第12話 おのれ、共産党め!
翌日正午過ぎ。僕は一人で電車に揺られていた。
蒸し暑い外とは打って変わって、車内は冷房が効きすぎて寒いほどだった。目的地は再び
タクシーで家の前に着いた。庭に回り込むと、ヨシオさんがベンチに掛けている。
「こ、こんにちは。ヨシオさん」
ヨシオさんは僕に気付き、慌ただしく手招きする。僕は「おじゃまします」と断り、植え込みの隙間から庭に入った。
「おう日本人。早く入れ」
ペコペコ頭を下げる僕を見て、ヨシオさんは溜め息をついた。
「何じゃその情けない態度は。それでも日本男児か。俺の方がよっぽど日本男児らしいな」
そう言ってヨシオさんはしみじみと目を細める。
「日本男児。そう、俺は日本男児なのだ。欧米の暴虐に屈しない気高い民族なのだ」
自分で言って一人で熱くなっている。また昔を思い出してテンションが上がってしまったようだ。
「日本人のどこが良いんですか。頭カタいし、仕事は休めないし、態度ははっきりしないし。まあ、僕も人の事言えないけど」
僕が顔をしかめると、ヨシオさんはきつく睨んだ。
「台湾には
昔のな、とヨシオさんは強調した。
「統治下では日本兵も良くしてくれた。礼儀正しくて優しくて厳しくて格好良くて、俺は日本の兵隊が好きだった。だが、別れは突然だった」
ヨシオさんは一息つく。呼吸が微かに震えていた。
「日本が、負けたのだ」
肩を落としたヨシオさん。思い出の世界に入り込んでいる。
「敗戦の翌年、日本軍は台湾から撤収した。負けても胸を張り、悲しみを見せない兵隊の姿。俺は忘れん。そして別れ際、一人の日本兵が俺にこれをくれた」
ヨシオさんはベンチに置いてあった帽子を手に取る。
「それって、日本軍の……」
「そう。戦闘帽だ」
色褪せたカーキ色の帽子。つばが所々ほつれて年季を醸している。くすんだ金色の星の刺繍。
そっと手を伸ばすと、ヨシオさんは物凄い剣幕で僕を睨んだ。
「気安く触るな!」
ヨシオさんの杖先が僕の手に振り下ろされる。
「お前のような腰抜けが触れて良い代物ではない!」
じゃあなんで見せたんだよ。自慢かよ。
ヨシオさんは戦闘帽を抱える。北の空を眺めて物憂げに息を漏らす姿。背筋はピンと伸びているが、その呼吸は微かに震えていた。
「台湾と日本。かつては親愛なる兄弟だった。今となっては、遠く隔たってしまった。離れてしまったのは距離ではない。心だ」
そう言ってヨシオさんは胸に拳を置き、僕をまっすぐに見据えた。
「俺の夢はな、再び台湾と日本が手を取り合う事。ただそれだけだ」
「――っていうのは、国交回復って事ですか」
無論、とヨシオさんは頷く。
「現在この台湾と国交を持っている国は少ない。最近エルサルバドルとの国交が断絶し、ついにはたった十七か国にまで減った。気骨のあるパラオなどを除き、どんどん台湾と手を切ってゆく」
「なんでそんな事に……」
「おのれ、共産党め!」
ヨシオさんは杖を握り締めた。こめかみに血管が浮く。
「中国共産党が『台湾と手を切れば経済支援をする』と世界中に触れ回っとるんだ。こうして台湾を孤立させて併呑しようと目論んどる!」
また熱くなっている。しまいにヨシオさんの熱弁は戦後期にまで遡り、蒋介石への文句に発展してゆく。面倒なパターンだ。
「共産陣営はクソッタレばかり。中国はウイグル・チベット・香港を弾圧し、北朝鮮は定期便の如く日本にミサイルをぶっ放し、そしてロシアはウクライナに侵攻しおった。あのならず者どもめ!」
「お、落ち着いてくださいよ」
「かつての兄弟が再び協力し合い、この危機的状況を打開する。まさに今その時なのだ! そして再び共に歩もうではないか。アジアの、いや世界の未来に向けて!」
いや、僕に言われても。
「お前のような骨なしチキン野郎に言っても無駄だわい。どうせ俺の話を聞いても何とも思わんだろ。これだから最近の日本人ときたら、まったく。しっかりせんか!」
ヨシオさんは乱暴に僕の頭を掻き回す。骨張った指が痛い。
「俺も九十だ。俺の目が黒いうちに、台湾と日本の国交回復を見たかったが……たぶん無理だ。まことに残念極まりない」
「そんな事言わないでくださいよ。まだまだ余裕で元気じゃないですか」
励ましたのが逆効果だった。ヨシオさんのこめかみに青筋が立つ。
「何をニヤニヤしておる! それでも日本男児か!」
は、はぁ、と眉を顰める僕。
「そんな事より、お前。今日は俺に用があって来たんじゃないのか」
そうだった。わざわざ説教されるために来たのではない。
「
「凜風と夫婦になっとって、次は妹の欣怡に手を出そうってか!」
そんなんじゃありませんよっ、と慌てて否定する。
「実は彼女ここ数日、ずっと僕のアパートに来ましてね。ちょっと気になって、ヨシオさんに伺いに……」
「家だと! この軟派者が。まだ欣怡は十八だぞ。いい大人が小娘にちょっかい出そうとは何事か! 恥を知れ!」
「違いますってば。実は僕の幼馴染がYouTuberをやってまして、そっちに会いに来るって言うか」
凜風殺害説は伏せ、欣怡がうちに来る旨をかい摘まんで説明した。
「動画撮影の見学に来るだと。まあ、あの欣怡ならやりかねん」
欣怡は現在、桃園市の大学に通うため一人暮らしをしている。
「欣怡さんって、どんな子なんですか」
「活発というか、アウトドアというか、男に生まれるべきだったんだろうな。国小一年の時から、学級で一番身体が大きかったから」
欣怡は幼い頃からスポーツ万能だったという。中学ではバスケットボール部で、その運動神経を存分に活躍させた。高校に上がってもバスケを続け、基隆市の大会でも好成績を残しているという。
「バスケですか。実は僕も元バスケ部なんですよ」
台湾の高校には軍訓教官が配属されている。軍人が学校のセキュリティと規律維持を担当しているのだ。高校生の欣怡はその軍訓教官に憧れを抱いた。卒業式で軍訓教官と写真を撮ってもらったと、大はしゃぎで帰ってきたそうだ。
そんな乙女らしい一面もあったとは、あのクールな態度からはいまいち想像できない。
「あのお転婆め。こっちにも顔を出さんか」
「僕と凛風さんの式にも出席してないんですよね。それなのに台北市内まで来てるなら、ちょっとぐらい実家にも帰ったら良いのに」
「そうだそうだ。お前からも言っておけ!」
最後にはまた怒鳴られた。僕が「はいはい、分かりましたよ」と緩い返事をすると、ヨシオさんは厳しい顔で僕を覗き込んだ。
「また来いよ、日本人!」
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