08 沼の主
T町にあるT沼には
大きな蛇であるともオオナマズであるとも巨大なコイであるともいう。
それだけならば、まぁ、よくある話だ。
沼のサイズから考えると万が一いたとしてもネッシー的な怪物ではない。これだけでは面白みはない。
私の目をひいたのはその後の説明だった。
沼の主は時折、人の姿をして沼の周りを出歩くことがあるという。
不運にもこれに出会ったものは沼の中に引き込まれるという言い伝えがある。
これは面白くできるのではないか。私はキーボードを叩く。
◆◆◆
【水を全部抜く×不気味な伝承の検証×UMA】、これを主軸とした企画をプロデューサーの佐河は面白がってくれた。
「手間がかかりそうな仕事でお前大変だろうけどさ」とは佐河の言葉だ。
自分の企画が採用してもらえるならば、それくらいの手間を惜しむつもりはない。
佐河の趣味の悪い柄シャツがとても格好良く見えた。
行政に許可を取る。
生物調査だけではなく、地域の伝承にもスポットをあてたいと多少内部向けのものとは表現を変えた企画書も提出する。
生物ライターと霊能者を探してくる。
生物ライターは学歴や著作や書いた記事の数で判断できるが、霊能者はどうやって判断すれば良いのだろう。
わからないからSNSで適当に声をかけた。
ここまでトントン拍子で話が進んだ。撮影日は普段は現場にこない佐河も来てくれることになった。期待されているかもしれないと思うと自然と顔がほころんだ。
当日、エキストラ役として募集した人たちと水を抜いて、掻い掘りしていく。
カメラがまわるなか、歓声は短めの沈黙と困惑のあと悲鳴に変わった。
掻い掘りをしていた人々がつかんだのは人骨で、沼の主のかわりに出てきたのはぶよぶよにふくらみ、ところどころを魚に食われた水死体であったからだ。
「カメラ、とめろってんだろ、このタコ!」
撮影は中止、水を抜く前の沼の様子がニュース映像として使われただけで残りは当然お蔵入り、放送できなかった。
そして、程なくして番組自体も打ち切られることになる。
佐河が行方不明になったからだ。
彼が最後に目撃されたのは、彼の生活圏とはまったく関係のない件のロケ地であった。この話はあっという間に内部で拡散し、レギュラー放送ではなく特番あつかいの番組が誰かに引き継がれることはなかった。
霊能者は自分では太刀打ちできないなどというだけで、まったくもって役に立たなかった。
◆◆◆
佐河は一応まだ休職扱い中である。
しかし、彼はすでにこの世のものではないのではないか。
私がこのように考える理由は、彼が沼の近くで目撃されており、その話がどうにも異様なものであったからだ。
警察の事情聴取や関係者への謝罪行脚で佐河失踪の後もT町を訪れていた私に役場の若い職員が声をかけてきた。
彼は役場の裏で「佐河さんに会ったんですよ」と話してくれた。
見かけたのならば連絡してくれと思ったのもつかの間のことだった。
彼の話は冒頭から不穏な泥と水の臭いしかしなかった。
職員が佐河と出会ったのは、突如霧が深くなった沼のほとりであったという。沼から上がってきた不気味な男は青白くふくれていたがたしかに佐河であったという。
「こうたいしてほしいこうたいしてほしい」
こうたいは交代だったかもしれないし、後退だったかもしれない。
濡れた髪と濡れそぼった服の青白くふくれた男に「交代」してほしいと言われて「交代」したがる者はいないだろう。別に「後退」と解釈しなくても逃げ出すのは当然だ。
背後からは「おまえじゃだめだ」という声がしたきりだったのだそうだ。
「実はね」
若い職員は続ける。
「私だけじゃないんですよ、見たの」
誰もが「こうたいしてほしい」と言われる。
追いつかれた者もいたそうだが、腐った魚のような臭いをさせた佐河は「おまえじゃない。おまえじゃだめだ」とつぶやいて去っていくのだという。危害は加えられていなくても恐ろしいことこのうえない。
今やT沼のそばはいっぱしの心霊スポットと化してしまっているらしい。
そして、その心霊スポットは不躾な心霊マニアたちを呼び集めるにはまだ新しく、地元の不良たちを追い払うくらいには恐ろしいものであるようだ。
「だからね、あなたも気をつけたほうが良いですよ」
私は帰り道、幻となってしまった番組で出演依頼した自称霊能者に電話をする。
