16 あの日、理科収蔵庫でふざけて……
母校は戦前からある学校だった。
そのせいか、学校の中には驚くくらい古いものが平然と存在していることがあった。
とりわけ私たちが普段目にしない理科室の収蔵庫はそのようなものの宝庫であった。
◆◆◆
高校2年の頃だ。生物の金田先生に頼まれて、他の生物部員二人と収蔵庫の掃除をしたことがあった。
普段はなかなか目にしないものが多く、それらが醸し出す非日常感にでも当てられたのだろうか。
私たちは埃とカビの臭いがする中、ついつい馬鹿騒ぎをしてしまった。
鎌田と西野は古ぼけた骨格標本で遊んでいた。
生物室には真新しいものがあるのに、このような黄ばんだ標本をどうして取っておくのだろう。
「いっそさ、標本二つ並べて、対戦格闘ゲームっぽくしようぜ」
西野がおどけた。
「You Lose!」
鎌田は頭蓋骨を取り外すと、ぽんと放り投げた。乾いた音を立てて頭蓋骨が転がった。
「やめなさいって!」
西野は頭蓋骨を失った標本の腕を器用に動かして、漫才のツッコミを器用にやってみせた。
私もそれに混じって何かおどけてみせたかったのだ。
ちょうど手には小瓶に入った何かの胎児らしきものがあった。
「ゲットだぜ!」
私は小瓶を掲げようとした。
掲げるつもりだけだったのに、手が滑ってしまった。
かちゃんという音とともに鼻の奥をつんと刺激する酸っぱい臭いがあたりに充満した。
なにやってんだよ、バカと呆れながらも鎌田と西野は片付けを手伝ってくれた。
バレたら連帯責任で怒られると思ったからだろう。それに彼らが遊んでいた骨格標本もよく見ないと分からない程度であるが、破損していた。
窓を開け、換気し、ガラス片を片付け、小瓶の中身は焼却炉に捨てて証拠隠滅した。
しばらくして、金田先生が様子を見に来た。
「ここはな、本物のホトケ様があるからな。遊ぶんじゃない」
後からそのようなことを言われても困る。
私たちは素知らぬ顔をしてやり過ごすことにした。
幸い、先生は人体模型にできた傷にも、数の減った小瓶にも気づかなかった。
私たちは自分たちがやったことを忘れて、卒業した。
◆◆◆
どうして、今になってこのような昔話を思い出したのか。
それは鎌田の見舞いに行ったからだ。
鎌田は駅の階段で足を滑らせ、頭を強く打って入院していた。
病室に入ろうとするときに出会った鎌田の妻君によると、半身麻痺でうまく喋れないので、辛抱強く話を聞いてほしいということだった。
中には前腕を三角帯で釣った西野がいた。
無言の二人に挨拶をすると、土産の果物を置いた。
「なんだ、西野まで怪我をしたのかよ。それにどうしたんだよ、二人揃って黙りこくって」
私の問いに西野が答える。
「それがな、標本がな……」
西野も鎌田も怪我をする前日に黄ばんだ骨格標本を見たというのだ。
「はっ?」
「ほら、あれだよ、高校の時の収蔵庫の掃除のときに遊んでいた……」
私はここでようやく思い出したのだ。
西野の骨格標本を使った「ツッコミ」、鎌田の頭蓋骨投げ。
西野は腕を折り、鎌田は脳挫傷だ。
となると、私はどうなるのだ。
「お前さ、瓶、割ってたよな……」
血の気がひいた。
小瓶の胎児。
スマートフォンの待ち受け、大きくなった腹を押さえて微笑む妻の姿。
コビンノタイジ。
イヤダイヤダイヤダヤメテクレ。
◆◆◆
死産した子は病院側がねんごろに弔うと言った。
「まだね、若いんだから。会ってしまったら未練が残りますよ」
年老いた医師の話を俺たちは聞いた。
私たちと医師の間には見えない防音の壁が挟まっていた。
声はぼやけてよく聞こえなかった。
私たちは泣きながら、ただうなずいた。
妻は少しの間実家で養生することになった。
それがいいのだろう。
子どもについて、他人が霊障だとか言おうものならば、そいつのことは殺してやっただろう。
ホルマリン漬けの胎児のことを思い出している自分も殺したい。
関係ないのだ。関係させてしまったら、あの子に失礼ではないか。
それなのに……毎晩毎晩、何かが耳元でささやくのだ。
何を言っているかわからないが、毎晩それは来る。
そして、それが去った後には必ず鼻の奥につんとした酸っぱい臭いが充満しているのだった。
ある日、私たちが世話になった産科が全焼した。
ニュースでわかったのは、何かの薬品に引火したということくらいだった。
奇跡的に入院患者は誰もいなかった。私たちの子を弔ってくれた年老いた医師が亡くなっただけだった。
花を供えに行こうと思っていた私を止めたのは見たくない続報であった。
建物には地下室があり、そこは火災の被害をまぬがれた。
これだけならばニュースにはならないだろう。
ニュースになった理由はおぞましいものであった。地下室から大量のホルマリン漬けの胎児の標本が出てきたというのだ。
もしかしたら……危惧はあたった。
多くは身元不明であったが、比較的新しく年月がはっきり特定できたものの中には私たちの子どももいた。
私たちは警察で説明を受けた後、我が子を受け取り、今度こそ弔った。
我が子には泣きながら謝った。
それだけではいけない。謝る相手は他にもいる。
私は卒業以来足を踏み入れていなかった母校を訪問した。
金田先生は定年間近であったが、まだ在職していた。
事情を話し、収蔵庫で供養をおこなった。
(本当にごめんなさい)
私はあのホルマリン漬けの胎児に謝った。
それ以降おかしなことは起こっていない。
◆◆◆
その後、私と妻は新しい命に恵まれた。
太生が五歳になったとき、彼が私にニコニコしながら話しかけてきた。
「あのね、おとされたり、やかれたりするの、こわいの。こんどはきをつけてね」
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