第9話 俺は十三歳まで日本人だったのだ

 僕は大急ぎで台北駅へ向かった。

 瑞芳ルイファン方面行きの自強号(特急)に飛び乗った。凜風リンファの実家がある基隆キールンまでは台湾鉄道で三十分ほど。台湾鉄道では車内の飲食が認められている(地下鉄ではホームを含め飲食厳禁。違反すると7500元以下の罰金)ので、向かいの席のおじさんがモリモリとポテトチップを頬張っていた。

 電車に揺られる事しばらく。八堵パードゥーで乗り換えて基隆に到着した。

「ハルト! ハルト!」

 全家ファミリーマートの前、薄毛の男が手を振る。凜風の父親、宗傑ゾーンジェさんだ。

「ああ、わざわざすみません。助かります」

 僕が会釈すると、凜風の父は早口で捲し立てて車のドアを開けた。

「等候著。請快速乘坐車!」

 さっさと車に乗れ、と言っているのか。僕が急いで助手席に乗ると、シートベルトを締める間もなく発進した。かなり運転が荒い。

 ハンドルを握る宗傑さんの丸っこい手。小指だけ爪を伸ばしている。たしか防小人ファンシャオレンのおまじないだ。小指が短い人は縁起の悪い小人に取り憑かれるので、爪を伸ばして魔除けをするというジンクスだ。

 ここ基隆市は台湾第二位の港町。日本統治時代には海軍の軍事要塞だったが、後に貿易港として発展した。

 ここに『倖福海老』が本社を構えている。エビ以外にもサンマやサバ漁など手広く行なっているらしい。貿易相手の八割は日本だ。

 やがて海が見えてくる。乱暴な運転に四十分耐えた所で停車した。

「ええっ、ここが自宅なんですか!」

 一軒家だ。しかも大きい。

 三階建ての城のような姿。敷地面積は田舎のコンビニの駐車場ほどもある。白いレンガに瓦屋根。南国らしい家だ。二階が歩道まで突き出してアーケード状になっている透天厝トウティェンツオという建築様式だ。

 早口で手招きする宗傑さん。僕は小走りで着いてゆく。中庭に抜けると玄関に着いた。扉を開けると、凜風の母親が「イラッシャーイ」と歓迎してくれる。これまた陽気な人だ。凜風の母親は色白で目鼻立ちがはっきりしている。凜風は母親に似たようだ。

「準備好吃飯、所以請與我的祖父談一會兒」

 宗傑さんが僕の腕を掴んで引っ張る。どこへ連れて行く気だ。

 僕は庭に案内される。桃の木が植わっていて、苔むした岩が置いてある風情のある庭だった。青々とした芝生が茂っていて、小さいながらも池もある。

「稍後見――」

 宗傑さんは家屋へ戻っていった。ここで待て、という事か。

 池のほとりにベンチがある。そこに誰かが座っていた。老人だ。その老いた男は置物のように静かに、池で泳ぐ鯉を眺めていた。

 はっとした。あの人が凜風のお祖父さんか――。

 『倖福海老』の創業者。半袖のカッターシャツに茶色のスラックス。袖から伸びる皺だらけの手には骨が浮いている。白い髪を後ろに撫で付け、眉間には深々と皺が刻まれていた。

 話し掛けづらい。まずは遅れた事を謝るべきか。北京語で謝罪する時はどう言えば良いのか、とアプリを開こうとした時だった。

「きちんと挨拶せんか!」

 突如怒鳴られ、僕は震え上がった。同時に疑問が降ってくる。

 日本語?

