第37話 ああ、ハトかネコでも死んでんじゃねえのか
僕と陽は『大阪の小陽』に戻った。
昼のピークタイムを一人で切り盛りしたジョジョは憔悴していた。店の照明とコンロの火を消して座席を繋げて寝転んでいる。
「したっけパパッと昼飯作るわな」
陽は厨房に駆け込んでゆく。手持ち無沙汰になった僕はジョジョのスマホを覗く。彼が観ているのは、僕でも知っている『スラムダンク』のアニメだった。
「今日はYouTubeじゃないんだね」
「ふーたん今日は更新マダなの。寂しいしネ」
確か『ふーたん旅行記』とかいう、ベタな名前の旅系チャンネルだったか。
「オレお金貯めテ沖縄旅行きたい。生ふーたんに会いたいよ。兵役いく前の最後の楽しみッテいうか」
台湾の男子大学生は卒業すると兵役という過酷な四か月が待っている。日本のように就活戦争があって卒業後即新卒として企業で働くという事はないが、こちらはこちらで厳しい世の中だ。
「そのふーたんって人、今は沖縄で何やってんの?」
「最近海外旅はしてないけド、なんか日本で活動してるみたい。アジアの平和を目指すボランティア活動トカ」
YouTuberの知名度を使って慈善活動か。それほどの有名でなくとも、一般人よりは影響力もあるだろう。
すると陽が「出来たぞー」とブタ玉を二つ持ってくる。
「じゃあオレは昼寝しテきますよー」
陽と交代でジョジョが帰宅する。表からスクーターの騒がしいエンジン音が鳴ったと思うと、すぐに遠ざかって行った。静かな店内で、僕らは二人になった。
「林田圭司か。晴人はどう思うよ」
「どこかに隠れてるか、日本に逃げ帰ったか、それとも……」
僕が口にしようとした事を、陽が呟いた。
「もう殺されてる、とか」
あのアパートは日桃幫の持ち物だ。すでに映像は幫会も確認済みで、犯人を探し出して報復を果たしているかもしれない。
「そもそも林田圭司と凜風の接点が見つからねえ。本当に推進党の手先だったのか」
「対立組織の差し金じゃないんだったら、元から顔見知りだったって事だよね。映像の凜風さんは、林田圭司の顔を見て反応してたみたいだし」
したらさぁ、と陽は箸先を僕に向ける。
「凜風はお人好しな部分もあったんだろ。近隣住民の話じゃ、観光客に道案内したり、日本語の通訳をかって出たりもしたって話さ」
「そこで偶然知り合った人、だったって事?」
台湾への日本人旅行客は年間で十九万人。その中の一人と凜風が知り合った可能性はあり得るが、あまりにも漠然としている。
「偶然知り合った男に、なぜ凜風さんが殺されなきゃいけないの」
「そんなのウチだって、分かんねえべ」
僕は頭を抱えた。そんな最期、不憫すぎる。
陽のスマホが鳴った。画面に『アキラ』と表示されている。
「なんだよー。もう林田が見つかったか」
『そんなワケないっすよ』
食事中で手が塞がっていたからスピーカーで話す。アキラの声が僕にも聞こえた。
『今んトコロ目撃情報なしダよ。俺も手掛かり探しテたから、とりあえずホテルの部屋開けさせタっす』
アキラは内湖区の『瑞光大飯店』にいるらしい。
「なんか手掛かり見つかったべか」
『手掛かりかどうか、姉さんに見テほしいっす』
ブタ玉を食べ終えるなり、僕らは再びスクーターにまたがった。
晴天の台北の気温はみるみる上がり、午後二時には三十九度を上回っていた。陽は首筋に汗を垂らしてスクーターを駆る。
排気ガスに顔を汚され、僕らは『瑞光大飯店』に戻って来た。エントランスのソファーにアキラがいた。
「ウチらも見せてもらえんのか」
「ああ。ホテル側が許してくれタっす。厚意で」
アキラがフロントを一瞥すると、スタッフは肩を竦めてお辞儀した。
僕はフロントに一礼してエレベーターに乗り込む。林田圭司の泊まっていた部屋は五階らしい。エレベーターを降りると、すぐ脇に510号室があった。ここだ。
ドアはちゃちな木製の造り。体当たりで破れそうだ。アキラが鍵を回してドアを開けると、湿気で饐えた臭いが溢れてきた。
スイッチを押すと、白熱灯の薄明るい光が点いた。この部屋の真横にビルが建っているので、昼間でも日光が入らない。もちろん風通しも悪いから、慢性的に空気が凝っている。
狭い部屋だ。シングルベッドを置くと、歩くスペースはほとんどない。錆びて曇った鏡台の上に、薄型テレビが据わっている。
部屋の隅に荷物が置いてあった。僕はそっと手を伸ばす。
「これが、林田圭司の私物か」
バックパックが一つだけ。荷物の量から考えて、長期滞在するつもりはなかったのか。
陽はバックパックを手に取りジッパーを開ける。
「おっ。これは、帰国した線は消えたべ」
陽が掴んでいたのはパスポート。菊花紋章の入った日本国の旅券。五年期限の紺色の物だ。開くと、顔写真入りの証明書があった。
「間違いない。この顔だよ」
やや垂れ目の小太りの顔。防犯カメラに映っていた顔に似ている。
名前はHAYASHIDA KEIJI。所持人自署で『林田圭司』とサインしてある。本籍は兵庫県。今年で三十四歳らしい。
