36 デトックス
「もう嫌だ、こんな生活」
クリスタルグラスのタンブラーに注いだハイボールをぐっと飲み干した夫が言った。
撮影はいつものことで、私たちの手際は申し分なかったが、それでも夫が口をつける前にタンブラーの中の氷はずいぶんと溶けてしまっていた。
水っぽいことだろう。これでは、安い居酒屋で飲む安いハイボールにも劣るだろう。高級ホテルのケータリングサービスの料理だって、写真を撮っているうちに美味しさは半減だ。
ああ、もう……。
「もうやめよう、十分だよ」
私が言おうとしていたことばは夫に先取りされた。
インフルエンサー、それが私たちのよくわからない生業をあらわす言葉だ。
ピカピカの動画を投稿する。キラキラした写真をのせる。豪華な暮らしを楽しんで、とびっきりの笑顔をつくる。
皆が羨むような写真と、皆が羨むようなポジティヴなことばを選んでは、それを人々にふりまく。
私たち夫婦は運が良かった。
単体で人気が出るようなオーラこそなかったけれど、カップルインフルエンサーというのが注目される前から活動していたおかげで、注目され、企業からの案件を着実にこなしていったのだ。
規制のない頃には広告であることを臭わせず、規制ができたあとは広告であるということを最低限の表記にとどめて、宣伝案件をこなしていった。
仕事は順調だった。
この仕事は、人々の注目をいかに惹きつけられるかが大事で、流れに乗った私たちは必死にキラキラとした生活を流し続け、それで得たお金でキラキラした生活をまた流し続けた。
自分が望むキラキラした生活は、他人から羨ましがられるものであるべきで、だから、他人が羨望する生活を謳歌することは、私たちの仕事そのものであり、ギラギラしたやりがいを夫婦で追求し続けた。
ただ、そのような生活、皆がセレブと羨む生活もいつかは飽きがくるのだ。
もうお金は十分に持っている。使い切れないくらいに持っている。
バカなやつらのために踊ってやらなくても良い。
羨望の眼差しは嫉妬の眼差しでもある。
お前らみたいな嫉妬で相手をおとしめることしか生きがいのないカスどもに燃やされてたまるか、先にFIREするんだ。
◆◆◆
そうは言ってみたものの、高級な料理や高級な服を撮ることが癖になっていた。自撮りをするのもやめられない。
気がつくとスマホをいじっている。
すぐに光のあたり具合や影の映り方が気になってしまう。
私たちはスマートフォンという悪魔に魂を売り、情報化社会という地獄に囚われているのではないか。
夫も私も半ばノイローゼ気味になった。
そんなある日、不思議な広告をみた。
【デジタルデトックスしてみませんか】
我欲を捨て、毒素を抜く。
極楽はすぐそこ!
ギラギラビカビカした目に悪そうでいかにもいかがわしそう広告がスマホの画面に映った。
こんな広告をネット上で宣伝するなんて、おかしいんじゃないの。
昔バカを煽って稼がせてもらった下品な企業ですらもうちょっと上品な広告を出していた。
それでも、私たちは、この広告から目を離すことができない。
指が自然と動いた。
◆◆◆
「デジタルデトックス」の広告を出しているのは、山間の寺だった。
寺といったのは、寺と自称していたからで宗派はどこにも書いておらず、仏教寺院の形をしているけれど、仏教寺院ですらないかもしれない。
「うわ、すげぇ、アンテナ一本も立たないよ」
夫が私とおそろいの最新のスマホを振ってみせる。
ポーチにいれたスマホを取り出して、確認をする。
「あら、本当。デジタルデトックスもはかどりそうね」
寺は山門だけ見ると廃寺のようであったが、中は違った。
頭を剃り上げた若い「僧侶」二人が案内してくれた内部は、古さこそ感じさせるが、しっかりと手入れされていて、居心地が良さそうだった。
綺麗なビロードが敷かれた応接室に案内された私たちをにこやかな笑顔で出迎えたのは、頭を剃り上げた痩せこけた中年男性――管主だという男であった。
「暑かったでしょう。たいしたものはお出しできませんが、喉だけでも潤してください」
きれいなグラスに注がれた透明の液体、茶請けは干したパパイヤ。
液体を口に含むと、爽やかな甘味が喉を潤した。
「酵素ドリンクですよ。デジタルデトックスとは言いますが、せっかくですから、心からも身体からも毒を抜けたほうが良いですからね」
