39 夢の釜

 母方の叔父が亡くなった。叔父がいたことと、その叔父が亡くなったことを僕は同時に知った。

 祖父母は僕の生まれる前や物心つく前になくなっており、祖父母の家、すなわち母の実家というものに行くこともなかった。

 母は自分の父母の話はたまにしても、弟の話をしたことがなかった。だから母は一人っ子だと長いこと思っていたのだ。

 そんな僕に叔父の存在を知らせたのは、警察からの電話であった。

 会ったことのない叔父は悪人だったなどということではない。

 彼は部屋でひとり亡くなっていたのだという。


 「事件性はないと思います。ただ、遺体おからだの方は、こちらで調べさせていただきます。申し訳ありません、そういう規則でして」

 そう言われても、叔父はまったく記憶にない人物で、その後の詳しい説明を聞くまで、新手の詐欺か何かだと思っていたし、詳しい説明を聞いた後も狐につままれたような気分であった。

 母の反応も薄かった。あまり仲が良くなかったのかもしれない。

 それでも親族である。葬式はさすがにあげることになった。母と僕だけで叔父を見送る簡素な代物ではあるけれど。


 警察での一通りの「事情聴取」――実態は雑談では、叔父は大量の腐った食べ物に囲まれていたらしい。

 「ご近所さんのお話では、ほとんど外に出てこなかったそうですし、買い物に出られた形跡もないんで、不思議なんですけどね」

 それでも事件に巻き込まれたわけでもなく、心筋梗塞で亡くなったのだというのは、後に知らされたことだ。

 部屋で一人心筋梗塞に倒れ、そのまま大量の食べ物とともに叔父は腐敗していったらしい。

 そのような話がわかったところで、「あまり状態はよくありませんが」という言葉とともに遺体は返却された。

 状態がよくないのは、人物確認で母が呼ばれたときに付き添っていたときに既にわかっていたことだったから今更気にもならなかった。

 それでも改めて感じたのは、よくもここまで太ることができたものだということだ。

 布越しにもわかるくらいに叔父は太っていた。大量の腐った肉をまとった巨体は葬儀屋の遺体用冷凍庫にいれるのも一苦労だったらしい。


 叔父の部屋には、いわゆる「特殊清掃」というのが入っていて、腐敗した食べ物から出た汁も、叔父から出たであろう汁も綺麗サッパリ拭き取られていたし、叔父の持ち物の大半はゴミとして片付けられていた。

