37 鶏を食べないこと

 「わしは鶏は食わん!」

 これがかけいさんの口癖だった。弁当に鶏肉が入っていると、必ずくれるのだ。

 男子大学生というのは、大体飢えているもので、粟田あわたも俺もそのたびにありがたくいただいた。

 筧さんは一人暮らしの老人で、粟田と俺は大学のボランティアサークルの活動で彼と出会った。

 粟田も俺も、もともとボランティアに興味があったわけではない。かわいらしい先輩に声をかけられて、「彼女は俺のことが好きなのかもしれない」と勘違いして入った身だ。

 もちろん、それはクソ童貞の妄想にすぎなかったのだが、ボランティア自体はやってみるとやめられなくなった。必要とされるということ、感謝されるということは、俺にとって結構な報酬であるらしい。

 酒を飲んで話をしたときに、粟田も俺と極めて不純な動機で入ったこと、それでもやめられないことがわかって、意気投合した。

 元バスケ部、高校時代に関東大会までいった粟田は、バスケットボールのサークルにでも入れば、さぞかしもてただろうに、一緒に身寄りのない老人の話相手になっているのだから、良くわからないものだ。

 筧さんは身寄りこそないものの、金に困っているわけではなく、弁当を買ってくれたり、飯屋に連れて行ってくれたりした。

 今日も中華弁当に入った棒々鶏バンバンジーを俺たちの弁当箱に放り込みながら、筧さんはいう。

 「わしは鶏は食わん!」

 筧さんが鶏を食わないのは、故郷で散々美味い地鶏を食ってきたからだそうで、そうすると普通の鶏肉は臭くて食えなくなるのだという。

 「しっかりと運動させた地鶏は最高だで。そいつをな、食べる直前に絞めるんだ」

 筧さんは、今日も空想の鶏を逆さに吊り下げ、右手に持った空想の出刃で鶏の首を落としてみせる。

 「すげぇうまそうじゃないですか。オレたちにもいつかごちそうしてくださいよ」

 いつもこんなやりとりをしていた。

 でも、とうとうごちそうはしてもらえなかった。

 ごちそうしてくれる前に筧さんは亡くなってしまったからだ。

 彼は遺言を残していて、そこでは俺たちの名前が出ていた。


 葬儀はしなくてよい。火葬場で焼いてさえもらえば、それでよい。

 ずっと前に飛び出した故郷に帰りたいから、そこに骨を運んでほしい。

 納骨する必要はない。集落のどこかに適当に散骨したら、長居をせずにすぐに帰ってきてほしい。

 火葬の費用と骨を故郷での散骨のための移動費のあと、残ったお金があれば、粟田と俺で分けてほしい。


 筧さんの残した金は俺たちからすると結構な大金で、火葬の費用と俺たち二人で筧さんの故郷を訪ねても、結構残るくらい――俺たち二人が大学で留年しまくっても学費が払える程度――であった。

