03 ボイスメッセージ
ある朝、私は孫の声で目を覚ました。
隣に孫はいない。ただ夫がいびきをかいているだけ。
ボイスメッセージだ。
◆◆◆
孫の佐奈は小さな手でスマートフォンを器用に操作する。
画面を遠ざけ、人差し指でたどたどしく画面をなぞる夫と大違いだ。
出産直前も授乳中もスマートフォンを手放さなかった娘から生まれた孫たちは小学校入学前からスマートフォンとタブレットに夢中だ。
テレビの幼児向け番組よりも小学生ユーチューバーの動画に夢中だったし、塗り絵やままごとセットよりもタブレットのゲームの方を好んだ。
さすがにスマートフォンもタブレットもSIMカードを抜いたおさがりでWi-Fi以外では通信できないようになっているが、それでも最初は多少眉をひそめたものだ。
でも、今では気にもならない。
私が子どもの頃は、「漫画ばかり読んでいると馬鹿になる」、今は「スマホばかりやっていると馬鹿になる」だ。
いつの時代も変わらない。
それに孫は溺愛し、甘やかし続けられる存在なのだから、ひそめるような眉なんか剃ってしまえば良い。
それでも私のスマートフォンをいじるのは佐奈の少し困った癖だ。
別に悪さをするわけではない。
「孫に携帯をいじらせたら、ゲームの課金アイテムをたんまり買われた」
友人の孫がやらかしたという事件は私には無関係だった。私の孫はできが良いのだと言ったら孫バカと笑われるかもしれない。
佐奈はボイスメッセージを残すのだ。
アラーム音の設定をいじって、そのボイスメッセージがかかるようにしてくる。
「おばあちゃん、だいすきだよー」
最初はさすがに驚いた。布団に入ったときにそこにいないはずの孫の声が突然聞こえてきたのだから。しかし、今は慣れっこだ。
幼稚園児なのにここまでできるなんて、末はパソコンや人工知能の研究で大成するのじゃないかしら。
娘のさつきにそのようなことを言ったら、「ママ、親バカこえた孫バカ」と鼻で笑われた。
そんな佐奈だが、5歳になって反抗期がはじまった。
それ自体はごく普通にあることだ。問題は外に行きたがらなくなってしまったことだ。
さつきは今どきの親らしく自分の娘たちに習い事をたくさんさせている。
月曜日と木曜日はバレエ教室、火曜日はスイミングスクール、金曜日は体操クラブだ。
それが、幼稚園も嫌、習い事も嫌、全部やめると言い出したのである。
さすがに幼稚園をなるべく行くように促しているが、習い事に関してはすべていったん休ませることになった。
「もうっ! どうすればいいのよぉー? やんなっちゃう、佐奈の反抗期ー!」
クッキーを口に放り込む合間にさつきが嘆く。
あんただって大変だったんだからなどと話そうものなら、娘は
昔はカラメルソースのかかったプリンだったさつきの頭に、今や生クリームがかかってしまっている。実家にいたときは洗い物の手伝いもせず綺麗であった手も今はあかぎれが目立つ。
子育てというのは本当に大変なものだ。
ポットの湯をティーサーバーにそそぐ。
カモミールの匂いがひろがる。
長女の美奈は習い事が大好きらしく、習い事にいけないと不機嫌になる。
だから次女の佐奈がぐずると姉妹ゲンカがはじまってしまう。
8歳の美奈が1人で教室に向かうのは不可能だし、5歳の佐奈が1人で留守番するのも不可能だ。
だから、私が家にいって面倒をみたり、さつきが佐奈を連れてきたりすることが増えた。
「ママ、ありがとね。ほんとに助かるわ」
さつきは最後の1枚のクッキーを飲み込むと笑顔になって立ち上がった。
習い事を始める前も家で夕飯を食べ、風呂まで使っていたさつきにしてはえらく殊勝であった。
「お子様向けメニューを思い出さないとね」
幼稚園の送迎バスが来る前に戻るという娘を送り出す。
佐奈は幼稚園にこそ行ってくれたが、体操クラブには絶対いかないだろう。
「和也さん、出張なら、今日は3人で泊まっていきなさいよ。おじいちゃんが孫のためにお寿司とってくれるわよ」
金曜は外で飲んでくることの多い夫も孫の希望とあらば大量の寿司をもって飛んで帰ってくるだろう。
翌朝、娘たちは帰宅した。
彼女たちが帰り着くであろう頃、スマートフォンから佐奈の声がした。
