第8話 そう、僕は人を殺した事があるんだ
僕は陽のアパートに戻り、一階の店のテーブルで動画のチェックを始める。
陽は店の営業準備に取り掛かるのかと思えば、部屋にこもって昼寝しだした。僕に映像編集を任せておいて良い身分だ。
「君は、寝なくて良いの?」
テーブルの向かいに座る
僕の言葉が分からないのか、声を掛けても一瞥しただけでスマホに目を落とす。
「君のお姉さん、どんな人だったんだろう。皆の言うとおり、愛想がよくて親切な人だったのかな」
欣怡は僕に目を向け、困ったように首を傾げていた。
「僕にはもったいないよ、凜風さんみたいな素敵な女性は。僕みたいな――」
そこで僕の喉は支えた。言葉が詰まって出てこない。
良いじゃないか、彼女に僕の言葉は分からない――。
吐き出して楽になりたかった。心に凝った泥のような感情は、僕の心臓に絡みついて呼吸の邪魔をし続けている。吐き出したい。
「僕は、犯罪者なんだよ」
僕の言葉は誰にも受け取られずに、油で汚れた床に落ちて転がる。それでも感情を吐き出しただけで楽になれた。
「これでも僕は小学校の先生だったんだよ。東京の郊外の学校で、それなりに穏やかな人生を送ってたんだ」
良い感じだったんだよね、と僕は息をつく。
「良いお嫁さんだって貰ったんだ。
僕が自嘲して鼻を鳴らしたが、欣怡は無表情に見ているだけ。
「ハワイに新婚旅行して、練馬にマンション買って、良い感じの新婚生活を計画してたんだ。でも良い感じなのもすぐ終わった。僕がね、逮捕されたんだ……」
溜息がこぼれる。同時に目の奥が熱くなった。
「僕だってよく分かんない。その日は、僕の婚約祝いパーティーだったんだ。それで皆で飲んでたら酔っ払っちゃって、道端で居眠りしちゃっててさ。それで、警官に職質されてポケットの中を見られたんだ」
僕は大きく息をついて天井を見上げた。
「そしたらさ、入ってたんだよ。覚醒剤が」
それで、と僕は手のひらを見据える。
「僕は知らない。いつの間にか入ってたんだ。それで僕は逮捕されて、留置場に入れられて取調べされて。違うって言っても誰も信じてくれなかった。何日も閉じ込められて、取調べの毎日が終わらなくて」
僕は刑事の前で認めてしまった。認めた方が早く釈放されると言われ、僕は無実の罪を認めてしまった。
「ニュースでも報道されたよ。教員が覚醒剤所持で逮捕ってさ。顔も名前もメディアに出た。酷い目に遭ったのは僕だけじゃない。婚約者の茉由もだよ。SNSで本名と顔写真と職場も特定されて晒された。僕の周りもみんな不幸になったんだ」
裁判では執行猶予が認められ、幸いにも実刑は免れた。しかし全てが何もなかった事にはならない。
「もちろん婚約は破棄さ。向こうの両親からも責められるし、職場にもいられなくなるし。全部失ったんだよ。顔も名前も晒されたし、再就職先なんか見つからない。僕は日本で生きていけなくなった。だから僕は逃げて来たんだ、陽のもとへね。ダサいだろ」
欣怡は無関心な顔を僕に向ける。知らない言葉で長話をされ退屈だろう。僕は力を抜いて続ける。猫にでも話しかけている気分だ。
「実はね、初めてじゃないんだ。罪を犯したのは」
自然と言葉がこぼれた。粘っこい汗が背中に滲む。
「あれは、中学生の時だった。やっちゃった、と思ったよ。そう、僕は人を殺した事があるんだ」
言ってしまった――。
言葉が次々とよだれのように垂れ流れる。気持ち良い。
「でもあの時は、誰からも責められなかった。僕が
ぜんぶ陽のおかげで――。
僕は立ち上がり、二階のキッチンに向かう。喋り続けて喉が渇いた。シンクの下の棚にミネラルウォーターを買い置きしてあったはずだ。
「欣怡さんの分も持って行こうかな」
棚を開けると、何やら封筒が目についた。ペットボトルの隙間に挟まっている。紙質の粗い茶封筒だ。
「陽のやつ、こんな所に何置いてんだよ」
そっと封筒をつまみ上げる。重い。裏面に『謝禮』と手書きされている。謝礼、と読むのか。開いた封筒の口から札束が覗いた。
「えっ、お金。しかも、こんなにも」
僕は咄嗟に封筒を手放した。
二千元札が見えた。ざっと百枚はある。もし全て本物の二千元札なら日本円にしておよそ八十万円。
大金だ。そもそも『謝禮』とは何の礼だ。店の売り上げとも思えない。まともな金ならこんな所に隠してはおかない。どこからの金だ。
「何してんの」
陽の声。僕は震え上がった。
「いや、その……水を飲もうと思って」
「水なら冷えたのが冷蔵庫にあるっしょや」
そうだったな、と僕は平静を努める。
ペットボトルを取り出し、一気にあおった。心臓が激しく暴れる。封筒を触っているのを見られなかっただろうか。
「電話掛かってきたべさ。アンタ宛に」
振り向くと、陽はスマホを持っていた。僕が「誰から?」と聞き返すと、陽は意味ありげな笑みを浮かべた。
「アンタの嫁さんとこの爺さんからだべ」
そろりと顔を上げる僕。「え。マジ」
「いつまで待たせるんだ無礼者ッ、だってさ。ブチギレだったよ」
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