第15話 行かないで、リザ……

 その夜、陽と士林夜市へやってきた。

「どうだべさ、この活気。なまらアツいっしょや」

 入り口に『士林市場 Shilin Markcet』と派手なネオンが輝いていた。道路の両端を埋め尽くす屋台。真っ直ぐ進めないほどの人ごみ。まるで祭りだ。人々の熱気と八角の匂い。熱帯夜の暑さと相まって目が回りそう。

「……暑い。台湾の人って、毎晩こんな事やってんの」

「晩飯も家で作らねえからな。夜も外食で済ますって事になるべさ」

 定番のタピオカミルクティーや牡蠣オムレツはもちろん、カエルの串焼きや豚の丸焼きもある。射的やパチンコなどゲーム屋台も多い。

「広いから一日じゃ回れねえべ。地下にも飯屋街が広がってるから」

 台湾には四百以上の夜市が存在する。ここ士林夜市は観光客をターゲットとした店が多く、他の夜市と比べると割高だ。

 ふと「コンニチワー」という声が耳に入った。雞排ジーパイ(フライドチキン)屋が日本語で客引きしてくる。

「ここいらは日本人観光客が多いべ。だから簡単な日本語なら分かる人も多いんだってさ」

 陽は素足でビーチサンダルを履き、こんがり日焼けした手足を見せている。いかつい刺青を隠そうともしない。

「子供の時に祭り行ったの思い出すっしょ。懐かしいべ」

 地元の神社の祭りだ。僕らは毎年、夜が更けるまで遊んでいた。子供の僕らにとって夜は不思議なもので、暗い町を歩くだけでも冒険だった。夜が好きだった。僕と陽は屋台が閉まって暗くなっても、境内に座り込んで喋っていた。友達でも親友でもない、不思議な距離感。きょうだいみたいな関係だったかもしれない。

 中学三年の時、その距離感が壊れた。

 僕が、あの人を殺したから――。

「あ。電話だ」

 陽がスマホを出した。着信している。相手は『劉欣怡』だ。

「怎麼了?」

 陽が電話に出て「どうしたの?」的な事を言った。しばらく陽は中国語で話した後、話がまとまったらしく通話を終えた。

欣怡シンイーだべ。近くにいるから来るってさ」


 地下の美食街で小籠包を食べていると、欣怡も合流した。今日は花柄の半袖シャツにデニムのショートパンツ。

 欣怡は顔をしかめて陽に捲し立てている。

「落ち着けって。こっちはこっちで、ちゃんと調べてるっしょや」

 また凛風リンファの件で催促に来たようだ。

「仕方ねえべ、昨日『シオツカセリカ』にコンタクトとったのに無視されたままなんだからさ」

 凜風のフレンドリストにいたであろうシオツカセリカという日本人。彼女とはいまだに連絡が取れない。

「おばちゃーん、ビールちょうだい!」

 陽が注文すると、大瓶の台湾ビールとグラスが三つ来た。

「待てよ、欣怡さんは十八歳だぞ」

「良いんだよ。台湾じゃ酒も煙草も十八からオッケーだべ」

 陽はグラスにビールを注ぎ、欣怡の前に置いた。陽が促すと、欣怡は嫌な顔をしながらも口を付けた。苦そうに口元を歪める。

「ほら、晴人も飲め。日本のよりサッパリして美味えべさ」

「やめなよ、無理させるのは」

「お嬢ちゃんも今日は飲むべ。あんまり台湾人は飲まないんだろ、でも日本人は毎日飲むんだぜ」

 陽は欣怡の肩を抱く。僕は陽の姿をじっと見ていた。

 凜風が殺されたのだとすると、理由は何だ。行きずりか、利益目的か、それとも私怨か。凜風が死んで得をするのは誰だ。

 たしか大手水産会社倖福海老ハッピーシュリンプの令嬢である凜風には、生命保険が掛かっていた。僕と凜風の式の費用も保険金の一部から捻出されている。その受取人は凜風の家族だ。

