていたのだ。
手の甲に歯が刺さったら、誰だって痛いし、不快だ。歯の持ち主には、猛省してほしいと思う。
僕は歯をゆっくりと引き抜いてから、土下座する不良の手にそっと載せた。
歯抜けの不良が泣きわめくのがあまりにもうるさかったので、歯を載せた手の甲を思い切り踏んだ。
硬いものが砕ける感触と、めりこむ感触がする。
「インプラントだべ?」
不良がしくしくと泣いた。先程までとは打って変わったようなしおらしい声で謝罪の言葉を述べる。
「ごめんなさいじゃねぇよ」
僕は不良の顎を踵で踏み抜く。不良の前歯がまた口から出てきた。シンナーかなんかのやり過ぎで、歯がもろくなってんじゃないかな?
ちょっと気分がよくなったので笑う。なのに、不良がまたしくしくと泣いて謝りやがるのだ。ああ、台無しだ、台無しだよ。折れた歯をもう一度、やつの手の甲に載せてやる。一度でわかれよ。わかって笑えよ。泣くなよ、気分が悪くなるじゃないか。
「笑えよ。なんで笑わないんだよ?」
面白い冗談なのに笑うことができないのは、かわいそうだし、冗談をいうほうにだって失礼だ。教育が必要だ。だから、不良が笑うまで「インプラント」の数を増やしてから、僕は路地裏から出たというわけだ。
ぼろぼろと泣きながら、謝り、同時に笑うなんて、器用なやつだなと思う。
今でもたまに幽霊たちには出会う。
ただ彼女たちの態度は、以前とは異なっている。
幽霊のくせして僕に怯えるのだ。
「犯してやろうか?」
冗談でちょっと言っただけなのに、幽霊たちは逃げていく。
冗談を本気にしやがって、そんな姿じゃ、僕だって勃たないぜ。
それにしてもどうにもたかぶって仕方がない。
そろそろ次の獲物を物色しないといけない。
僕はジビエを解体する手をとめる。そして、怯えた目でこちらを眺める幽霊たちに笑いかける。
◆◆◆
【連続強姦致死事件で指名手配中の容疑者、死亡が確認される】
■■県警は昨日、■■■麓の■■樹海で、一五年前におきた連続強姦致死事件の容疑者の遺体を発見したと発表した。発見された遺体は、■■■■年に発生した殺人事件の容疑者として行方をくらませていた■■■■容疑者(当時四〇歳)のものと確認された。■■容疑者は、東京都世田谷区で起きた連続強姦致死事件の容疑者として全国指名手配されていた。
警察によると、遺体の近くから発見された遺書の筆跡が■■容疑者のものと一致し、さらにDNA鑑定の結果、遺体が■■容疑者本人であることが確認されたという。
遺書の内容は明らかにされていないが、警察は■■容疑者が自殺を図った可能性が高いとみている。
【都内連続女性行方不明事件、死体損壊の容疑で容疑者逮捕】
警視庁は都内で発生した女性行方不明事件の容疑者として、東京都世田谷区■■の会社員の■■■■容疑者(二四歳)を逮捕したと発表した。
捜査関係者によると、■■容疑者は先月末から行方不明となっている二〇代女性A子さんを監禁した疑いがもたれている。A子さんの携帯電話の位置情報が、■■容疑者の自宅付近で最後に確認されたことが逮捕のきっかけとなった。
警察は■■容疑者のマンションを家宅捜索し、A子さんの所持品や遺体の一部とみられる証拠を発見。さらに捜索を進める中で、複数の女性に関連する証拠も見つかったという。
これを受けて警察は、過去半年に発生した複数の女性の行方不明事件との関連性も視野に入れて捜査を進めている。
【呪われた部屋:連続する悪夢の源泉】
『月刊オカルトミステリー』二〇■■年十一月号掲載
東京都内で起きた二つの凶悪事件が世間を騒がせている。一つは一五年前の連続強盗殺人事件の容疑者の遺体が青木ヶ原樹海で発見されたケース。もう一つは、複数の女性の失踪に関わったとされる男の逮捕だ。一見まったく無関係に思えるこの二つの事件。しかし、我々の取材で驚くべき事実が明らかになった。
両事件の容疑者は、かつて同じマンションの同じ部屋に住んでいたのだ。
問題の部屋は、東京都内のマンション。一五年前の事件は、少なくとも一〇年以上前に無くなっているが、遺書によると【ページが破られている】
読者諸氏も、あの世田谷の部屋には決して近づかないことをお勧めする。あなたが次の犠牲者、いや加害者になるかもしれないのだから……。
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