22 人魚姫
どうして子どもに「人魚姫」を読ませるのだろう。
とても残酷な物語ではないか。
恋した相手が自分を恋愛対象として見てくれない。
そんなこと、多かれ少なかれ、子供の頃から経験してくることだ。
それなのに失恋したら泡となって消える。
恋愛でうまくいかないことは、そこまでに罪なのだろうか。
それでも、わたしは人魚姫に心惹かれてきた。
彼女の悲劇はどうしてか、わたしの心をとらえてはなさない。
「せめて人魚に戻れたら良かったのに」
片思いの相手を手に掛けることなく、すっと去ることができたなら。
◆◆◆
男性からのアプローチはそれなりにあった。
しかし、わたしはそれを断り続けてきた。
彼が心変わりしたら、自分が泡となって消えてしまう気がしたからだ。
「モテるのにもったいない」
恋は大きな罰をもたらす。わたしは友人のように気軽に恋に溺れることができなかった。
自制できる感情は恋には育たない。
人魚姫もわたしと同じだったに違いない。
どのような結末が待っていようと押さえきれない感情はある日訪れるのだ。
わたしの場合、それは書店で訪れた。
ターミナル駅の大きな書店、わたしはここで本棚を眺めるのが好きだった。
人魚姫をはじめとした人魚に関する研究書や悲恋を描いた小説を手にとっては眺め、ときには購入する。
『水と人魚の文化史』という分厚い本を見つけた。
本棚から抜き出そうとしたちょうどそのときに、細く白い指が私の手にぶつかった。
おどろいたわたしの手から離れる分厚い本を、その指はすっと受け止めた。
細くてきれいな指は同時に力強かった。
「ごめんなさい」
わたしたちは同時に声をあげた。
「ハモっちゃいましたね」
これも同時だった。
眼の前の青年がくすっと笑う。わたしもくすっと笑う。
このときだろう。わたしが彼に恋をしたのは。
この人ともう少しだけ言葉を交わしたい。
だから、わたしは「人魚、好きなんですか」と問うた。
「あなたも?」
彼はそう言うと、とてもスマートにわたしを喫茶店に誘った。
◆◆◆
彼はわたしの王子だ。いや、王子よりも完璧だった。
医師にして、生命工学の研究者でもあるるおだやかで美しい顔をした青年。
彼の言葉に嘘偽りはなく、わたしの第一印象は一つを除いて、すべて正しかった。
彼はわたしよりも年上で青年というよりも壮年というべき年齢だった。
「人魚の肉でも食べたの?」
彼の研究室でふざけるわたしの首筋に彼が歯を立てる。
もっと彼の痕跡を残してほしかった。
「きみは人魚姫のように美しい」
彼は、彼以外には許されないセリフをのべるたびに、細く白い指でわたしの腰をなでた。
わたしは彼に触れられるたびにぞくっとするが、彼の触り方にはどこか計測するかのようなところがあった。
医師、研究者ゆえの職業病なのかもしれない。
彼はわたしの心と身体をとらえてはなさなかった。
「あなたは私の王子、わたしはあなたの人魚姫」
「そうだね、僕が王子かどうかはわからないけれど、君は人魚姫だ。こんなに美しい子が泡となって消えてしまうなんてあったらいけないね」
わたしは彼に溺れていく。
彼がわたしから離れていってしまったら、わたしは泡になってしまうかもしれない。
「いいや、そんなことはないさ。僕たちの恋に終わりが来る日はくるかもしれない。それでも君は泡にならない。人魚に戻ることができるよ」
彼はささやくと耳たぶをやさしく噛んだ。
◆◆◆
恋は魔法。
魔法が解ける日が自分にくるとは思っていなかった。
彼は悪くない。どこも悪くないのに、わたしの気持ちは少しずつ彼から離れていった。
彼は多忙で、なかなか時間をとってもらえない。
そのようなことは付き合う前からわかっていたことではないか。それなのに、気がつけば、わたしの心のなかには「耐える」「我慢する」という言葉が浮かんでは泡のように消えていった。
彼の研究室の大学院生には女性が多かった。
わたしよりもずっと頭が良くて、綺麗な女性たち。
