Ep.3『Crime』



目を閉じそっと記憶を遡れば、いつだって僕はあの部屋の窓から外の景色をぼんやりと眺めている。


タッタッタ。と階段を急ぎ足で駆け上る音。


その歩幅で階段を上る人物が使用人のアンリだと言う事がすぐに分かる。


トン。トン。


二回のノックまでいつも通りだ。


「アドルフ坊っちゃま。いらっしゃいますか?」


「ここにいるよアンリ。」


「ローズお嬢様が遊びにお越しですよ。」


またローズか。


ジュニアスクールが夏休みに入った途端、それをいい事に毎日の様に遊びに来るなぁ。


「宿題、今日の分終わったからあげていいよ。」


「はい。それでは少々お待ちを。お菓子とお茶をご用意致しますね。」


何もない、平穏な日常の風景。


あの頃の僕には当たり前だった、平凡な日々の一欠片。


…心地がいい。


ずっとこの記憶の中に留まっていたい。


 

「家族ごっこをしましょう。」


ローズが屈託の無い可愛らしい笑顔を向けながらそう提案する。


「私がお嫁さんで、アドルフが旦那さん。フロリーは私たちの子供ね。」


配役はいつもこうだった。


ローズが僕のお嫁さん。


僕の弟フロリーは、いつだって僕たちの子供の役をあてがわれ、その度に、えぇー。と不満そうな表情をする。

 

 

「起きて、アドルフ!旦那さんは早く起きて、お嫁さんと子供の為にお仕事に行かなくてはならないのよ?」


「…いやだ。僕は働きたくない。」


「もう!そんな事じゃ困ります!」


「今日は体調が悪いから、働く事が出来ないんだよう。」


僕はいつもの調子で、この家族ごっこを早々に終わらせようと抵抗した。


ふと、ローズが横になる僕の顔を何処か不思議そうに覗き込む。


「…どうしてアドルフはいつも旦那さんの役なのにお仕事に行かないの?ずっと体調が悪かったら家族ごっこじゃなくてお医者さんごっこになっちゃうじゃない。」


弟のフロリーは、学校に行く。という子供の役回りを演じていている為この場にはいなかった。


僕の顔を見つめる可愛らしいローズの表情に、心臓が高鳴る。


「…だって、父さんも母さんも、僕が病気の時はすごく優しくしてくれるんだ。二人とも仕事が忙しくて、月に一回しか帰って来れないのに、アンリから僕が病気だって連絡が行くと、飛んで帰って来て看病してくれるんだよ?家族が一緒にいれるなら、僕はずっと病気でいいって思うんだ。」


そんな僕の言葉を聞いて、ローズは一瞬何かを考える様な仕草をすると、すぐににっこり微笑んでみせた。


「じゃあ、代わりに私がずっとアドルフの側に居てあげる。だから、ね?」



彼女がそう言った後の事を、僕は今でも思い出せない。


ローズにそう言われて、僕は喜んだのだろうか?


思い出そうとする度に、記憶の洪水が僕を浚う。


次の瞬間、記憶の中の僕は中途半端に大人になっていて、逃げ惑う人々の群れの中、ただ一人佇んでいるのだ。



15年前。


…シスタニア内戦。


独裁的なシスタニア王政に、反旗を翻した反乱軍『赤い飛行船(レッド・ツェッペリン)』との間で起きた内戦下。


もはや泥沼化していた戦乱で、僕が弟のフロリーや使用人のアンリ、父と母、時にローズと共に幼少期を過ごしたあの屋敷は、戦火に呑まれ燃え落ちてしまった。


「アドルフ。私が居ない間、お前がこの家の当主だ。しっかり、フロリーやアンリ、そしてローズを守れ。」


「…はい。」


胸の中で渦巻く感情とは裏腹に、僕は必要以上に勇ましく、そう返事をしていた。


敬愛する父と母から離れ、私は成人間近のフロリーと老いた使用人のアンリを守るべく家に残った。


その頃にはもう大学で、幼い頃からの夢であった物理学の講師をしていたが、軍の拠点がわりにされてしまったキャンパス内では、満足に教鞭を振るう事もできない。


僕とフロリー、そしてローズの三人は、お互いを励まし合い、肩を寄せ合いながらそんな日々を耐え抜いた。


すぐ側で銃撃戦が行われ、見知った隣人が巻き添えになることもあった。


配給が満足に受けられず、しばらく水だけで過ごしたことも。


しかし、そんな我慢の日々が報われたのか、やがて反乱軍が国軍に勝利すると、内戦は終結。


シスタニアは独裁的な王政国家から民主主義の共和国に変わる。


後に言うシスタニア革命である。


我が祖国シスタニアは、全ての国民の自由と尊厳を守る新たな国に生まれ変わったのだ。



「屋敷は燃えてしまったが、家族が全員生きて再会出来た事。礼を言うぞ。お前が家を守ったんだアドルフ。」


二年ぶりに突然父がそう言いながら母と共に家に生きて戻ってきた時には、家族全員で抱き合い涙したものだ。


シスタニア人は、祖先を敬い、家を大切にする民族。


僕にとっても、戦乱を乗り越えての再会はとても言葉では言い表せない喜びがあった。


父も母も軍属。


戦争が起きれば、生きて戻れるという保証は無いのだから。


父は、元々国軍の将校だった。


しかし、この国の行く末や、僕たち家族を思い、彼は反乱軍に味方することで、未来を生き残ったのだ。


 