「おばあちゃん、いくらおいしかったよ。ありがとう。だいすきだよー」
特にいじっていないから、私が操作した直後にいじったとは考えにくい。
パスコードを佐奈の誕生日にしていたからわかったのかしら。
本当に頭の良い子だ。でもパスコードを変えとかなくては。
◆◆◆
火曜日、スイミングスクール。
佐奈は朝からぐずって登園拒否をしたそうで、午前中から家に来ている。
連れてこられた直後は涙と鼻水まみれだった泣き顔も一緒にプリンを食べるあたりには満面の笑みに変わっていた。
お昼ごはん、佐奈の好きなグリーンピースと玉ねぎぬきのオムライスを作ってやる。
リクエストに答えてケチャップで「うさちゃん」を書く。
佐奈は大喜びでもりもりと食べた。
お昼ごはんのあとは昼寝だ。
幼児特有の甘酸っぱい汗の匂いが鼻につく。
さつきの時もこんな感じだったっけ。寝かしつけている間に自分もうつらうつらしてくる。
淀んだ水のような臭いがした。
目が覚めると、佐奈は布団からいなくなっていた。
布団の上で伸びをしてからゆっくりと起き上がる。鍵を開けたりはできないようになっているので、出て行く心配はない。
手が届くところに危ないものもない。
ここらへんは初孫のときにすべて学習済みだ。
雨でも降ったのか、なんとなく湿った水の臭いがした。
和室からは話し声とくすくすという笑い声、ぺちゃぺちゃとしか聞こえないささやき声が聞こえる。
たたみが焼けないようにと極力光が入り込まないようにつくってある和室は普段から薄暗い。
その中で佐奈は電気もつけず1人で壁に向かって座っていた。ぺちゃぺちゃとした音は引き戸をあけると同時に聞こえなくなっていた。
電気をつけると佐奈のひそひそとした声もとまる。
「さーちゃん! 誰とお話してるの?」
語気が荒くなったのは、私が年甲斐もなく怖がってしまったからだろう。彼女がこのような行動を取るのはわかっていることなのに。
佐奈が振り返る。ありがたいことに振り返ったのは佐奈だった。
「おともだちだよ」
もちろん、その場には佐奈しかいない。
とりあえず和室を出たかったので、私はおやつで彼女を釣ることにした。
「さーちゃん、おやつ、一緒に食べよっか。アイスクリームとチョコシロップあるよ」
佐奈が飛び跳ねて喜ぶ。
彼女の手を取ると、和室から出る。
佐奈が壁の方を振り返って手をふった。
「ばいばーい」
佐奈の声に応答するようなぺちゃぺちゃとした話し声が聞こえたような気がした。
気のせいだ。気のせいに違いない。
バニラアイスの上でチョコシロップの容器をかたむけている佐奈にたずねる。
「さーちゃんは、スイミング嫌い? 夏に流れるプール一緒にいかない?」
チョコシロップの筋が太くなる。
「んー、おともだちとあそんでるほうがたのしいんだもの」
「でも、幼稚園休んじゃったらおともだち、心配するよ?」
「んーんー。そのおともだちじゃないもん。こっちのおともだちのほうがたのしいんだもの」
「こっちのおともだち」については、さつきから聞いていた。
最近、自分の家でもよく1人で話していることがあるのだそうだ。
夕方、さつきが美奈を連れてきた。
濡れた長い髪をタオルに包んではしゃぐ美奈と姉にまとわりついている佐奈にココアをいれてやる。
「さなは2つほしいの」
「『おともだち』のぶん? おともだちはココアいらないってよ。さーちゃんが2つ飲んだら虫歯になってキーンだよ」
さつきの言葉に佐奈は「やだー」とココアのカップを持って逃げいく。
大人2人にはコーヒーを淹れる。
お湯を注ぐと粉がぽこりとふくらむ。
細かな泡とともに立ち上ってくる香りが孫の面倒で張っていた気持ちを和らげる。
いくらかわいい孫とはいえ、やはりずっと2人きりは疲れるようだ。
「イマジナリーフレンド、だっけ? あんたもぬいぐるみに話しかけていたことがあったけどねぇ。壁に向かってはちょっとびっくりよ」
さつきは冗談交じりで「変なものが見えていたらどうしよう」とか言う。
「やめてよ。私、怖いのだめなんだから」
先程もそれでたいそう怖い思いをしたことは伝えない。笑われるのは嫌だ。
「そのうち消えるって、おにいちゃん言ってたよね」