 ちょっと待て。嫌な想像が膨らむ。

 まさか、保険金殺人――。

 結婚式で顔を合わせた彼女の家族を思い出す。とても娘を殺す人には見えない。あの温和な人たちが凜風を手に掛けるはずがない。

 直接手を下さなくても、誰かに頼めば――。

【劉芳雄――2022/08/23 10:37】

 あのメールを思い出した。

 ヨシオさんと陽は、冥婚騒動より前から連絡を取っていた。そして陽のアパートのキッチンに隠されていた大金。封筒に書いてあった文字は『謝禮』。つまり謝礼。何かの見返りに受け取った金。

 最悪のシナリオが浮かんだ。凜風の殺害を依頼したのは、ヨシオさん。そして実行したのが、陽。事故に見せかけ保険金が下り、その一部を陽が報酬として受け取った。

 嘘だよな、陽。

 凜風が死んで得している者。それなら陽も当てはまる。そしてヨシオさんからのメールを、僕に見られる直前に削除した。

「ほれ、晴人も飲むべ。ぬるくなっちゃうっしょや」

 陽は僕のグラスにもビールを注ぐ。僕は冷静を装ってグラスに口を付けた。さほど冷たくないビールが喉を通ってゆく。

 まさか陽が凜風を手に掛けたのか。

 陳刑事が睨んでいた通り、陽は黑社會の者とも関りがあった。僕はこの目で見てしまった。悪い想像は雨雲のように膨らんでゆく。

 陽は黑社會の人間に殺人を依頼した。

「陽。僕に、嘘ついてる?」

「はあ? ウチは晴人に嘘なんてつかないし、秘密だってねえべ」

 陽はテーブルに肘をついて僕を見詰める。茶色がかった瞳に虹彩が浮く。その奥の瞳孔がぎゅっと開いた、ように見えた。

「分かってんだろ。ウチと晴人は、共犯者だ。運命の共犯者――」

 僕の心臓が縮まった。言葉が喉で詰まる。

「あの一件で、ウチの人生は複雑骨折しちゃったべ」

 陽の言葉は僕から酸素を奪った。じわりと涙が目じりに滲む。

「ウチは晴人のせいで『普通の生活』を失った。女子高生になって、大学生になって、テキトーにOLやって、三十路までに結婚するって、『普通の生活』をね」

「ご、ごめん……。ごめん、なさい」

 僕は陽の目を見たまま動けない。恐い先生に睨まれるような、怒った親に射竦められるような。そんな感じ。

「良いんだよ、アレはウチが望んでやった事。あの一件のおかげで、晴人と運命を共にする仲になったべ。今こうして一緒にいんのも、あの運命複雑骨折のおかげっしょや」

 夜市の地下街には活気ある声が溢れ、香辛料の効いた美味しそうな匂いが漂ってくる。誰もが僕の知らない異国の言葉を喋る。陽の言葉だけは僕にも通じる。

 すると陽は静かに立ち上がった。

「トイレ!」

「わざわざ言わなくていいから……」

 僕は苦笑する。

 陽は『公廁』という看板を辿って小走りしてゆく。一つ結びの髪が揺れる後姿を見て、僕は長いため息をついた。

 陽は僕のために普通の生活を失った。十六歳の頃から、夜の危険な世界で生きる羽目になった。全ては僕の責任だというのに。

「欣怡さん……」

 僕らが話し込んでいる間に、欣怡はテーブルに突っ伏していた。

 呼吸のたびに肩が上下する。居眠りしているのか。姉の死の真相を追って奔走した挙句、慣れない酒を飲まされた。疲れただろう。

 強烈な冷房から守るように、僕は欣怡の隣に座った。

「風邪ひくよ。タオルケットでも買ってこようか」

 呼び掛けると、欣怡は「……んん」と唸った。本当に眠っている。

 彼女の横顔は幼い。少女のような寝顔だ。いつもは気を張って難しい顔をしていたのか。こうして見ると、本当に普通の女の子だ。

 その瞬間、ふと欣怡は口を開いた。

「……なぜ」

 僕は目を見開いて固まる。

 日本語だ――。

 欣怡の薄い口唇から零れた声。おかしい。欣怡は日本語を話せないはず。いや、たまたま漏らした寝言を聞き違えかもしれない。

「どうしてなの……」

 また言った。僕の腕に鳥肌が立つ。

 やはり日本語だ。欣怡は、本当は日本語を話せるのか。いや、それどころではない。かなり流暢な発音だ。

 つまり、欣怡は。この少女は、嘘を――。

「行かないで、リザ……」

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