「…アドルフ。」


優しい声で、母が僕を呼んだ。


「…ローズの所に行っておやりなさい。」


突然の母の言葉に、僕は現実を突きつけられる様な思いがしたのを覚えている。


嫌な予感がしていた。


幼なじみであるローズの両親も、軍属だったからだ。



「ローズ?」


すぐ近所にある彼女の家に行くと、ローズは大きなソファに顔を伏して一人で静かに泣いていた。


「内戦は終わった。戦争はもう終わったんだ。」


僕のかけた言葉に、ローズは泣き腫らして赤くなった瞳を真っ直ぐこちらに向ける。


「…お父さんとお母さん、死んじゃった。」


嫌な予感は的中していた。


彼女の両親とももちろん、昔からの付き合いである。


戦争の悲しさを改めて知るようだった。


国が生まれ変わり、沢山の人々の輝かしい未来が約束されると同時に、まるでその代償を負うかの様に何かを失った人がいるのだと。


僕は幼かった頃のように泣きじゃくる彼女をそっと抱きしめた。


「なら、今度は僕が君の側にずっと居る。そしてもう、君に何も失わせはしない。」


そう言った僕の胸の中で、彼女は声を上げて泣いた。


共に生きよう。


そんな気持ちで僕の心は満たされていく。


やがて、僕たち家族はローズを迎え、共に新しい家に越し、思い思いに再び訪れた平穏な日常に浸透して行った。


前のような大きな庭も部屋も無いけれど、好きな仕事や、革命後の復興に精を出し、ありふれた日常を過ごせる平凡な時間がとても幸せだった。



「父さん。母さん。アンリ。今日は三人に紹介したい人が居るんだ。」


内戦終結から三年後の夏。


いつもと変わらない夕食の席で、僕は父と母と使用人のアンリにそう告げる。


三人とも、僕が何を言い出すのか分かっている様ではあったが、母などアンリと共に、誰かしら。とわざとらしくおどけて見せていた。


入っておいで。と僕に促され、ダイニングに足を踏み入れて来たのは、清楚なドレスに身を包んだローズ。


父と母は彼女の姿を見てにこやかに微笑んだ。


両親がまるで、本当の娘を愛しむかの様な温かい眼差しで、彼女を見つめていたのを覚えている。


いや、僕の父と母からすれば、もう彼女は自分達の本当の娘の様な存在だったのだろう。


弟のフロリーは警察官となり、首都デカルタの警察本部に配属されていた為この場には居なかったが、先に電話では伝えておいてある。


『兄さん本当におめでとう。自分のことのように嬉しいよ。』


フロリーはそう言って、涙声で僕を祝福してくれた。


「…僕たちは正式に結婚します。今までも家族の様に一緒だったけど、これから僕たちは本当の家族になる。」


内戦で両親を失い、失意の中にいたローズ。


しかし、お互いに交わしたずっと一緒にいるという約束が、僕たちを永遠に結んでくれたのだ。


ローズのはにかんだ様な微笑み。


そんな彼女の横顔に、僕は心を奪われていた。


争いの無い平和な日常。


皆で過ごせる日々。


僕の短い人生の中で、一番と言えるぐらい幸せだったあの頃の記憶。


しかし、洪水はまたも僕を容赦なく深い闇へと飲み込んで行く。


深い深い闇に…ー。



「私ね、ずっと諦められない夢があるの。」


僕たちお気に入りの星空がよく見えるバルコニーで、不意にローズが僕にそう告げた。


僕はそれを知っていた。


しかし、それが茨の道だと知っていた僕は、ずっと見て見ぬ振りをしていたのだ。


その時の僕はさぞ不安そうな表情をしていただろう。


彼女はその後、僕にはっきり言った。


軍医になる。と。


僕たちの間にまだ子供は居なかったが、家庭に入った今わざわざそんな危険な仕事をする事は無いんじゃないか?


戦争など、またいつ始まるかもわからないのだから。


僕はローズをそう諭した。


だが、彼女も同じく僕がどう思うかをわかっていた筈だ。


だから、彼女がその話を切り出した時点で、既に答えは出ていたのかもしれない。


僕の母も軍医だ。


両親は、内戦が終わってからは仕事が終わると毎日家に帰ってくる様にはなっていた。


しかし、あの悲惨な内戦の時の事を思い返せば、その職業はいつでも死と隣り合わせであると言う事を僕は忘れていない。


「私のお父さんとお母さんも、おじさま、おばさまと同じ軍人だった。二人とも戦火の中で深手を負って、発見された時にはもう…。あの時、二人に駆けつけられる軍医が一人でも多く居たなら、二人は助かったかもしれない。私にも、今からでも救える命があるかもしれない。」


だから、私は軍医になるのだ。と真っ直ぐな瞳で彼女は僕を見つめてそう言った。


その時の僕達の選択が間違っていたのか正しかったのか、一生を掛けて悩む事になるとは、その時の僕には知る由もなかった。


そして…。


それから三年後。


僕達の人生を壊したあの日はやって来た。



「ー?!ま、まさか。そ、そんな。奥様と旦那さまが…?嘘、でしょう?」


帰宅後自室のデスクに向かって明日の講義の準備をしていた僕の耳に飛び込んできたアンリの狼狽した声。


僕は手にしていた書類をゆっくりデスクの上に置き、そっと耳をそばだてる。


「て、帝国が!?一体…一体何故…。何故なの…?」


「アンリ?」


自室を出て、受話器を手にしながら嗚咽を漏らすアンリに歩み寄ると彼女はすぐに平静を装い、慌てて顔の涙を拭う。


すぐに小声で電話の向こう側に居る人物に早口で何かを告げると受話器を置き、真っ直ぐな目で僕を見据えた。


「若様。今すぐ身支度をなさって下さい。帝国が。北のクローレンツ大帝国が突然全世界に宣戦布告し、シスタニアへの前哨攻撃を開始したそうです。既に帝都の空軍基地からガンシップや戦闘機がたくさん飛び立って、シスタニアの軍施設に空爆を仕掛けながらデカルタに向かって侵攻しています。」