管主が笑いながら、冊子を取り出した。
【心身ともに健康に】
デジタルデトックスのプログラムが示されたパンフレット。
謳い文句とはうらはらのどこかギラギラした印象は、使っているフォントのせいか、配色のせいか、それとも写真のせいなのか。とはいえ、書かれてあることにおかしなものはなさそうである。
事前にも目を通しているので、内容はだいたい押さえている。
ネット回線の通じていないところで、穏やかに過ごし、ネットを通じて流れ蓄積した毒素を抜いていく。
同時に身体に蓄積したものもデトックスしていく。
肉や魚を絶ち、少しずつ穀物も減らしていく。
こうした穏やかな生活の中で、心身の毒素が抜けていくのだという。
説明を聞いているうちに企画で試した断食道場のことを思い出した。
私も夫も豪華な食事と豪華な酒で少し身体が重くなっていたところだ。
ここで身体を引き締めて、それで水着姿をあげてやろうかしら。ああ、いけない、デジタルデトックスなのだと、私は心のなかで苦笑する。もしかしたら夫も同じようなことを考えていたのかもしれない。夫は黙っているが、口角を少しあげるのは、皮肉を言うときの彼の癖だ。
「このデトックス、いいネタだと思っちゃった」
「僕も同じだよ。君の顔見てたら、すぐ同じこと考えてるなってなって、ニヤニヤしちゃった」
私たちは宿坊とは名ばかりの豪華な寝室で笑い合う。
こうして、私たちの一週間デジタルデトックス合宿がはじまった。
最初はご飯やパンの代わりに、おしゃれなガレットが出た。
ガレットはフルーツや、甘く似た餡を自由にトッピングできるもので大満足だった。
食事を取ると、瞑想ルームに入る。
スマートフォンを使ってはならないなどという決まりはなかったが、ここはネットが通じないので、私たちはすぐに触らなくなった。
時間を持て余したりすることがないように、寺の中ではエステサロンと見紛うような入浴施設と美容サービスが受けられる。
ネットにはつながらないものの、雑誌や書籍、映画などを見て、肌を磨き、フルーツを食べ、過ごした。
瞑想室は真っ暗だ。
この中にいると、母の胎内にいた頃のことを思い出し、安らぐことができる。
案内の僧たちは、そのようなことを話していた。
私はいつものようにベルを鳴らす。五日目ともなると、瞑想も慣れたものだ。
部屋にしつらえられた小さなベルをちりんちりんと鳴らすと、僧たちが瞑想室の扉を開けてくれるのだ。
それなのに、今日は開けてくれない。
私は不安になって、何度も鳴らす。
向かいからも、ひっきりなしにベルの音がなる。
夫が鳴らしているに違いない。
その証拠にベルには聞き覚えのある怒号も混じっていた。
小一時間ほど経ち、ベルを鳴らす腕もしびれてきた頃に、夫の声がした。
「何があったんだろう?」
答えることばは見つからなかった。
唇がかさかさになった頃、外に人の気配がした。
声を出そうと思ったが、かさかさの唇と喉は音を外に出してくれない。
私はベルを必死に鳴らす。
一瞬小さな物入れ扉が開き、コップのようなものが差し入れられた。
そうして、外の人の気配が消えた。
私は泣きながら、それでもコップの中身を貪るように飲んだ。
どろりとしたなんとも形容しがたいものが喉を通る。
胃がそれを吐き出そうと痙攣したが、水分を少しでも失いたくない。私はぐっと胃酸とどろりとした液体を飲み込み続ける。
真っ暗な中で、時間の感覚もまったくなかったが、それでも、同じことが数度続いた。時間の感覚こそないが、もう予定の一週間はとっくにすぎていることだろう。
毎回与えられるドロリとした液体。
三度目あたりからは、もう嘔吐を押さえられなくなっていた。
上下から垂れ流したものが発する悪臭の中、私はベルを鳴らし続ける。
いつしか向かいのほうからのベルの音が聞こえなくなっていた。
ああ、何かが欲しい。
◆◆◆
入定成れり!
唱和の声。
もちろん、暗い部屋の中の二人の耳にはもはや何も聞こえない。
「いい感じに干物になってるわ。ストーリーにあげても良いかな?」
若い男の声がした。ひひひというささやくような笑い声。
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