「に、日本語。話せるんですか」

 当たり前だ、と言わんばかりに老人は鼻を鳴らした。

「お、お、お上手ですね。お祖父さんが、日本語を喋れるなんて、思っていませんでした」

 老人は杖をついて椅子から立ち上がる。

 僕は息を飲んだ。老人とは思えない真っ直ぐな背筋。

リウ芳雄ファンションだ。以後宜しく」

「僕は藤園晴人です。よろしくお願いします、お祖父さ――」

「お前に祖父と呼ばれる筋合いはないっ!」

 すごい剣幕で怒鳴られ、僕は肩を竦めた。反射的に「す、すみません!」と頭を下げる。しかし老人の怒声の勢いは止まらない。

「その態度、見ているだけで腹立たしい。これだから日本人は……」

 老人は息を吸い込み、僕に追い打ちをかけた。

「俺は、日本人が大嫌いだ!」

 はっとなった。僕は頭を下げたまま凍り付く。

 かつて日本は台湾を接収し、植民地として占領していた。この老人は植民地時代の生き証人。日本の支配を受けて育った世代だ。

「いい加減、頭を上げんか! 情けない奴だ!」

 老人は僕の胸に杖先をトンと押し付ける。

「胸を張らんか日本人! それでも俺の孫の夫か!」

 僕はハイッと声を張る。まるで鬼軍曹だ。

 なんと九十歳だという。それにしてもこんなに元気というか気合の入った九十歳は見た事がなかった。

「まことに近頃の日本人ときたら……どいつもこいつも弱々しくてなっとらん。萎びた人参か! 堂々としろ日本人! 胸を張れ!」

 僕は再度頭を下げる。「すみません!」

「いちいち謝るな! お前たちは素晴らしい民族なのではないのか! 誇りを持たんか!」

 あれ、何か変だ。僕はそろりと顔を上げる。

「ええっと、日本人が嫌いなんですよ……ね」

「ああ大っ嫌いだ。お前らは裏切り者だからな!」

 僕は聞き返す。「裏切り者?」

「俺は信じていた、日本は真の兄弟であると。言葉や文化は違えど、固い絆で結ばれた同胞であると。それがなんだ。中国共産党などと手を結び、台湾とは断交だと。これを裏切りとせず何とする!」

「兄弟? 同胞? 台湾は日本の植民地だったんでしょ。さぞ我々がご迷惑を掛けたものかと」

 この馬鹿モンがっ、と老人は鼻を鳴らす。

「何も知らんのか。日本の植民地支配というのは、西洋人のような略奪や搾取とは違う。かつて清王朝に化外けがいの地と呼ばれ見放された台湾に秩序をもたらした。狼藉を尽くす清軍の残党を駆逐し、道路を通し、ダムを造って水道を引き、子供たちに教育を施した。かつての日本人は台湾を国土の一部として平等に統治したのだ」

「そ、そうなんですか」

 抗日運動や原住民の反乱などが一時的にはあったものの、日本政府はインフラを整備し台湾を一気に近代化させたのは事実らしい。それによってか現在でも台湾に親日家が多くいるという。

「俺は十三歳まで日本人だったのだ。日本が俺の祖国だ。俺の母語は日本語だし、教育勅語も暗記した。正真正銘の日本男児だ。お前みたいなゴボウより、よっぽど俺の方が日本人だ!」

 朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ――、と老人は何やら呪文を唱え始める。面倒な事になってきた。

「日本がアメ公に敗戦した時は、俺たちも涙を流して悔しがった。そしたら何だ! GHQの脅しに負けて、大本営は台湾を手放しおった。日清戦争の馬関ばかん条約より五十年も連れ添った兄弟を、いとも容易く見捨ておった! 日本は俺たちを裏切った!」

 老人は一人で喋りながら興奮を増してゆく。顔が真っ赤だ。

「お、落ち着いた方が良いですよ。おじい――いや、芳雄ファンションさん」

「おい日本人! 俺の事はヨシオと呼べ」

「はあ?」

「お前は日本人だろうが。ならば芳雄ファンションもヨシオと日本語読みせんか」

 老人は歯並びの良い歯を見せる。若干機嫌が良さそうに見えた。

「ヨシオさん。実は日本が、好きなんじゃないですか」

「そんなワケあるか!」

 杖を振り上げて激昂する九十歳。またヒートアップしてきた。

「日本政府は支那シナの国民党なんぞに台湾を安売りした。俺は日本人として生まれ育ったのに、ある日突然『お前は今日から中国人だ』って、そんな馬鹿げた事が許されるか!」

 しまった。どうやら僕が火に油を注いでしまったようだ。

「日本が台湾からズラかった後は散々だった。国民党の小汚い兵隊がゾロゾロ来るわ、外省人らに財産を接収されて弾圧されるわ。『犬が去って豚が来た』とはよく言ったモノだ」

 日本敗戦後、台湾は中華民国に割譲された。

 それからは警官も教師も政治家も中国本土から来た者、いわゆる外省人の職務となった。警官は難癖を付けて市民を逮捕して保釈金を要求し、教師は日本の教育は悪だったと説き、政治家は本省人を弾圧して財産を搾取したそうだ。