また、戦争が始まるのです。


アンリの言葉の意味が、一瞬分からなかった。


「…父さんと、母さんは?どうなったんだ!?」


僕の詰問に、アンリはなんとも言えない様な表情を浮かべ、声を振るわせる。


「え、そ、それが、その。」


まさか…。


問いかけに答えないまま、アンリは膝を床に着いて大粒の涙を流しながら、子供のように泣きじゃくる。


そんな。


一体何故帝国が?


逡巡した矢先、耳をつんざくような爆音が周囲一帯に鳴り響き始めた。


僕たちの住む街セントルーセントは帝国領と運河を隔てたすぐ隣の街。


そして、ここには国境を守るための軍施設が多数ある。


一番最初に攻撃を受けるとしたらこの街なのだ。


「ローズに…ローズに連絡を!アンリは、フロリーに連絡を取るんだっ!」


僕がそう叫んだ刹那。


激しい爆音と衝撃に、僕の体は大きく吹き飛ばされた。


…あぁローズ。


目の前が…真っ暗になる。


薄れゆく意識の中、微睡んでいく景色の中に父と母の幻を見た気がした。



次に目が覚めた時、僕は崩れた瓦礫の下敷きになっていた。


帝国軍は、シスタニアの軍施設と思われる場所を片っ端から空襲しながら首都へ向かっているのだとアンリが言っていた。


僕たちの家のすぐ裏には軍の駐屯基地がある。


幸い、軍医になったローズはその基地の勤務ではなかったが、おそらく僕たちはそこへの空爆に巻き込まれてしまったようだ。


…だが大丈夫。


僕は生きている。


そして、彼女も絶対に生きている。


そう信じ、自分の体にのしかかる瓦礫を退け、力を振り絞って立ち上がる。


何かに強く体を打ちつけたようだったが、幸い擦り傷程度で済んだようだ。


しかし、瓦礫の隙間から抜け出して後ろを振り返ると、僕達の家は既に粉々に砕け散り、所々から火の手をあげていた。


アンリは?


アンリはどこに?


彼女を探して、崩れた我が家の周りを足を引きずりながら歩く。


一番大きな瓦礫の隙間。


そこから、アンリのものと思われる痩せた手が覗いていた。


「アンリ…!」


僕はその手に駆け寄ると、その細い手を掴み瓦礫から引き出そうとした。


しかし、その手は異常に軽かったのである。


それはそうだ。


僕が掴んだ彼女のその手首から先には何も無かったのだから。


幼少の頃から僕たちを、もう一人の母親として育ててくれた優しい使用人。


彼女は、僕の目の前でバラバラになってしまった。


「…何故、なんだッ!!」


恐ろしさと絶望に、僕は周りも見ずに走り出す。


色々な事が一気に脳内になだれ込み、もうどうしたらいいのかすら分からなくなっていた。


父さんと、母さんはここから少し離れた国境すぐの基地にいた。


両親は死んだのだろうか?


アンリまでも?


帝国が、あの世界最大の軍事力を持ってシスタニアに攻撃を?


ローズ。今君は何処に?頼むから無事で居てくれ。


携帯端末を持っているが、先程の空爆による衝撃で壊れてしまったらしい。


画面は映るが、最初の画面でフリーズしたままになっており、こちらから電話を掛けることが出来ない。


「クソっ!」


似合わない悪態を吐きながら、僕は闇雲に街を走る。


既に街の至る所で火の手が上がり、美しい星が見える筈の田舎街の空は、時間と共に炎と煙で赤黒く染まっていった。


徐々に僕の足は力を失い、やがてよろりと支えを失った人形のように地面に倒れ込む。


本当に一瞬だ。


一瞬で全てが奪われた。


アンリからはっきりした答えを聞くことは出来なかったが、おそらく父さんと母さんも生きてはいないのだろう。


傷だらけ、泥だらけになりながら、ふと気づくと胸のポケットに入れていた携帯端末が震えている。


壊れたと思っていたが、着信は出来るらしい。


ローズ?!


僕は素早く起き上がり電話を取り出すと、発信者の名前も見ずに電話に出た。


「ローズか!?」


『…兄さん!無事だったか…!良かった。』


声の主はローズではなく、弟のフロリーだった。


「フロリー!生きていてくれたか!」


絶望の谷底に落ちる前に、間一髪のところで一命を取り止めたかの様な光明だった。


『兄さん。今通信網がパンクしていて、なかなかつながらない状況になっているんだが、警察や軍は民間とは別回線を使用しているから繋がるんだ。…よく聞いてくれ。もうこの国はダメだよ。ありとあらゆる軍施設が帝国の空爆により破壊され、数時間後には歩兵部隊による殲滅作戦が開始される。帝国兵が本土に上がってくんだ。全ては見せしめ。僕達シスタニアは、世界の国々への見せしめにされる。母さんと父さんは空爆に巻き込まれて国境の軍基地で…。僕も知ってる二人の同僚がわざわざ連絡をくれた。』


