第39話 お願いだよ。嘘と言ってくれよ陽

「あの子、明日帰国するらしいべ」

 その夜、『大阪の小陽』の営業が終わった後、陽は元気なく呟いた。

「あの子って、瀬里加さんの事かい」

 陽は「そう。塩塚瀬里加」と缶ビールを投げ渡してきた。

「リザは殺されてたし、犯人も見つかったべ。これ以上ウチらが調べる事もなくなったっしょや」

 陽がプルタブを引くと、小気味の良い音を立てて缶が開いた。僕も一口ビールを飲む。風呂上りの身体にアルコールが染みた。

「瀬里加さんも日本へ帰るんだ。僕も、そろそろ考えないとな」

「何言ってるべか。帰ってどうすんだよ」

 宥めるような笑顔で、僕の前のソファーに腰掛ける陽。

「だって晴人は凛風と結婚したんだろ。嫁さん残して日本に帰るってのも、ちょっと薄情っしょや」

「結婚て言っても、冥婚だよ。実家で娘を供養できないから形式的に籍を入れるだけであって、本当に家族生活するワケじゃないし」

「ヨシオさんとも仲良くなったんだろ。アンタが帰ったら寂しがると思うけどな。しかも『倖福海老』の社長の息子になるんだぜ、さらに言ったら日桃幫のボスの甥だ。ギャングスタ―も夢じゃねえべ」

「それはちょっと、僕のガラじゃないでしょ」

 ビールをもう一口飲む。胃の中から冷たい酒気が舞い上がった。

「やっぱり僕も帰るよ。こっちに来て色々ありすぎた。亡くなった凜風さんと結婚して、その恐い爺さんがマフィアの初代ボスで、それで今日は殺人犯の死体まで見た。ホントに色々ありすぎたんだよ」