 ただ、叔父の汁にも負けなかったものは、遺品として残されていた。

 それもほとんどすべては処分をお願いすることになったが、一つだけ目を引くものがあった。

 骨董のような鉄釜だった。

 縦横の線からなる文字、いや記号のようなものがびっしりと記されたそれは、そこらではお目にかかれるようなものではなく、捨てるのは、もったいない気がした。


 「気味が悪くない?」

 母は嫌そうだった。

 まったく気味が悪くないといえば、嘘になる。

 「でもさ、叔父さん、食べるものには困らなかったんでしょ?」

 叔父は、まとまった遺産どころか、どうやって暮らしていたのか不明なレベルの貯金しか持っていなかった。

 それなのに、どういうわけか、最期まで食べ物にだけは困っていなかった。

 「僕、春から一人暮らしになるしさ、一生食いっぱぐれない魔法の釜みたいで縁起がいいかもしれないしね」

 僕は笑いながら、釜を持ち上げる。ずっしりと重く、ひんやりとしていた。

 父母と死別し、夫と離別し、実の弟とも死別することになった母だ。

 今は受け止められないかもしれないが、いつの日か、弟のことを思い出したくなる時があるかもしれない。そんなときにこの釜を取っておいてあげようと思ったのだ。


 ◆◆◆


 鉄釜はあくまでお飾りで実際に使ったりはしなかった。

 ピカピカに磨いたとはいえ、腐乱死体が携えていた釜だ。

 さすがにこいつを煮炊きに使うほど自分は肝が座っていない。

 飾りとして棚の上に置いておいた。


 ある日、届いた荷物を開けようとカッターを使っていると、手を切ってしまった。

 案外ざっくりとやってしまって、血が溢れ出てきた。

 せめて血をなんとかしようと、棚の上においたティッシュに手を伸ばした。

 血はだらだらと流れていて、それはティッシュをボックスごと赤く濡らすだけではなく、横の鉄釜にも垂れた。

 後で拭かないと、そんなことを思いながら、ティッシュで傷を圧迫している僕の眼の前で鉄釜が光りだした。

 鉄釜の周囲に描かれた線形の記号か文字のようなものがピカピカと輝き出したのである。

 呆気にとられて、止血しながら釜を見つめる僕の前で、鉄釜の底に突然粥のようなものが湧き出てきた。


 「はっ? なに、これ、キモい?」


 思わず声を出してしまった。

 だいたい、粥というのは、どろどろとしている。

 そのどろどろ感は然るべき場所で然るべき時間に出てくれば、食欲を誘うものだが、それ以外では気味が悪いものだ。

 僕はネット動画で見てしまった吹き出物を潰す動画を思い出していた。

 

 この「粥」はまったくもって気味が悪い。

 釜ごと捨ててしまいたい。

 でも、どういうわけか、僕はこの気味の悪い「粥」から目が離せない。

 なんとも言えぬ良い匂いが腹の虫を刺激するのだ。

 香ばしいような匂い、甘い脂の匂い、さわやかな匂い、なにもかにもが入り混じって、なにもかにもが僕を誘う。

 気がつけば、指ですくい取って舐めていた。

 信じられないことに、一度舐め始めたら止まらなかった。

 粥は僕の腹がはち切れそうになるまで、どこからともなく湧き続けた。

 僕は最初は指で、途中からスプーンに切り替えて、ひたすら掬い続けた。

 美味かった。本当に美味かった。美味いということばについて、再定義が必要となるくらいに美味かったのだ。


 こんなに美味しいものだから、腹が空いたら食べたくなる。

 僕は朝もたらふく粥を食った。

 昼食にも食べたかったから、大きなタッパーにこれでもかというくらいに詰め込んで出勤した。

 このおかげで僕は、この粥の問題点を見つけることができた。

 大変足が早いらしいのだ。


 デスクの前でタッパーを開けようとしたら、その時点で異臭が立ち込めたのである。

 周囲の人間が鼻をつまみながら、こちらを見る。


 「ああ、ごめんなさい。けちって、一昨日の残り物詰めたんですけど、やばいですねぇ」

 僕はカバンごと、昼休みのオフィスを出る。

 近所の公園まで走り、便所にすべてを流した。

 ものすごい悪臭で、異臭騒ぎで警察がくるのじゃないかというくらいに怯えた僕はダッシュでオフィスに戻る。

 エレベータの前で自分の服を嗅ぐ。

 ありがたいことに臭いはしみついていなかった。


 僕は昼飯を抜くことにした。

 あの至高の美味以外のものを食べるなんて考えられない。

 それだったら、夕飯分に腹をすかせていたほうがましだ。

 僕は飲み会の誘いをすべて断るようになった。

 居酒屋のまずいつまみを食べて、ビールで腹をふくらませるなんて許しがたいからだ。

 僕は残業を頼まれても断るようになった。

 腹が減ったら、すぐに帰りたいのだ。定時で帰って、あとはひたすら粥を食べ続けたいのだ。

 スーツのサイズがあわなくなってきたあたりで僕は会社をやめることにした。

 食べるものはいくらでもある。


 とはいえ、一人暮らしは、それなりに金がかかる。

 この小汚い小さな部屋もそれなりに家賃がかかるのだ。

 僕はアパートを解約し、実家に戻った。

 会社をやめたのだから、会社から程遠い実家に戻ったって何の問題もない。

 母は怪訝な顔をしていたが、粥をひとくち食べたら何も言わなくなった。

 僕はこの美味を独占しようなどと思わなかった。

 僕が食べたいと念じる限り、どこまでも粥は出てくるのだから。


 ◆◆◆


 大量の腐敗した食べ物に囲まれた肥満体の腐乱死体二つ。 

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