「…そうか…。二人は最後まで軍人だったんだな。」


あの過酷な内戦を生き残った父と母が、いとも簡単に。


僕の預かり知らぬところで命を落としたのか。


『だが兄さん、聞いてくれ。ローズは生きてるんだ。さっきローズのいるセントルーセントの駐屯基地と連絡が取れた。どうやら奇跡的に空爆を免れたらしい。あそこは森の中にあるから、空からではわからなかったんだろう。彼女はそこに運び込まれてくる、怪我人の手当てを続けているはずだ。』


僕は深いため息を吐いた。


あまり時間が残されていないのだろう、フロリーは一気に今の状況を僕に流し込んでくる。


生きていると信じていた。


彼の連絡を受け、僕はこの街道の先の駐屯基地に向かうことを改めて決意する。


「わかった。ありがとうフロリー。君は?君は大丈夫なのか?」


僕の問いかけに、フロリーはしばらく沈黙していた。


彼がいるのは一番の激戦区になるであろう、シスタニアの首都デカルタだ。


フロリーは軍人ではなく警察官ではあったが、だからと言って決して安心のできる状況ではないだろう。


『…既に首都は火の海だ。僕は今、普段勤務している警察本部に籠城している。民間人や怪我人を保護しているんだ。侵入されないようバリケードを張っているが、既に首都では上空から降下した帝国の歩兵が首都の地上制圧作戦を開始している。攻め込まれれば長くは保たない。もう奴らはすぐそばまで来ている。』


「バカなっ!逃げるんだ。もう血の繋がった家族は君しかいない!」


僕の言葉に、フロリーは少しだけ言葉を詰まらせていた。


『………ありがとう。だがそれは出来ない。僕は警察官だ。さすがの帝国でも民間人に手をかけはしないだろうが、彼らが戦火に巻き込まれる可能性がある以上放っては置けな…ー』


