31 家族の誕生
ある日、帰宅すると部屋に「彼女」がいた。
「彼女」のことを僕はまったく知らない。
しかし、「彼女」は僕の彼女なのだという。
「どちらさまですか?」
僕は当然こう問いかける。彼女の晴天のような笑顔に少しずつ影がさしはじめ、大粒の雨が流れる。
慰めるためには、両手をどのように使えば良いのかを思案している間に、彼女が僕に抱きつく。
胸元が温かい涙で湿る頃には、僕の両手も彼女をしっかりと抱きしめていた。
驚くくらいにしっくりとくる。
どうして、彼女がいないなんて思っていたのだろうか。
◆◆◆
僕がおかしかったのだろう。
なぜなら、誰もが彼女のことを知っていたからだ。
よく気がつく優しい子、お前なんかにはもったいない子。
かわいい上に気さくな子、さっさと別れろと思ってるよ。
そう、僕の大事な彼女なのだ。
もちろん、どんなに好きな相手とでもたまにはケンカもする。
そういうとき、大抵は僕が悪者になる。
皆、彼女の味方だ。
◆◆◆
新年度直前、決算前で仕事に追われてくたくたになって帰ると、彼女の「弟」がやってきていた。
「その人、誰?」
「私の弟、いつも話しているし、この前も会ったでしょ」
初めて聞いた気がするが、多分、僕が聞き流していただけなのだろう。
会ったのは……いつのことだったのか。
「この前、お願いしていたとおり、しばらく、ここに居候させるね。本当にありがとう」
彼女の弟は、東京の大学に受かったが、後期日程だったこともあり、部屋探しをするだけの余裕がなかった。
それでもいくつか回ってみたが、良い部屋はすでに新しい住人が決まっていて、予算的にもどうしようもないというときに、見かねた姉が声をかけたらしい。
「ほら、試験のときもうちに泊めてあげたじゃん? ここ、大学に近いしね」
そんなことがあっただろうか。僕は最近、残業続きでとても疲れていた。
ぼんやりと二人を見つめていると、彼女が僕の手を握った。
彼女はそのまま僕に抱きつき、頬にキスをする。
良い香りが鼻腔をくすぐった。
だから、僕は「お願い」された憶えがないことも、同居人が増えることを了承したこともないのを、すべて気のせいで片付けることにしたんだ。
激務で疲れていたとしても、大事な彼女の話を聞き流していたなんていえない。大事な彼女の大事な弟の顔を忘れていたなんてことも言い出せない。
彼女の作ってくれたご馳走を食べて、お祝いした。
僕は一人っ子だった。
こんな弟がいればよかった。
若いけれど、落ち着いていて礼儀正しく、かといって、堅苦しくもない。
彼女もそうだ。家庭の教育の賜物というやつなのだろう。
彼女たちはどんな家庭で育ったのだろうか。
そういえば、聞いたことがなかったな。
弟が上京してきて、最初の夏休みのことだった。
彼は帰省しなかった。
納涼会と称した部署の飲み会で僕は泥酔した。翌朝、万力で頭を締め付けられるような二日酔いに悩まされながらリビングに行くと、四人がけの食卓はすでに埋まっていた。
彼女とその弟、さらに年配の男女が二名。
座るところがなく立ち尽くす僕の頭を年配の男女の片割れのことばがゆらす。
「やはりね、家族揃って暮らすのが一番良いのだと考えてね。退職を機に東京で一家四人で暮らすことにしたのだ」
彼らが彼女の「両親」であることは、二日酔いでほとんどまわらない僕の頭でも理解できた。
だから、かろうじて「誰だよ」ということばは飲み込んだ。
ただ、どうして、家に越してくるのかが、わからない。
だから、僕はそれを告げる。
ここは僕の家だ。彼女と暮らす僕の家だ。
「だいたい、僕が座るところがないじゃないか」
僕の家のリビングで僕の買った食卓を占領し続ける彼らは、僕にさすような視線を投げかけてきた。
◆◆◆
姉弟がそろって出勤するのを、両親が見送る。
彼らは近所の人にも挨拶を欠かさない。
町内会の行事にも、率先して参加してくれる。
休みの日は、家族四人で出かけたりすることもあるようだ。
理想の家族だ。
「本当に気持ちの良い人たちよね」
「あの子たちも、小さい頃から……あれ?」
「いつ頃から住んでいたかしら?」
「あれ、それが私もおぼえていないのよ」
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