「おにいちゃん」は長男の隆で、勉強のできた彼は地方の大学で心理学の講師をしている。
先日出張ついでに顔を出した兄にさつきは「おともだち」について相談をしていた。
自分はネズミ飼育しているだけで臨床は知らない。素人に毛が生えたようなものだ。しかし、佐奈の行動は別に驚くものではない。それが隆の回答だった。
「佐奈、なんか変な臭いしない」
さつきが鼻をならす。
「今日はずっと家にいたわよ。さーちゃん、おばあちゃんのとこにおいで」
かけよってきた佐奈を抱きかかえる。
甘酸っぱい匂いとココアの香りしかしなかった。
「気のせいよ」
「佐奈じゃなかったら、どっか排水がつまってるのかな。それとも……やっぱり気のせいかも」
結局、孫たちと娘は夕飯を食べ、風呂を使ってから帰っていった。
台所も風呂もとくに詰まりはないようだった。
石鹸の良い匂いを身にまとった孫たちをチャイルドシートに乗せる。
「ばいばーい」
佐奈が手をふったあとに不思議そうな顔をする。
「いっしょにかえろうよー」
ぐずっているみたいだった。
「おばあちゃんのお家はここだからね。みーちゃんもさーちゃんもいつでも遊びにおいで」
美奈と佐奈の顔を優しく撫でて送り出す。
翌朝、私は佐奈の声で目を覚ました。
「おばあちゃん、あさだよぉー」
くすくすと笑いながら朝の訪れを告げる孫の声、隣で寝ている夫は目を覚まさない。
昔からこの人はこうだ。
私は苦笑するとアラームをとめた。
それにしてもいつセットしたのかしら?
◆◆◆
1週間が過ぎた。
佐奈の登園拒否は突然治ったようだった。
あれほど嫌がっていた習い事も再開したくなったようで、とりあえずは姉についていくようになったそうだ。
「あれほど嫌がっていたのにねぇ」
電話ごしにさつきに言う。
「そういえばね、あの独り言もなくなったのよぉ。そう、『おともだち』の。そしたら急に幼稚園行きたいって言いだして」
「お兄ちゃんの言ってたとおりだったわねぇ。でも、さーちゃん、しばらく来ないのねぇ。お菓子とアイスたくさん買ってきたのに」
「ママ、寂しくなっちゃった?」
「だいじょうぶだよー。おともだちがついているからー」
スピーカーフォンにしていたのだろう。
佐奈が会話に割り込んでくる。
「そうなのー。じゃあ、おばあちゃんは『おともだち』とお菓子食べながら、さーちゃん待ってるからね。たまには遊びにおいで」
「うんっ!」
そろそろ美奈がプールから上がってくるというので電話を切った。
プールという単語に反応したのだろうか。
湿った水の臭いが鼻先をよぎった気がした。
突然スマートフォンから佐奈の声が聞こえた。
またボイスメッセージだ。
あの子はどうやって操作したのだろうか。
「おばあちゃん、おともだちがあそぼってー」
続いてキャーキャーとはしゃぐ佐奈の声。
キャーキャーという声にまじって次第に別の声がきこえてくる。
ぺちゃぺちゃぺちゃぺちゃぺちゃぺちゃぺちゃ……。
言葉ではない異様なささやき声。
スマートフォンを放り投げた。
ぺちゃぺちゃぺちゃぺちゃぺちゃぺちゃぺちゃ。
ささやき声はとまらない。
湿った水の臭いにつつまれながら、私は玄関へと走る。
ぺちゃぺちゃぺちゃぺちゃぺちゃぺちゃぺちゃ。
ささやき声が次第に大きくなってくる。
ぬめっとしたものに足首をつかまれる。
私は自分以外誰も居ないはずの家で絶叫する。
ぺちゃぺちゃぺちゃぺちゃぺちゃぺちゃぺちゃ。
もはやささやき声ではなくなったものだけが私の絶叫に答える。
◆◆◆
まさか自分がこうしているとは思わなかった。
がらんとした自宅に戻ってくる。
子どもたちと孫たちも今日は泊まってくれるそうだ。
美奈は泣きはらしているが、佐奈はまだ事態がよく理解できていないようだ。
「ねーねーどうしたのー?」
無邪気に娘に問いかけている。
目を赤くした顔で説明をするさつきに対して、佐奈はきょとんとした顔のままだった。
そのあとに佐奈は無邪気に笑うと、私の膝の上に飛び乗った。
「だいじょうぶだよっ。おばあちゃんはね、いま、おともだちといるんだよっ」
どこからか湿った水の臭いがする。
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