彼が選んだのはわたしだ。いくらそう言い聞かせても、不安が積もるようになった。
それでも、彼は完璧だった。
わたしが当たり散らしたのに完璧だった。
完璧で優しく美しい顔、それすらもわたしの疑念と嫉妬を増幅させ、私に「我慢」を強いるようになった。
わたしは彼のことが大好きだ。それなのに、これでは彼を傷つけるだけだ。
「わたしはあなたが好き。狂おしいほど好き。なのに、私は泡になってしまわないか、不安で仕方がないの」
「大丈夫、僕の気持ちは変わらないし、万が一変わったとしても君は泡になんかならないよ。僕の人魚姫」
「なら、わたしだけを見て。ねぇ、女子学生なんてみんな追い出して。わたしが助手をするわ。大丈夫、勉強するわ」」
「大丈夫、僕は君しか見ていないんだよ。でもね、仕事だし、女子学生だけを指導しないなんて許されないんだ」
「わかってる。わかってるのよ。でも、わたしは我慢できない。こんなことを言ったら嫌われる。わかってるのに言葉がとまらないの」
涙が出てくる。たぶん、ひどい顔だ。とてもひどい顔だ。
ヒステリックに泣きわめくわたしと優しくなだめる彼の押し問答の末に、わたしたちが選択したのは少しの間、距離を置こうというものだった。
わたしは散々泣きわめいたせいなのか、少しだけ落ち着いてきた。
眼の前の彼はとても悲しそうに微笑んでいる。
「僕が忙しすぎるのがいけないんだ」
彼は悲しげにつぶやくと、最後に一緒に食事をしようと言った。
「僕の料理は絶品だってこと、忙しすぎて君に自慢できなかった」
腕まくりした彼は目を伏せながら笑った。
親から相続したという瀟洒な一軒家に彼は一人暮らしだ。
仕立ての良い白いシャツに身を包んだ彼は腰にサロンエプロンを巻いていた。
肩からタオルをさげる美しい青年はそのまま海外ドラマの登場人物として紹介できそうに様になっていた。
彼が自慢する通り、彼の料理の腕は絶品だった。
きれいなお皿、きれいなソース、きれいなグラス、ワインボトルをもつ綺麗な指。
こんな素敵な人と距離を置こうだなんて、わたしは本当に泡となって消えてしまうかもしれない。
「いや! わたし、泡となって消えてしまうのはいや」
わたしはナイフを握りしめる。
彼は優しく笑う。
「そんなことはないよ、僕の人魚姫。君は絶対に泡になって消えたりしない。僕が約束するよ」
そんなにワインを飲んでいないはずなのに。
わたしは急な眠気に襲われた。
◆◆◆
気がつくと、わたしは薄暗い部屋の中にいた。
上半身があらわになっていたが、そんなことは気にならなかった。
わたしが気になったのは、裸の胸や背中に差し込まれた無数のチューブ、そして、水だった。
わたしは巨大な水槽の中で浮かんでいた。
もがき、たちあがろうとしたとき、自分の足が動かないことに気がついた。
腰から下は鱗におおわれた巨大な魚となっていた。
ないはずの足以外に痛みは存在しない。
扉が開いて、彼が入ってきた。
叫ぼうとすると、ごぼごぼと水が口の中に入った。
不思議なことに溺れたりはしなかった。しかし、声は出ない。
「ああ、かわいそうな僕の人魚姫。人魚に戻ったのに、声をうしなうなんて。これじゃ、本当のハッピーエンドにならない。いけない。ああ、せっかく成功したと思ったのに」
熱にうかされたように喋る彼の背後には大きな水槽がいくつもあった。
「次の人魚姫は声を取り戻せるようにがんばるよ」
窓のない大きな部屋には水槽が三つ。
どれも中の「人魚」は瞬きもしなかった。
「そう、君が最初の、生きた人魚姫なんだ!」
ごぼごぼと泡を吐き出すだけしか、わたしにはできなかった。
涙が出ているかどうかすら、もはやわからない。
◆◆◆
彼女はうつろな目で水槽をたゆたう。
チューブのおかげか、命は永らえているようだ。
しかし、心はとうに死んでいるだろう。
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