番組はお蔵入りになってしまったが、ここでテレビに出て名前を売り出すのはどうだ。
私の問いかけに対して彼は即座に拒否した。
電話越しで相手の姿は見えないが、首を横にふっている姿が目に浮かぶような拒否っぷりであった。
それでも食い下がる私に対して、自称霊能者氏は別の人を紹介すると言ってくれた。
数日後、自称霊能者が紹介してくれた霊能者とは現地、つまりT町で直接会うことになっている。
一人では沼に近づくのは怖いので、彼を迎えに駅まで向かう。
駅まで向かう道は単純な一本道で沼とは別方向である。
たとえ場違いな深い霧が出ようとも迷いようがない。
それなのに私がたどり着いたのは沼の近くであった。
霧の中、沼だけがはっきりと見える。
そして霧の中、沼からはいあがってくる彼がはっきりと見える。
ぶよぶよに膨れた佐河が私に向かって歩いてくる。
水をすってはちきれんばかりになった体を趣味の悪い柄シャツでかろうじて包む。
聞こえてくるのはいつもの軽薄な口調ではなく、くぐもったうめき声、タバコを吐いた後に唾を吐く嫌な癖はなくなっていたが、かわりに口からごぽっと水を吐き出した。
水と一緒に吐き出されたヒルが地面で身をよじらせた。
腰が抜けてしまった私はただただそれを見つめるだけだった。
悲鳴は音にならず、目はつぶろうとしても瞼を何かが引っ張り上げているかのようで閉じることができなかった。
「こうたいしてほしいこうたいしてほしい」
嫌です。心のなかで必死に拒否するが声は出ない。
「おまえのせいだこうたいしてほしいじゆうになりたい」
後退りすることすらかなわない。
「こうたいしてほしいこうたいしてほしい」
ぶよぶよの指からずるりと肉が落ちる。
骨の突き出た指が私の足首をつかもうとする。
でも動けない。
私はただ涙を流しながら佐河だったものを見つめ続けた。
◆◆◆
霧の中、手を掴まれる。
鈴の音と何かしらの真言めいた言葉に青白くふくれた佐河は踵を返して去っていった。
山伏のような服装、街なかを歩くには人目を集めすぎる姿の拝み屋が前に立っていた。
私の腕にはべったりとした手形――骨が当たったところは血がにじんでいた――が、地面には糸を引きそうな濁った水の跡が残っていた。
◆◆◆
ここに佐河が沈んでいる。
そのようなことを言っても警察は普通相手にしてくれない。
ただし、今回は不審な目撃情報が多発していること、地元の住人たちが不安がっていることを重視して、特別に沼にダイバーを入れてくれた。
佐河は沼の中にいた。
身元確認ということで立ち会ったときに見たその姿は俺が見たときと同じで青白く膨らんでいた。ぶよぶよの体を趣味の悪い柄シャツでかろうじて包んでいた。
「海の漁師が普通祀るものなんだけどね」
郷土史家でもあるという地元の中学の元教員が後日話してくれた。
かつてはT沼ではテナガエビの漁がおこなわれていたという。
その頃は水死体は重宝されたのだそうだ。
水死体、いわゆる土左衛門は豊漁を約束する福の神として祀られることがあるのだという。
しかし、この沼はとうの昔にめぼしい水産資源をうしない、漁に従事する人もいなくなり、そのような信仰も忘れられてしまった。
エビスとよばれるカミを祀る神社も今では無人で朽ちかけている。
「エビスさんというのはね、しっかり祀ってあげないと危ないんだよ」
そして祀ってあげたとしてもエビスは恐ろしい存在であり続けるらしい。
人々に富をもたらす恐ろしいカミ。
死体は検死され、すでに焼かれている。
しかし、その後、特別に彼とこれまでのエビス様たちのために祭事をおこなった。
「これまでありがとうございました。お役目ご苦労様でした」
祭事のあとに手を合わせる拝み屋を真似て俺も手を合わせた。
そういえば、沼というのは海と違って外と繋がっていない。
海流によって何かが流れ着いてくるということはないから、エビスはなかなかあらわれない。
それでも、どういうわけかエビスの記録はずっと続いていたそうだ。
どのようなことを意味しているのか、考えてはいけない気がした。
隠されたものをさらうのはもう御免だ。
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