その瞬間、電話の向こう側から大きな爆音が聞こえると共に、通話が強制的に切断された。


「フロリーッ…!返事をしてくれ!フロリィッッッッ!」


訪れる沈黙。


やがて、そこかしこで銃声と怒号が響き始めた頃、僕は我に返っているのかも定かではない、まるで幽鬼の様な足取りで燃え盛る街道を歩き始めた。


父さん。母さん。フロリー。アンリ。


そして…。


「…ローズ。今迎えに行く。」


街道を逃げ惑う人々の波をかいくぐり、僕は失意の中ローズの居るであろう駐屯基地にようやくたどり着いた。


恨まれようと、抵抗されようと、ローズだけは生きて連れ戻すつもりだった。


既に歩兵部隊が上陸し、南下し始めているのだろう。


徐々に歩兵のものと思われる足音と銃声が多くなってきている。


ものの数時間の出来事なのだ。


早すぎる。


奴らは虎視眈々と世界への、シスタニアへの攻撃の準備を進めていたに違いない。


もうフロリーと電話をしたのが、ついさっきなのかずいぶん前なのかすらわからない。


ローズは生きている。


ただそれだけを考えていたから。


フロリーが最後に僕に与えてくれた希望を胸に、僕は駐屯基地の門を静かに潜った。


そしてすぐ目に飛び込んできた惨状に、僕は目を疑う。


そこかしこに兵士の死体が転がり、壁には真新しい血が飛び散っている。


内蔵がえぐり出され、そのまま外に引きずり出された様な死体もあった。


胃の内容物が逆流しかけ、僕は口元を塞ぐ。


無惨に殺された死者の群れが、ただ累々と横たわっている空間。


フロリーの言葉通り、確かに空爆を受けた様子はない。


しかし、その光景はそれよりも酷い状況だったと言える。


「…ローズ…。何処なんだ?」


彼女を探し、建物の裏へ廻る僕。


その時だった。


「ー…アドルフ!?」


動くものの居ない死者達の空間で、僕の名前を呼ぶ声がする。


慣れ親しんだ、愛する人の声。


「ローズ!!」


僕はローズを見つけた。


彼女は生きていた。


度重なる絶望の中で、見まごうことのない本物の光をようやく見つけた様な気がした。


せめて、ローズだけでも。


何も出来ないまま、突如として僕の前から消えてしまった家族。


だけど、せめて彼女だけでも救う事ができたなら。


すぐ様僕は彼女に駆け寄ろうとする。


しかし、ローズの顔に張り付いた表情は僕との再会を喜ぶあの可愛らしい笑顔ではなかった。


彼女のその様子に気がついた時には、もう全てが遅かったのだ。


「来ちゃダメっ!!」


ローズの叫びに僕はピタリと足を止めた。


彼女が軍服の上から羽織っている白衣がみるみる赤く染まって行く。


「え…?」


何が起きたのかを僕の脳が判断する前に、彼女はまるで膝から下が突然無くなったかの様に地面に倒れ伏した。


「なん…なんだ…いったい…。」


目の前の光景に、目を覆いたくなる。


ローズが立っていたその後ろに、ソレが。


『あの少女』が月明かりに照らされ不気味に立っていた。


今でも忘れることができない。


黒いフードを目深に被り、顔を全て確認することは出来なかったが、黒い髪が返り血で頬に張り付いているのが見える。


血を浴びても尚、透き通るような白く美しい肌。


まだあどけなさの残る少女だった。


その手に握られているのは、大きなサバイバルナイフ。


まるで作り物の様に表情は無い。


「……アドルフ。お願い…逃げて…。」


苦しそうに目に涙を浮かべながら、地に伏したローズが僕に訴える。


すると、少女は無表情のまま手にした鋭利なナイフを彼女の下腹部に躊躇無く突き立てた。


この時、彼女は妊娠していた。


まだ、僕とローズしか知らなかった。


その、新しい命が宿る神聖な子宮を、理不尽な狂気が貫いたのだ。


身重のまま軍医として働きに出る彼女を止める事ができず、結果この場所に送り込んでしまったのは僕だ。


全てわかった上で、彼女に軍医への道を歩むことを許してしまったのも僕。


全ての後悔は一瞬でやってきた。


ナイフの抜き放たれたローズの腹部から、鮮血が噴き出し、フードの少女の白い脚を赤く染める。


「…やめてくれ!…。」


後悔と絶望に目を見開き、ただ目の前の惨状を見ているだけしか出来ない僕の言葉に、少女はスッとその整った顔を上げた。


「…アド…ルフ。…私…。あの時…ー」


口から血を流しながらも、ローズが僕に訴える。


助けたい。


しかし、まるで蛇に睨まれたカエルの様に僕の体は動かなくなってしまっていた。


「…側に…居てくれるって…言って…くれて…嬉し…かった…。」


ローズが苦しそう言い切るのとほぼ同時に、少女は再びナイフを彼女の肩に突き刺した。


できる限りの苦痛を与える様に、突き立てられたナイフの切先をグリグリと捻りながら更に体の奥に食い込ませていく。


あぁぁぁぁっ!と、静寂を切り裂く様な叫び声が彼女の口から溢れる。


やめろ。


「…アドルフ。こんな…私を…ー」


やめてくれ。


喋る度に無慈悲に振り降ろされるナイフ。


その都度舞う大量の血しぶき。


やめろ。


やめろ、やめろ。


やめろ、やめろ、やめてくれ!


「家族に…迎えてくれて…ありがとう。」


彼女は、泣きながら微笑んでいた。


いつもの微笑みで。


僕の愛したその笑みで。


だがしかし、その瞳には既に僕の姿は映っていなかっただろう。


何度も何度も、少女はローズをナイフで切り刻んだ。


それを目の前で見ながらも、僕の体は石のように固まって動かない。


「約束…守れなくて…ごめん…ね。」


細い、まるで蚊の鳴くような声だった。


果たしてそれは、目の前のローズが言った言葉だったのだろうか?


もしかすると、僕の耳が捉えた、ささやかな彼女の声の幻だったのかもしれない。


『私がずっとアドルフの側に居てあげる。』


僕の脳内に、彼女の幼い頃の言葉がまるで呪いの様にリフレインする。


何度も何度も。


何度も何度も何度も。


「…どうして…こんな…。」


僕の口から溢れでた言葉が合図だったかの様に、ローズを理不尽に切り刻んでいたナイフは、最後に彼女ののど元を何の抵抗も無く走った。


喉笛から大量の血を吹き出しながら、ローズは、私の愛した人は、永遠に触れることのできない存在になってしまったのだ。


「…なぜ…こんな…ひどすぎる…じゃないか…。」


震えた声で、ただ呆然とローズの亡骸を見つめる僕の口から溢れ出た言葉。


その言葉に、黒いフードの少女はこちらをちらりと見てから、被ったフードを下ろし、袖で顔を拭った。


暗く沈んだような瞳が僕を見据え、僕の体を恐怖が支配する。


あの顔を今まで一度だって忘れたことはない。


その恐るべき出立ちに似合わない可愛らしい声が言う。


「…これは命令。…ごめんなさい。」


「…命…令?」


これが?


もはや戦争ですらない。


こんなの、唯の虐殺じゃないか。


「…そう。シスタニアという国家そのものが帝国の決定に抵抗を続けている限り、軍服を身にまとう全ての人間を殺し続けろって。…あなた達が0になるまで、私たちは100の力で攻撃を続ける。」


そう囁く少女の口元には微かに笑みさえ見えた。


「そんな…。アンリはどうなる!?空爆を受けて家もろとも…!そしてローズは!?…彼女は只の軍医だぞ?」


少女は虚空を見上げながら少しだけ首を傾げ、僕の詰問に対しての答えを思案すると、再びその生気のない瞳で崩れ落ちている僕を冷ややかに見下ろした。


「…関係…無い。軍医が負傷した兵士を助ければ、またその兵士は戦線に復帰する。だから軍医だってカウンセラーだって関係無い。あなたの家は…私じゃない。だからそれもわたしには関係無い。」


