04 院生室
「ちょっと嫌な事件がありましてね、ここ数年院生を取っていなかったのですが、気にはなりませんか」
「
「まぁまぁ、そんなに気にしないでください。久々の新入生に君のような優秀な院生を迎えられて、私たちも嬉しいですよ」
俺は深々と一礼してから退出する。
合格通知が届くころには、俺はすでに大学のそばに引っ越しの準備をはじめていた。
学部時代の恩師に合格報告に行くと進路相談のとき同様にため息をついた。
「あそこはちょっとね」
嫌な事件、つまり刃傷沙汰と自殺事件について気にしているらしい。
「先生、ここだって学生とか院生の事件、あるでしょ」
「そうだ。なるべく秘密にしているんだが、気がつくと虚と虚にどこからか実を少し持ってきたような怪談までできて、君みたいなのが卒論のネタにまでするんだよな」
「修論のネタができましたよ」
俺の言葉に恩師はかぶりをふる。
先生、知ってることあったら教えて下さいよという俺の言葉に、先生はもう一度かぶりを振る。いや、知らないし、知っていることもあまり話したくないんだ、と。
「なんかね、あそこは僕たちも嫌な感じがしてね。僕だったら近寄らないよ」
◆◆◆
四月、一応、入学式には出た。出る資格はあったが、出る意味はあまりない。文化史専攻ただ一人の新入生である俺のためのガイダンス等は一切ない。
新入生歓迎で賑わう中、俺は院生棟と呼ばれる建物に向かった。
この大学に慣れていない。
桜の花びらが舞い散る中、構内地図を頼りに目的地を目指す。
自分専用の机で研究ができることが嬉しかった。
人文学研究科の院生に与えられた建物、通称院生棟の部屋のカギはもらっていた。
薄暗い一階の片隅にあるエレベータのボタンを押す。
乗り込んでから、何階に文化史専攻の部屋があるのかを忘れていたことに気がつく。
操作盤の手前で迷う俺に後から乗ってきた男が声をかけてきた。無精ひげをはやしたやや薄汚い中年男性。気配もなく突然あらわれたような気がして、俺は内心ほんの少しびびる。
「君、新入生?」
小声で「はい、M1です」と答えると、相手は「ぴっちぴちやなぁ」と笑う。
「文化史専攻博士課程の
修士課程が二年制、博士課程が三年制。修士はすんなり出るが、博士はそうもいかない。在籍制限が裏表で倍、それに休学だのをはさむせいか、博士課程には年齢不詳でいつからいるのかわからない人も多い。
学部の頃、在学していたところの博士課程院生も苔むしているような人が多かったものだ。
稲津先輩もその類なのだろう。嫌な事件がいつのことかわからないが、上の学年は残っているみたいだ。
先輩は俺に代わりボタンを押してくれた。
「好きなとこ使ってな。たいして人もおらんから」
先輩は怪しげな見た目の割に親切だった。
作業机をもらっただけではなく、プチ歓迎会までしてくれた。
お茶とお菓子をいただきながら、自分の研究について話す俺を先輩方は優しく迎え入れてくれた。
ゼミに先輩方が出てくることはなかった。
俺は学部生に混じって、あるいは一人で発表や原典講読を続けた。
「今、申請書の締切が間近なんだよ。君も来年から出せるからな。これ通ったらバイトせんで良くなるからな」
稲津先輩の言葉に他の先輩も無言で首をふりながら一心不乱にキーボードを叩き続けていた。
いつでも彼らは院生室にいた。俺は合鍵を使ったことが一度もない。
エレベータでは毎回の様に稲津先輩が乗り込んできた。この人は驚くくらいに存在感がない。それくらいにふっと現れる。
「先輩、毎回毎回よく会いますね。もしかして俺のこと見張ってたりします?」
俺の軽口に先輩は「ばれたんかー」と頭に手をやる。
「いっつもなこのロビーの片隅で君が来るの待ってるんよ。なにせ期待の新人やからな」
先輩はエレベータに乗り込むと、いつものようにボタンを押す。
廊下の片隅の扉を開けると、いつものように先輩方がいる。パソコンに向かい、一心不乱にキーボードを叩いている。
「ザクロジュースあるけど、飲むか?」
先輩の一人がコップにどぼどぼと赤いジュースを注いでくれる。
俺はお礼の言葉とともにコップを受け取る。
ぐっと飲み干すとノートパソコンのスイッチを入れた。
院生室はとても楽しい。
◆◆◆
「そういえば、先輩、いつもどこで作業しているんですか?」
ゼミで一緒になった学部生に声をかけられた。
三年生の彼は進学志望らしくよく質問をされる。
「どこって、院生室だよ」
「一人であの建物で作業するのって、怖くないですか? ほら、あれもあるし」
「いや、博士課程の先輩たちがいっつもいるから賑やかだよ。院志望なら先輩たちの話も参考になるだろ。今度連れてってやろうか?」
「先輩、怪談の研究してるからってやめてくださいよ。自分けっこうびびりなんですから」
学部生がぎこちない笑顔をみせた。
よく意味がわからなくてきょとんとしてしまう。
学部生は笑顔を作る努力を諦めたらしい。
「あっ、バイトのシフト忘れてた」と駆け去った。
それ以降、彼は俺に話しかけてこなくなった。
先輩方はいつも院生室にいた。
しかし、申請書のシーズンが終わっても理由をつけて、ずっと一心不乱にパソコンに向かって何かを打ち込んでいた。
「先輩、たまにはゼミにも顔を出してくださいよ」
そう言う俺に先輩方は「学会発表の準備」、「論文の準備」と言うだけであった。
ある日、院生室で作業をしていると、多田先生から電話が入った。
耳にあてた瞬間、先生の怒声が俺の鼓膜をふるわせる。
「学部生に何の話をしてるんだっ、君はっ! 私を馬鹿にしているのかっ! 院生は君以外一人もいないだろっ! きみっ、お前も私のせいだって言いたいのかっ! あぁあ! 解決した話をほじくり返して変な噂でも流すためにここにきたのかっ! もう来るな! 二度と顔を見せるなっ!」
電話が切れる。
この大音声だ。聞こえたのだろう。先輩方がじっとこちらを見つめている。
俺は混乱する。
院生が一人もいない? いるじゃないか、先生は何を言っているんだ? 一人もいなければ、先輩方は何なのだ?
