05 オナオリサマ
背中の母は驚くほどに軽かった。
先ほどまでの罵詈雑言で疲れたのだろう。
今は私の背中で寝息を立てている。
かつて母に背負われてきた道、今日は母を背負って歩む。
あのとき母に手をひかれていた兄はもういない。
虫の声と母の寝息を聞きながら、私は階段を登る。
◆◆◆
七歳年長の兄はひどい
多少の癇癪は誰だって持っているだろうが、兄の場合は歯止めがきかなくなるという問題があったらしい。
らしいというのは、あまり憶えていないからだ。
ただ私の頭には兄につけられたという傷跡が残っている。
普段は髪で隠された中にあるミミズのようにのたくった肉の盛り上がり、鏡と指でしか感知することのできぬこれの原因は兄の癇癪であるという。
このような兄だから、母は学校に呼び出され続けたらしい。
その日も母は私をおぶって学校に行った。
学校では教師と誰かの父らしき者がいたはずだった。
ふてくされて座る兄もいた。
兄は同級生と喧嘩したらしい。
子供の喧嘩に親が出てくることは、自分が小学校に通うようになってからでも珍しいことであった。
少なくとも自分のまわりでは起こったことがなかった。
多少のたんこぶ、出血で親が出てくることなどはなかった。喧嘩のルールさえ守っていれば日常の出来事として処理されていた時代だった。
母が呼び出されたのは、兄がそのルールすら守れなかったということらしい。
「お前んガキは何だ? 倒れた相手の頭、蹴り飛ばして踏みつけるんバカタレはいずれ人をころすぞ!」
母と兄をかばう者はいなかった。母には夫はなく、私たち兄弟には父がいなかった。
泣きながら謝る母の横でふてくされる兄の頭を母が無理やり下げさせようとしたとき、兄は暴れた。
背中から落ちて泣き叫ぶ子どもの声が記憶に残っているが、あれは間違いなく私の泣き声だった。
涙でうるんだ目に映っていたのは顔を床にこすりつけるようにして謝る母の姿。時折顔を上げて許しを請う母の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。
記憶はところどころ途切れているが、あの頃の兄は怒りを出し尽くしてしまうと存外大人しくなったものだった。
兄は帰り道、けろりとした顔で謝り、母に手をひかれて歩いていた。
腹が減ったと笑う兄を連れて母は喫茶店に入った。
誕生日でもないのに外食に連れていってくれるなんて。
兄も私も大喜びであった。
「好きなものをお食べ」
オムライスとメロンクリームソーダをたいらげた兄に母はデザートを勧めた。
チョコレートパフェを食べた兄は「母さん、ごめんね」と笑った。
私は母の横にちょこんと座りながらプリンアラモードを食べていた。
母が鼻をぐすぐすとならしながら、兄の手を握りしめていた絵が脳裏に色褪せることなく残っている。
家にはまっすぐに帰らなかった。
このように書くと一家心中でもはかったかのように思われるかもしれないが、そのようなことはもちろんない。
ただ少し遠くのひとけのない神社にお参りに行っただけだ。
「オナオリサマのとこにいこ。きっと良い子が家に戻ってくるからね」
うっそうとした木々に囲まれた参道を登り、境内に入った。
境内で母がやったことはよく憶えている。
からからと鈴をならしたあと、母は小さな扉を開け、兄を本殿の中に押し込めた。
兄の泣き叫ぶ声、泣きながら謝る声、もうしないと謝る声、それがしばらく続いた後にふと静かになった。
帰り道、兄がいなかったことだけは憶えている。
それなのに、家の扉を開けたら兄はいた。微笑みをうかべて座っていた。
母も取り乱したりはしていなかった。
その後の兄は私のよく知っている兄である。
無口で大人しく癇癪を起こすどころかどこまでも従順で影の薄い子供。
そこにいるのかいないのかわからないような子供は学業でも運動でも交友でも目立たず、ひっそりと中学を卒業し、そのまま近所の工場に勤め始めた。
兄はそこでも目立たず、特に病気も怪我もすることなく、それなのに二十歳になる前に死んだ。
朝、息をしていなかった。
母が「オナオリサマのところにカエッタ」という言葉を用いていたのを憶えている。
白髪の増えた母に荷物持ちを頼まれてついていったのは、兄の葬式の直後である。
果物を詰めた籠と酒瓶をかかえて母の後をついていった先にあらわれたのは、かつて母に背負われて通った参道である。
行きは親子三人で、帰りは二人で通った参道である。
私の足はとまった。
オナオリサマという名前で母が呼ぶ神様のところにはどうしても行きたくなかった。
私は荷物を下ろすと、何も言わずに逃げ出した。
母は追ってはこなかった。
その後、何事もなく時を過ごしてきた。
◆◆◆
「私の財産と家を取ろうとしてるんだね、誰がやるもんか! このクソジジイ! ハゲジジイ! キタナラシイジジイ!」
ある頃から母は凶暴になってしまった。
私を罵るのもひっかくのもかまわなかった。
しかし、施設や近所の人にまで暴力を振るうようになってしまっては私にはどうしようもできなくなった。
母も昔同じ気持ちだったのだろう。
私は母の手を握りしめて心のなかで謝る。
本堂に閉じ込めた母の罵倒が静まるのを私は待つ。
静かになったところで母を置いて家路につく。
「おかえり。おそかったね」
玄関をあけると、貼り付けたような笑顔を浮かべた母が座っていた。
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