「ふ、ふざけるな!」


言葉ではそう言うが、実際僕は力つきた様に自分の額を地面に擦り付けながら泣くことしか出来なかった。


それは、少女から見たら自分の無力を詫びている様な無様な姿に見えていたかもしれない。


「だったら僕も殺せ!!誰一人として助けられなかった僕を殺してくれ!!頼むっ!殺せ!殺してくれッ!!!!」


少女は少し間を置いてから静かに僕に言った。


「ダメ。それは命令に無い。民間人には手を出すな。それが命令。」


彼女は最後にそう言うと、全ての興味を失ったかの様にローズの亡骸をその場に残し、地面に這いつくばる僕のすぐ横を通り過ぎて行った。


そうして帝国は、僕から全てを奪ったのだ。


いや、それだけじゃない。


僕の無力さを曝け出した。


僕はあの少女を、そしてそんな死神の様な恐ろしい存在を創り出した帝国を呪った。


心の底から憎悪した。


そうしていないと、自分を保てなかったから。


こうして、僕は復讐の為だけに生きる、唯の抜け殻になったのだ。



★1

帝都アルトリア南区ハイウェイ

PM 13:15


アドルフの話が終わる頃には、俺たちは既に委員会庁舎へ向かう途上のハイウェイを走行していた。


車内の空気は重く沈んでいる。


アドルフは眼鏡の位置を人差し指で戻すと、窓の外を流れて行く帝都の街並をぼうっと見つめた。


「…正直、そこからの記憶は曖昧、と言うより、完全に抜け落ちてしまってるんです。冷静になった時にはもう、既に塀の中でした。」


死刑囚の言葉に、俺達は沈黙した。


脳内に広がっていた、アドルフの語る悲惨な戦地の情景が一瞬にして消え去り、自分達が護送中の車内に居た事を思い出す。


「…シスタニア侵攻作戦…帝国軍特務執行員…。」


突如先輩が沈黙を破って、聞き慣れない名を呟く。


「?…なんだ?それ?聞いた事無いな。」


ミラー越しに見えるアドルフの表情も、俺と同じ様に知らないと言う様な感想を携えている。


「…ロック。あなたはシスタニア侵攻作戦に参加していないのよね?…それなら、知らなくても無理は無い。」


先輩は少し間を置いて、ゆっくり話を始めた。


「シスタニア侵攻作戦帝国軍特務執行員。あの戦いで実験的に配置された彼等は、帝国軍の小隊に各一名か二名程ランダムで選出された。所属、階級関係なく。戦場において、とある『特殊任務』を遂行する為に。」


「特殊任務…?…まさか、あれがそうだと言うのですか?」


アドルフは先輩の言葉を聞き、額に皺を寄せた。


驚愕を禁じ得ないと言った表情だ。


それにランダムだって?


誰でもいいと言う事なのか…?


俺とアドルフの疑問を晴らすべく、先輩は説明を続ける。


「そう。あなたの見たその光景こそ、彼等が与えられた特務。執行員に任命された者は、戦争が早く終わる様、軍服を着る者、もしくは軍人と判断された人間を自らの判断で皆殺しにして行った。それも、出来るだけ残虐な方法で。見せつけるかの様に。」


俺も、そしてアドルフも言葉を失った。


帝国と戦う意思のある者に対しての見せしめ。


敵軍の戦意喪失を目的とした?


同じ民族が残虐に殺される様を見て、生き残った者達が二度と帝国に対して戦争行動を起こさぬ様に、脳裏にその光景を深く刻み込むための精神攻撃。


そんな所なのだろうか?


「そんな事が…許されるのですか?あなた方帝国軍の戦場では。」


後部座席、先輩の隣に座る死刑囚は深く俯き、絞り出す様にそう言った。


その悲痛な質問に、先輩は言葉を選んでいるかのように一度黙り込んでから、再びその口を重々しく開いた。


「戦争を出来るだけ早く終わらせるためには、必要だったのかもしれないわね。敵が徹底抗戦の構えを示す限り、私達は戦い続けなくてはならない。長引けば長引くほど、敵味方関係なく戦地に関わる全ての人間に多くの負担がかかる。敵が戦意を喪失し、大人しく降ってくれればそれで戦争は終わる。当時の軍上層部はそう考えていたんでしょう。確かに、その為に残虐に人を殺させようなんて狂っているとは思うわ。」


それにしても。と先輩は続けた。


「あなたが出会ったその少女は…。もう既に『壊れていた』ようね。」


「壊れて…?それはどういう?」


ハンドルを握ったまま俺は先輩に問いかけた。


先輩は俯くと、辛そうな表情を隠さずにその問いに答える。


「当たり前よ。来る日も来る日も人を殺し続ける生活。しかも出来るだけ残虐な方法で。普通の兵士はいくらナノマシンによる感情の制御があっても正気を保てない。…殺しの方法は執行員に選ばれた兵士に書簡で伝えられる。」


「まるで…なにかの罰ゲームみたいじゃないか。」


俺が何気なく言ったその言葉は、一体正しい表現だっただろうか?


選ばれた人間は任務を遂行しなくてはならない。


それが、帝国軍のルールだ。


例え、精神が壊れようとも。


「…敵軍の残党を一箇所に集め、彼等の見ている目の前で、一人ずつ、鉄パイプで原型が留まらなくなる程殴打した老兵。敵兵士自身に、生きている仲間の耳を削ぎ落とさせ、それを自分の仲間たちが見ている前で食わせた新兵。様々な方法でシスタニアの軍人は殺され、あらゆる場所で『彼ら』に見せしめにされた。憎しみや怒りが完全に消し飛ぶ程の恐怖を与え、帝国にそれ以上抗う気をなくさせる為に。だけど、そうした特務執行員達もやがて自分を保てなくなり、彼らは戦争が終わった後も自我が保てないまま亡霊の様に生き続けることとなる。」


ふとアドルフが先輩の横顔を見た。


静かに、その緊迫した様な青ざめた顔を見据えている。


「…あなたはシスタニア侵攻作戦に参加したんですね?あれを。そんな彼女の様な存在を見て、どう思ったのですか?」


それは純粋な興味から来る質問とは明らかに違っていた。


何だろう。この感じ。


先輩を試すような、そんな意図を俺は感じた。


その答え次第では、というやつかもしれない。


「…さぁ。どうかしらね。私は…その…話に聞いていただけだったから。戦争を早く終わらせると言う事だけを考えたなら効率的だったのかもしれない。でも…」


先輩はそこで言葉を詰まらせた。


言い淀んでいると言ったほうがいいか?