何なのだ?
……先輩方の専門の話をきいた覚えがない。いや、何度も聞いたはずなのに何一つおぼえていない。
先輩方は調査にも赴かない。
彼らはずっと部屋にこもり、キーボードを叩くか、俺と話しているか、それだけだ。
真夜中だろうが早朝だろうが、先輩方はいる。
俺はもらったカギを使ったことがない。
エレベータのボタンで八階を押したことすらない。
今になって強烈な違和感が襲ってくる。
先輩の一人が向かっているモニタが目に入った。
あjlゼnブkjg去ナずノセイじゃえじゃおpjぁ;gmなl;kじゃlkjgかljklgじゃklじぇい9あ;jらいクる死イ;おが;あjが;カいホゥシてjがいイッショ二クルしんデおえwp
モニタを見据えながら一心不乱に打ち込んでいる文言は異言のようなものであった。
首筋に汗がにじみ出る。
助けを求めるように稲津さんに目をやる。
彼は微笑みながらこちらを見る。
「どうしたん?」
じわっとした汗がとまる。
ほっとした俺は自分をさらに安心させようと稲津さんが向かうノートパソコンを見る。
骨董品みたいな分厚いノートパソコンの画面が目に入る。
死ね死ね死ね死ね死ね苦しんで死ね死ね死ね死ね死ね死ね皆死ねあいつら皆殺す殺す全員殺す殺す殺す
一瞬にして滲み出た汗が背中を一気に冷やす。
先輩方がこちらをじっと見る。
白目のない飲み込まれそうな黒い闇が一斉にこちらを見つめる。
俺は反射的に後ずさる。
「こっち、おいでよ」
先輩の一人が長い髪をいじりながらつぶやく。
ぼろっと髪の束が抜ける。彼女が金切り声を上げる。
俺はズボンが濡れるのもかまわず走り出した。
ドアをあける。
真っ暗な廊下。
ただ走る。
成長していく廊下を走る。
先輩方、いや怪物か亡者の群れが追いすがってくるのがわかる。
泣きながらカバンに入っていたノートパソコンを投げつける。
亡者はパソコンの画面を割りながら金切り声を上げている。
エレベータの明かりが見える。
俺は整理しようと思って持ってきていた
亡者どもが固い緑のノートを引きちぎる。
紙の破ける音、紙を咀嚼する音を尻目にドアの前にたどり着いた俺はボタンを連打する。
九階、閉鎖されたはずの最上階に自分がいることに気がつく。
ノートを貪り食っていた亡者たちがこちらに這い寄る。
暗い廊下に明かりが明滅しはじめる。
なめくじのようににじり寄る後ろには血痕のようなものが残る。
泣きながら俺はポケットに入っていた小銭を投げつける。
ドアが開く。
飛び乗って「閉」と「1階」を押す。
ところどころ欠けたフィルムを早回ししたような奇妙な動きで這い寄る亡者たちが見える。
目を閉じることができない。口も閉じることができない。俺は泣きわめきながら後ずさった。
……彼らの手がもう少しで届こうかというときにドアが閉まった。
俺はわんわんと泣きながら下に降りていくエレベータの中でうずくまる。
恐怖と安堵が涙を滝のように降らせる。
ポンと音がしてドアが開く。
ゆっくりと立ち上がると足を踏み出す。
蛍光灯の光がとても心強い。
なのに……。
電気が突然消える。
そこはまた真っ暗な廊下。さっき逃げ出したはずの真っ暗な廊下。
稲津先輩だったものが笑う。
「君、
すがるような思いで振り返る。
エレベータは無情にも九階から下に向かっていくところだった。
俺は窓に向かって這うようにして逃げ出す。
◆◆◆
「院生棟で飛び降り自殺があったって知ってる?」」
「まじ?」
「まじまじ。それもわざわざ九階に登ってそこから飛び降りたって」
「うわやべ。九階ってあれだろ、おかしくなった博士課程の院生が院生室で刃物振り回してその場にいた院生殺して……」
「そう、自分も首刺して死んで……それ以降閉鎖されてる最上階」
「今でも明かりが突然ついたりするって」
ほらと一人が上を指差す。
今は九階に明かりは灯っていない。
「やめようぜ、この話。これガチでやばいらしいぜ。話しただだけでも……」
学生二人は体をぶるっと震わせると走っていった。
……誰か、来ないかな。
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