陽が顔をしかめた。パスポートの発行年月日は今年の八月七日。そして関西国際空港を発って台湾に入国したのが八月十日。
「取得から出発までが急すぎるっしょや。まるで台湾へ渡航するためにパスポートを取ったみたいだ」
さらに荷物を調べてゆく。財布と携帯電話がない。
陽は苛立ったように荷物をひっくり返す。ポケットティッシュ、ライター、デオドラントシート、煙草、自転車の鍵などがこぼれ出てくる。僕は一つ気になる物があった。
「これって、たしか陽の煙草と一緒だっけ」
僕は煙草の箱を拾い上げる。アキラも「あ。ホントだ」と呟く。
「姉さんが新宿で吸ッテたやつっすね」
オレンジ地に赤い帯。
この煙草、どこかで。
「そういやウチも前までコレだったな。とにかく安さがウリなんだよ。こっちで売ってないからマルボロに変えたんだけどさ」
「言われテみれば、台湾で売ッテないっすね」
えっ、と漏らす僕。
バックパックからechoの箱が三つも出てきた。陽は箱をつまみ上げて目を細める。
「ヘビースモーカーだな。しかも同じ銘柄しか吸わないタイプか。こっちでも売ってる煙草にすりゃ荷物にならねえのに」
僕は陽の腕を掴んだ。
「お、おい。どうしたべか!」
「いいから来て!」
陽の手を引っ張って部屋を出る。僕は非常階段を駆け下りた。後ろからアキラが呼んでいるが、返事をしている暇はない。
僕らはホテル前に停まっていたタクシーに乗り込む。
「アイワナゴー、ヒア!」
僕は片言の英語で言い、運転手にスマホを見せた。画面に『MRT龍山寺』と表示させてある。
運転手は「OK OK」と陽気な笑顔で答え、アクセルを踏み込んだ。乱暴な発進に、僕と陽はシートに背中を押し付けられる。
「待てよ! バイク置きっ放しっしょや!」
「とにかく今は急ぎなんだ!」
妙な予感を覚えた。気のせいかもしれない。きっと気のせいだ。しかし可能性が全くない訳ではない。可能性がある限り確かめておく必要があった。出来るだけ早く。
十分ほどで龍山寺駅前に到着した。
僕は五百元札を運転手に手渡し、お釣りも受け取らずにタクシーを飛び出す。街の東側へと走った。
全力疾走する僕らを街の人たちが珍しそうに振り返る。観光客の姿が減り、うす汚れた雑居ビルが建ち並ぶ路地に差し掛かる。
ここだ。
僕は小汚い空きビルの前で足を止めた。
半開きのシャッターから暗闇がこぼれている。足元には煙草の吸殻が落ちていた。僕は屈みこんで確認する。銘柄はechoだ。
僕はこの場所を覚えていた。数日前、陽を尾行している時に、この空きビルの前でechoの吸い殻を見つけた。
シャッターの隙間に潜り込む。真っ暗で黴臭い。スマホのライトで照らすと、埃の被ったコンクリートの地面が見えた。ガレージか。
「臭え。腐ったイカみたいな臭いだべ」
陽もシャッターを潜って入ってきた。顔を歪めて口元を押さえている。変な臭いがする。
僕は落ちていた吸殻を拾い上げた。
「見てよ、これ」
僕の指先に陽が目を細める。
「この銘柄、日本でしか売ってないんだよね。同じのが林田圭司の部屋にもあったんだろ」
「そうだけど、台北に日本人なんて山ほどいるべ。てか臭えな……ここは」
奥に鉄のドアが見える。駆け寄ってドアを開くと、嫌な臭いは強さを増した。階段がある。胸騒ぎを覚えた僕は階段を駆け上がった。
二階の廊下に出ると、ドアがずらりと並んでいる。オフィスビルのような造りだ。奥へ進むほど臭いがきつくなる。
「この先に、何かある」
一番奥のドアの前に立ち、僕はノブを捻る。
回った。ゆっくりと押すと、入り口に隙間ができた。しかし二センチぐらい開いて何かに引っ掛かる。
「陽、押すの手伝って」
陽と協力し、ドアに肩を押し当てる。すると少しずつ隙間が広がってゆく。ドアの向こうに何かが置いてあるのか。
「この臭いって」
「ああ、ハトかネコでも死んでんじゃねえのか」
僕らは息を合わせてドアに蹴りを入れる。すると解き放たれたようにドアが開いた。
僕らが駆け込むと、剥き出しのコンクリートの足元から無数のハエが舞い上がった。鼻がもげそうなほどの腐臭。十畳ほどのスペースに広がる悍ましさに眩暈がする。
薄暗い。陽が窓のカーテンを開けると、部屋に光が差し込んだ。
ドアがばたりと閉まる。何かが倒れたような音がドサッと聞こえた。ハエを払いながら振り向く。ドアの脇に何かが落ちていた。
丸めた布団のような大きさ。布が巻いてあるのか。露出した表面は緑色で、照り焼きみたいな光沢がある。その物体に大量のハエが集まり騒がしい羽音を鳴らしていた。
「……マジかよ。こんな所に」
陽が戦慄している。目を見開いて、足を引き摺るように後ずさりしてゆく。やがて陽の背中は反対側の窓にぶつかった。
「どうしたの陽。まさか、これって」
足元から戦慄が這い上がってゆく。
緑色の物体は汚い汁を広げ、コンクリートの床に茶色い染みを作っていた。ブヨブヨでドロッとした物体。それが腐臭を放っている。
僕が絶叫したのは、それが……人間の死体と分かった後だ。
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