 「葬式くらいはやろうぜ」

 俺たちは、彼の遺言に背いて、ささやかな葬儀をとりおこない、彼との別れを惜しんだ。

 精進落としでは、鶏肉料理は抜いてもらった。

 「わしは鶏は食わん!」

 粟田が筧さんの真似をする。

 空想の鶏をぶらさげる筧さんの浮いた静脈は老いによるものだったが、粟田の腕に浮かぶ静脈は皮下脂肪が薄いせいだろう。

 締まりの無い身体つきな俺はやつが少し羨ましい。

 俺は場違いなことを考えながら、献杯の音頭を取る。

 サークルではいつもバカな飲み方をする俺たちだけど、今日はしんみりとビールをすする。


 ◆◆◆


 筧さんの故郷は、番地のないくらいの山奥だった。

 近くの都市までは列車で、そこから先はレンタカーに乗り、俺たちは行く。

 すれ違いのできなさそうな細いトンネルを抜けて、さらに山道を登っていくと、昔話に出てきそうな古民家が出てきた。

 「ここで適当に草むらに捨てろとか書いてあったけどさ」

 俺は助手席のほうを向く。

 「不法投棄になるって役所の人も言ってたし、そうじゃなくても……それはできないよなぁ」

 俺たちは、再び筧さんの遺言に背くことにして、車を降りた。

 古民家の前で呼びかけると、しばらくして、これまた昔話の登場人物のようなばあさんが出てきた。このばあさんならば、川で選択をしていてもおかしくない。

 ばあさんは少し耳が遠いようで、俺たちは代わる代わる大声で事情を説明しはじめた。

 「筧ゆうても、わしも筧じゃ。ここは筧の村だからな」

 葬儀をおこなっていなかったら、筧さんの下の名前を憶えていられなかったかもしれない。

 「ウキチさん、筧羽吉かけいうきちさんです」

 ばあさんは首をかしげる。

 「先日、七八歳で亡くなりました」

 ばあさんはしばらく虚空を睨むと、

 「ありゃまぁ。トビタのとこの羽吉坊かね」

 話が通じたらしい。トビタは屋号かなんかだろう。

 「なかなか思い出せんでごめんなぁ。わしら、身体はぴんぴんしておるけど、物忘ればっかしはなんともならんでなぁ」

 筧羽吉さんは、若い頃に集落を飛び出したきりで、一度も帰ってこなかったらしい。

 「本当によく連れてきてくれたのう。ありがとな、ありがとうな」

 ばあさんは繰り返しお礼のことばをつぶやくと、俺たちに少し休んでいけと言った。

 「ホンケも喜ぶだろうしなぁ、たいしたもんもないところだが、ゆっくりしていて、トビタの坊のことを話してくれな」

 断ることもできず、また、断るような用事もない俺たちは、一晩泊めてもらうことになった。

 「たいしたもんもない」というが、でかい風呂に鼻歌交じりで浸かってきた俺たちを待っていたのは、立派な御膳だった。

 畑でとれたという野菜や近場で採れた山菜を使ったという料理は、どれも美味しく、そして大量であった。

 ただ、老人ばかりが暮らす村だからであろうか、タンパク質が魚くらいしかないのは、少々残念だった。

 「そういえば……」

 粟田が筧さんの口癖を真似する。

 「最近はもう鶏を飼っていないのですか?」

 じいさんやばあさんたちが怪訝な顔で沈黙する。

 どういうことかは、わからない。それでも俺は沈黙に耐えられず続ける。

 「ここの地鶏がたいそう美味しいと聞いて、いつか食べさせてくださいねという話をよくしていたんです。村以外の鶏なんて食えんってトビタの羽吉さんはいつもおっしゃっていたものですから」

 一瞬の沈黙の後、じいさんの一人が大声で笑った。

 「トビタの坊はそんなこと言ってたんか。そりゃあ、あんたらに気をつかってなんだろうなぁ」

 「うちらはトリショウジンだからなぁ」

 「トリショウジン?」

 「ああ、ウジガミ様の言いつけでな、鶏も卵も食ってはならんのよ。坊も、そんなこと説明しづらかったんだろうなぁ。ウジガミ様のお言いつけで鶏は食えんなんて、街では言いづらいだろうしのう」

 周囲の老人たちも一斉に笑い出した。

 俺たちも釣られるようにして笑う。

 そういうことだったら、言ってくれたら良かったのに。

 俺たちは、その後も筧さんの思い出話を続けた。


 ◆◆◆


 夜も更け、宴席もはけたあと、俺たちは布団に入る。

 少し変わった香りの蚊遣の線香と蚊帳がなんともいえず、田舎という感じがした。

 「鶏精進とりしょうじんとは、色々と不思議な風習があるもんだよなぁ」

 「都会っ子のオレたちには、どうもわからねぇもんだ」

 「にしたって、しっかり運動させた地鶏を食べる直前に絞めるとか、筧さんもまぁ妙に手ぇかけたホラふくもんだよ」

 俺たちは筧さんの思い出を語ってしんみりしたり、お互いの恋愛事情を語ったりした。酒も入っていたせいで、話はそれほど長く続かなかった。


 少し酒を飲みすぎたせいだろうか。

 俺は夜中に目を覚ました。

 廊下の突き当りにあるトイレを目指す。

 老人というのは夜が早いものだと思っていたが、どうもそうとは限らないらしい。

 少し先の部屋から明かりが漏れていた。

 老人たちは耳が遠いだけあって、誰もが大声だ。

 障子の向こうから声が聞こえる。

 「ホンケの奥、まんだ産みなするかぁ」

 「ああ、まだまだだ。てぇ言っても、もうカエらんから面倒なだけだけどなぁ」

 中腰の影、障子越しに何かがごとりと落ちるのがみえた。

 なんだろうかなどと思わなければ良かった。

 そうすれば、わずかに空いた隙間に目をやろうなどと思わなかっただろうから。

 目をやってしまった俺が目にしたのは足の間に巨大な卵を産み落としたばあさんだった。

 卵の表面がぬらりと光る。

 俺は少しちびりながら、回れ右する。

 気づかれていませんように。

 そう思いながら、客間の障子戸を開ける。

 どうかこれが夢でありますように。

 そう思いながら、布団にもぐりこもうとする。

 はやく目が覚めますように。

 そう思いながら、誰もいない布団を見つめる。

 これが最後の記憶だ。


 後頭部を脈打たせる鈍い痛みで目が覚めた。

 ひんやりとしている。土間に転がされているようだ。

 後ろ手に縛られているようで、手首と肩が痛い。足は縛られていない。

 外がほの明るい。夜が明けたくらいだろうか。

 がちゃがちゃという音と老人たちの騒ぎ声。

 「肉がきたっニクガキタッツニクガキタデヨォ」

 騒ぐ老人たちの前に吊るされているのは粟田だった。

 逆さに吊られている。長身で筋肉質の粟田を天井から吊るすとは、随分と元気なものだ。

 俺はあまりにも異様な光景を前に、どうでもよい感想しか出てこない。

 粟田は逆さ吊りで頭に血が登ってしまったのか、それとも気絶しているのか、ほとんど動かない。

 「ニクガキタッニクガキタッニクガキタッ」

 老人が粟田の前で大きな包丁を研いでいる。これががちゃがちゃという音の正体であった。

 地面に転がされたまま、ぼんやりと粟田を見つめている俺の身体に危険を知らせる信号が鳴り響く。

 逃げなくてはいけない。

 そう思ったのと、粟田の首から大量の血が吹き出したのは、ほぼ同時であった。

 俺は飛び跳ねるように起きると、後ろ手に縛られたまま走り出す。

 目を見開き、ぶくぶくと血だけを流す粟田とほんの一瞬目があう。

 どうすることもできない。

 俺はただ逃げ出した。粟田を見捨てて逃げ出した。助けようにも手遅れだと自分に言い聞かせて逃げ出した。

 帰りは粟田が運転するはずで、車の鍵は俺の懐にはない。

 だから、走る。

 小枝をふみしめて走る。

 転んでも走る。

 ひたすら走る。

 もうすぐ国道に出る。

 そんなときに最初に会ったばあさまが現れた。

 ひゅーっという音のあと、ごぼごぼと喉が鳴った。


 ◆◆◆


 「しっかりと運動させた地鶏が一番だよ」

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