俺とアドルフは、静かにその言葉の続きを待っていた。


「…間違いなく、彼等に『誇り』は無かった。全てを覆い隠してしまいたくなるほどに。有ったのは、只の義務感だけ。…でしょうね。」


先輩がそう言い切ると同時に、俺たちはハイウェイを抜けた。


先輩は、何かを知っているのか?


例えば、そう。


『壊れてしまった誰か』の事を。


そう思っていたのも束の間。


国防委員会の庁舎は、もう目と鼻の先にまで近づいていた。


「…今思えば、あの少女と私は似ていたのかも知れません。数々の理不尽に心が耐えきれなくなって…。」


アドルフはそう言うと、悲しそうに笑った。


そんな彼に対して、俺たちはもう何も言わなかった。


そこからは特に言葉を交わす事も無く、死刑囚を乗せた車は、現場である国防委員会庁舎に到着した。


車を専用の駐車場に止め、扉を開いてアドルフを外へ下ろす時に、エリーナ先輩は彼の目を正面から見て言った。


「…うまくは言えないんだけど…。きっと、その時の少女は、今でも苦しんでいると思う。あなたとは違う形で。…その…そう言う兵士を、私はたくさん見てきたから。」


どこか歯切れの悪い先輩の言葉に、アドルフはそっと目を閉じ、そうですか。とだけ呟いた。


俺には、先輩の言葉に込められた思いも、死刑囚の苦しみも、本当のことは何一つわからなかった。


 

★2

帝都アルトリア南区 帝国国防委員会庁舎前

PM 13:28


「よう。ロックにエリーナ。ご苦労さん。」


護送車から降り、アドルフを連れて庁舎前に設置された作戦本部へ歩み寄ると、そこにはzodiac副隊長のフリードリヒ・スタンフォードが居た。


午前中フロレイシアの聴取の際に、いきなりガンシップに襲撃されたせいだろう、顔には数カ所絆創膏が貼られている。


「兄貴!無事で何よりだぜ。ガンシップが空対地ミサイルを取調室に打ち込んだときはもうダメかと思ったよ。」


俺がそう言いうと、兄貴はただ一言、俺は死なねぇ。と言って白い歯を見せながら笑った。


笑った弾みに顔に負った傷が痛んだのか、すぐにその笑顔が歪む。


そんな光景に微笑みつつ、俺たちはお互いの拳を軽くぶつけあって挨拶を交わした。


昔からのやつだ。


フリードリヒの兄貴とは、俺がSHADEに来る前から親交がある。


俺と兄貴は軍務総省に来る前、帝国陸軍特殊部隊BELZEBZで先輩後輩の関係にあったのだ。


今のエリーナ先輩と同じような間柄だ。


兄貴は後ろに続くエリーナ先輩と、渦中の人物である死刑囚、アドルフにも同じように一瞥を送り、微笑みかけた。


「まったく。ひどい話だ。いきなり自分の居る取調室の壁が吹っ飛ぶなんて夢にも思わなかったぜ。あの銀髪に逃げられちまった事、申し訳なかった。」


兄貴は、まるで照れを隠すかのように頭を掻きながら、その後にキビキビとした動作で俺と先輩に向い謝罪のお辞儀をした。


階級や立場的には兄貴の方がもちろん上ではあったが、彼のそういう、誰に対しても律儀で真の通った性格は昔から尊敬している。


まぁ、ルノアには先輩同様ビビってるけどな。


「謝るなよ兄貴。こっちこそ、事後処理とかめんどくさいこと色々、zodiacに全部投げっぱなしにしてたからな。後の事はSHADEに任せておいてくれ。」


俺が誇らしげに自分の胸を叩いて見せると、兄貴は、あぁ。と頷く。


最後に、うまくやれよ。と俺の肩を軽く、ポン。と叩き、その場を後にした。


zodiacの副隊長と、自分のとこの副隊長と同じ様なことを言っていたのに少し笑えた。


スナイパーであるラクアとアリスは共に、上空から既に俺たちを見守っているはずだ。


先輩は浮かない顔のまま何も喋らない。


アドルフも同じだ。


「行こう。」


俺が、しっかりしないとな。


そう思いながら俺はそんな二人を促すと、バリケードで包囲された庁舎の正面玄関へ足を踏み入れた。


ロビーは整然としている。


普段は1000人程の職員が往来しており、なかなか賑やかな建物である筈だったが、爆弾騒ぎのせいで今はもぬけの殻だ。


既に必要最低限の軍関係者しか残されていない。


正面ロビー突き当たりのエレベータまで歩み寄ると、ナノマシン通信のコール音が鼓膜に響いた。


誰からの通信かが分かるよう、視覚情報として相手の名前が表示される。


…はずだった。


しかし、誰からの通信かがわからない。


奴?フロレイシアか?


「…。」


俺は無言のまま後ろの先輩を振り返る。


どうやら先輩のナノマシンにも入電しているらしい。


先輩が俺の顔を見て頷いた為、俺はその通信を受信した。


『…待っていたよ。ロック君。そしてエリーナさん。』


やはり…。


声の主は間違いなくあの銀髪の男、フロレイシアだった。


「…ご指名のアドルフを連れて来たぞ。起爆装置は庁舎の地下だな?お前もそこにいるのか?」


『あぁ。もちろんだとも。急げよ?時間がないぞ。』


相変わらず余裕綽々と言った様子が男の声から伝わって来る。


まだ何かを企んでいるのだろうか?