「アメリカは日本に原子爆弾を落とした。そして台湾には蒋介石を落とした!」

 僕が「は、はあ」と口を開けていると、ヨシオさんは鋭く睨んだ。

「俺が気に入らんのは、お前みたいなナヨナヨした態度だ!」

 ヨシオさんの杖が僕の尻を叩いた。反射的に背筋が伸びる。

「本当にお前は今の日本人そのものだな。すぐに謝る。謝っておけば波風立たんと思ってるんだろ。だから周りが付け上がる」

「何の話なんですか」

「ちゃんとニュース見とるのか。日本にお前のような日本人ばかりだからいかん。政治家が毅然とせんから中国が膨張するのだ。俺たち台湾人は中国シナのやり方をよーく知っとる。弱気を見せる相手にはグイグイ要求しおるのだ」

 ずいぶんな言いようだ。すると矛先は再び僕に向いた。

「お前のようなモヤシは駄目だ。気合いが足りん、根性が足りん、大和魂が足りん。うちの子の方がよほど日本人らしいぞ」

「うちの子って、凜風さんの事ですか」

 聞き返すと、ヨシオさんは無言で頷いて顔を伏せる。

「凜風は昔から日本好きでな。俺が日本語を喋れると知ったら、四六時中後ろを着いてきよった。だから俺が日本語を教えてやったんだ」

 なるほど、凜風の日本びいきはヨシオさんの影響だったのか。家に日本統治時代の生き証人がいるなら頷ける。

「優しい子だ。去年、日本留学へ行っていた時、凜風はわしのために日本の写真をたくさん撮ってきてくれた。靖国の桜だ」

 見ろ、とヨシオさんはポケットからスマホを取り出した。画面には靖国神社の境内が映っている。参道の脇に並んだ桜は鳥居や門を覆い隠すほど満開の花を咲かせていた。

「知っとるか。靖国の門には台湾の木材が使われている。こうして日本と台湾は今でも繋がっておるのだ」

 ヨシオさんは画面をスライドさせ、次の写真を表示させる。僕は呼吸を止めた。映っていたのは凜風だ。

「あ、遺影と雰囲気がちょっと違いますね」

 僕が見た遺影よりも若い。友達と一緒に映っており、より少女っぽく見える。

「凜風が十八歳の時の写真だ。チャラチャラしおってからに」

 これも去年、日本留学の際に撮られた写真だそうだ。日本の大学の友達と写っている。三人並んでいる内の右が凜風か。髪を少し茶色く染め、デニムのショートパンツからすらりとした足が伸びている。

「ん。耳どうしたんですか?」

 写真の凜風は左耳に絆創膏のような物を貼っている。怪我でもしたのか。するとヨシオさんは呆れたようにため息をついた。

「耳輪の穴を開けおったのだ。裁縫針でやりおったから膿みおった。ったく日本の流行にながされおって。せっかく俺が腕時計を買ってやったのに、そのせいで痒くて着けられんと言い出しおった」

 ピアスを開けるのに失敗し、金属アレルギーになったという。若者らしいエピソードだ。

 ヨシオさんは遠くの空を見詰めて目を細める。

「俺の愛国心を理解してくれるのは、家族でも凜風しかおらんかった。息子や他の家族にも、俺の気持ちは分からんだろうなあ」

「他の家族……。そう言えば昨日、欣怡シンイーさんが来ましたよ」

「何だと」

 するとヨシオさんは眉間にしわを寄せた。

「欣怡がお前の所にか。何しに来た」

 思わず僕は詰まった。凜風の死は他殺かもしれない――。しかしまだ家族には言えない。不確定要素が多すぎる。

「えっと、僕に挨拶みたいでした。ほら、結婚式にも来られなかったし。それでさっきまで一緒でしたけど」

「ったく、あの薄情娘め。大学が忙しいのは知らんが、姉の式ぐらい顔を出さんか。それで、欣怡はどうした。一緒に来なかったのか」

「桃園に帰りました。大学のサークルが何だかんだあると言って」

 大きくため息をついたヨシオさん。

「家にも顔を出さんとは。欣怡め何のつもりだ」

 ヨシオさんは杖を握り締める。とばっちりが来そうなので、僕は一歩下がった。

「吃飯的能準備的!」

 家の中から凜風の父親が呼び掛けてくる。ヨシオさんに目配せすると、仕方なさそうに訳してくれた。

「晩飯の用意が出来たんだとさ。お前を歓迎するために朝から準備しとったようだ」

 先に行け、とヨシオさんは杖先を家の方へ向けた。僕は「ではお先に」と一礼する。すると背中に声を投げかけられた。

「また来いよ日本人。今度もたっぷり説教してやる」

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