 忙しすぎて現実を忘れていた。僕はお好み焼き屋でもYouTuberでもない。失業中のアラサー男。いつまでも夢みたいな南国にいる訳にいかない。

「でもさ、日本に帰って何するべか」

 僕は返す。「何って、仕事を探すんだよ」

「はあ? 日本に晴人の居場所なんて、ないっしょや」

 冷たくて尖った声。陽は真っ直ぐに僕を見据えていた。

「晴人はクスリで捕まって婚約破棄になった。ネットで個人情報も晒されたんだろ。日本じゃ、そういう事実が一生付いて回る。アンタ耐えられんのかよ」

「だけど、僕は」

「日本に帰ったら、また世間からイジメられる。アンタは前科者なんだよ。仕事なんて絶対に見つかるワケねえよ。日本じゃ一生日陰者さ」

「僕は、どうすれば」

 陽は静かに立ち上がった。おもむろに歩み寄ってくる。

「ウチを頼れば良いさ」

 後ろから僕を抱き締める。火照った体温が肩に伝わった。

「陽を」

「アンタはウチなら信用してくれんだろ。だったら、ずっとここに居れば良い。ウチも晴人を信用してるし、世界一大切に思ってる」

 きつく抱き締められる感覚。僕らの姿が窓ガラスに反射していた。僕の胸元に腕を回す陽、虚ろな目で彼女を受け入れる僕。

 陽と出会って二十年以上になる。苦節と失敗と不運だらけの人生だが、陽と居る時間は一瞬で過ぎる。もしかしたら、陽と共に生きるのが一番の幸せなのではないか。

「台北で暮らすなら歓迎するべ。うちで働くんなら、就労ビザも取れるし。ま、アンタはこっちで冥婚してんだ。ヨシオさんに頼めば細かい事は全部やってくれるだろな」

 陽は立ち上がって空いた缶を握り潰す。

「あっ、しまった。ビール切らしちまったべ」

 そう言って陽は部屋に戻って、財布を持ってきた。

「今から買いに行くの?」

「駅前にコンビニあるべ。ついでに茶葉蛋チャーイェタンも買ってきてやるよ」

 茶葉蛋チャーイェタンとはコンビニで売っている謎の卵だ。ゆで卵を八角の効いたお茶に漬けてある。そのせいで台湾のコンビニは漢方臭がする。

 陽は「ちょっくら行ってくる」と玄関を飛び出していった。

 僕はソファーに沈み、天井に長いため息をついた。疲れた。今日も色々あった。

 台湾に来てから忙しすぎる。偶然に翻弄されて目が回りそう。まるで見えない誰かに操られているみたいに巻き込まれてゆく。

 その時、ふと思った。

 偶然じゃなかったら――。

 本当に操られていたら――。

 僕は背もたれから身体を離した。残っていたビールを一気に飲み干し、両頬を叩いて目を覚ます。

 思い出せ、あの夜を。僕が覚醒剤で逮捕された、あの夜だ。

 僕らは結婚祝いのパーティーで酒を飲んでいた。夜の新宿だ。貸切のクラブを出た後、仲の良いメンバーだけで二軒目に飲みに行った。そこに陽もいたはず。

 その後どうなった。僕は泥酔した。それで介抱してくれたのは誰だ。茉由は先に帰った。なぜ婚約者の茉由は帰った。

 したら後はウチに任せるべさ――。

 陽が、そう言った。

 あの夜、最後まで僕と居たのは陽だ。気付けば僕は一人で酔い潰れ、歌舞伎町の路上で眠っていた。それで次に目を覚ました時、ポケットに覚醒剤が入っていた。

 そう。最後まで居たのは、陽だ。

「嘘だ、嘘だ嘘だ……」

 僕は陽の部屋のドアを静かに開ける。煙草の匂いが鼻をついた。ベッドとサイドテーブルだけのシンプルな部屋。窓はない。

 何もない部屋。だからベッドのMacBookが嫌でも目に付いた。

「お願いだよ。嘘と言ってくれよ陽」

 僕は無意識に陽のパソコンを覗き見ていた。

 こんな事をしてはいけない。分かっている。しかし僕は陽の潔白を証明したかった。

 メールボックスを見る。僕が逮捕されたのは七ヶ月前。今年の一月だ。その時期のメールリストを検索する。何か、不審なやり取りはないか。

 今年一月の受信メールを一覧表示させる。僕とのやり取りが残っている。元旦に送られてきたメールだ。

【結婚おめでとう。今月、日本でお祝いパーティーしよう。新宿のクラブを貸し切っといた。職場や奥さんの友達もいっぱい読んでワイワイしようぜ】

 そう、このメールだ。こうしてあの夜のお祝いパーティーが企画されていた。

 その前後に、知らない人とのメールがやり取りされている。名前は内藤敦弘。聞き覚えのない名前だ。

【今月七日に一時帰国する。その時、一つ都合つけてくれ】

 都合をつける――。何を。

 その後、内藤敦弘という人物とのやり取りは無い。

 SNSのアカウントを探してみよう。僕はスマホで『内藤敦弘』と検索してみた。すると意外な形で検索にヒットする。

「何だよ、このニュースは」

 新聞のネット記事が検索上位に挙がる。記事の見出しは『新宿 違法薬物摘発 四名逮捕』とある。僕は記事をタップした。

【七月七日未明、警視庁は新宿歌舞伎町の違法薬物売買グループを摘発。四名を逮捕した。逮捕されたのは内藤敦弘(27) ――】

 僕は目を見開いた。陽がメールを送っていた相手だ。薬物の売買で逮捕されている。このメールの相手は違法薬物の売人だったのか。

 点と点が線で繋がってゆく。とても嫌な形となってゆく。

「嘘だ。じゃあ、あの時、僕のポケットに入っていたのは……」

 僕は陽のMacBookに目を向ける。メール一覧にFacebookからの通知メールが届いている。日付は一月十日。僕が逮捕された翌日だ。

【あなたのコメントがシェアされました】

 僕は通知メールも開き、眉を顰める。

「おかしい。このアカウント、陽のじゃないぞ」

 アカウント名は『裏情報局』。サブアカウントか。

 陽は『山名陽』のプライベートアカウントの他に『陽ちゃんの闇』というYouTubeの宣伝アカウントを作っていたのは知っていた。しかしこの『裏情報局』というのは僕も知らない。

 URLをタップし、シェアされたコメントへジャンプする。一月十日の午前中に投稿されたコメントだった。

 コメントを目にし、僕の呼吸が止まった。

「そんな……」

 目の前が真っ白になる。陽がこれを書いたのか。シェア回数は二万以上。指先が震えて止まらない。こんなの、見ない方が良かった。

 その時、玄関に鍵が挿し込まれる音がした。陽が帰ってきた。

 僕はモニターをスマホで撮影し、急いでMacBookを閉じる。手のひらの冷や汗を拭って、何事もなかったようリビングへ戻った。

「お帰り。遅かったから心配したよ」

 ソファーに座って陽を迎える。まだ心臓は跳ねるように暴れていた。僕はいつも通りを取り繕う。

「アンタに心配されたくねえべ。ウチは晴人の姉ちゃんなんだから」

「また言って姉ちゃんとか言ってる。ただ三ヶ月先に生まれただけなのに。いつまでも子ども扱いするなよ」

 いつも通り答えた。いつも通りのふりをした。

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