一体この余裕は何処から来るのだろう?


ガンシップにクライムエイジを襲撃させ、脱出を図った時のような、俺たちには想像も出来ない切り札がまだあるという事なのか?


いや、そう思って対峙するべき相手だろう。


「…あぁ。わかってる。これからエレベータに乗る。」


俺は言いながらエレベーター傍の操作パネルをプッシュした。


一階に止まっていたエレベーターはすぐに開き、俺たち三人は緊張した面持ちでそれに乗り込む。


先輩が地下の階数ボタンを押すと、エレベーターは俺たちを乗せてゆっくりと動き出した。


エレベーターが指定の階に到着する間、俺は先輩とアドルフの表情をちらりと伺った。


アドルフは強ばった表情をしていた。


無理もない。


死刑囚と言う立場の自分が、まさか帝国の作戦に参加する等とは思っても居なかっただろう。


こいつはちゃんとやってくれるのだろうか?


爆薬が爆発すれば、勿論俺たちの命はない。


車を降りてからと言うものの、先輩すら無表情のまま黙り込んでいる。


アドルフとの会話がそうさせたのだろうが、二人とも何を考えているか分からない状態だ。


…大丈夫なのか?


アドルフから聞いた悲惨な話に吹き飛んでいた不安が再びもたげて来る。


やがてエレベーターが地下に到着すると、俺達はゆっくりとそのフロアに歩み出した。


開いた扉のすぐそこには黒づくめの兵士が立っていた。


zodiacの隊員だろう。


案内係と言うわけか。


彼は扉の前まで来ると、こちらへ。これを。と言い、俺に工具箱を手渡してきた。


起爆装置解体用の道具か?


事前にアドルフに必要なものを聞いていたのかもしれない。


俺はそれを受け取り頷くと、先輩とアドルフに目配せをしてから案内された扉のノブにそっと手をかけた。


「…アドルフは合図があるまで、外に居てくれ。」


先ほどから無言の先輩の代わりに、俺は死刑囚に声を掛けた。


その呼びかけに、彼は俺の目を見ながら小さく頷く。


「待って…。」


ずっと黙っていた先輩が人差し指を唇に当て、小さな声でそう言った。


彼女の言葉に、俺は耳を攲てる。


扉の向こう側から、微かに声が聞こえるのだ。


『…あぁ。私の任務は終了した。後は君の好きにしたまえ。予定通り此処からは、私の好きにさせてもらうよ。』


フロレイシアの声だ。


誰かと無線で会話している?


『…あんたとの利害関係もこれで終わりだな。世話になった。』


「…通信の相手は誰だ…?」


小声で言いながら先輩と目を合わせるが、彼女は首を横に振った。


分かる筈も無いか…。


『…『約束は守る』とあんたは言ったな。これから起こる事は、あんたとは関係無い。後の事はあんたやA1でやってくれ。では。』


フロレイシアはそこで無線を切った様だ。


A1と言うのは何かのコードネームなのだろうか?


俺はタイミングを見計らい、目の前の扉を強く二度ノックした。


「到着した。開けるぞ。」


向こうにいるであろう人物にそう告げ、俺は慎重に扉を開けた。


そこは、だだっ広い機械室のような場所だった。


建物を稼働させる為の設備が所狭しと並んでいる。


開いた扉の正面にフロレイシアは立ち、つい数時間前に見た様な不敵な笑みでこちらに微笑みかけている。


「…待っていたよ。」


「…死刑囚アドルフ・ストラドスを連れて来た。超法規的措置ってやつだ。」


俺は真っ直ぐ目の前の男を見据えながらそう言った。


「まさか本当に連れて来てしまうとはね。まったく、帝国を恨む人間を本気で作戦に参加させるなんて正気じゃない。まあ、それしか手がないのも事実だろうが。」


フロレイシアはそう言うと、わざとらしく肩を竦めてみせた。


先輩が苛立った様にフロレイシアを睨む。


「…さぁ。彼の顔を見せろ。言っておくが、影武者などは私には通用しないぞ。」


彼の挑発を聞き流しながら俺は振り返り、扉の外側に隠れていたアドルフに入室するよう促す。


ゆっくりと、アドルフが部屋の中に歩み入る。


俯き加減だった顔を上げ、部屋の奥に居るフロレイシアへと、アドルフが視線を合わせた瞬間だった。


「…?!なっ…?!」


彼の目は見開かれ、驚愕の表情を浮かべて立ち止まる。


アドルフの狼狽する様子を見て、フロレイシアが口の端に笑みを浮かべたまま言う。


「…久しぶりだね。」


俺は目の前の男を見て動きが固まった死刑囚に歩み寄った。


「おい。どうしたんだ…?」


しかし、彼はその問いかけにも答えなかった。


先輩も何が起こっているのか分からない様子で二人の銀髪の男の顔を見比べている。


アドルフは男を凝視しながら完全に言葉を失ってしまったようだった。


フロレイシアはそんな彼を少し寂しそうに見つめ、次の言葉を待っている。


「…生きて…いたの…か。」


沈黙を裂き、アドルフがやっと絞り出した言葉に、俺は再度フロレイシアの顔を凝視した。


似ている…?…まさか…!?


「…久しぶりだね。兄さん。」



To be continued …

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