血のほとり

荒走栞

第1話

 雨粒が水面に円を描き、弧の形で吹きつける風がその円を砕く。この、繰り返される生き死にをただぼんやり見つめているうちに、池の前にいるのは俺ひとりになった。

 雨脚は強まり、辺りを真っ白くしていく。朦朧とする俺の意識と辺りの境界が、薄れつつある。


 ―このまま消えてしまえたならどれだけ楽か。


そう思いながら俺は、真っ白くなっていく世界に身を預けた。


 このまま意識が戻らなければ本望だが、そうはいかない。雨風が俺を揺さぶり、生の実感を突きつける。


 ―死ぬより辛い、くそみてえな人生がまだ続く。


 突然、白い視界の右側に藍色が入った。目を向けると、藍色の羽織袴姿の男性が立っていた。

 彼は俺に目もくれず、池を眺めていた。傘をさしていなかったが、彼の上に雨は落ちていなかった。俺は瞬時に、彼はこの世を彷徨っていると悟った。


 彼は雨に濡れていなかったが、彼の顔は濡れていた。涙が流れている。感情のままにでなく、生理的に流れる涙だ。


 俺はきまりが悪くなり、池に目を向けた。


 「どうだ、この庭は」


 彼が呟くように言ったこの言葉は、この状況では俺に向けられたものと捉えるしかない。彼は生前、この庭の主だったのかもしれないし、できた人間だったのかもしれない。だが、俺の頭は、彼を感情の捌け口に選んだ。


 「俺、死んだんすかね。だからあなたが見えてるんすか。それなら本望なんですけど、死ねてないっすよね」


 ひりひり痛む胸から嗚咽が込み上げる。


 ―この嗚咽が、心臓を切り裂いて出てきてくれればいいのに。


 俺の願いも空しく、嗚咽は、俺の有り様を象徴しただけだった。


 俺は嗤った。


 「やっぱり。続くんすよ。くそみてえなこの人生が。生き地獄が」


 彼は池を眺めたまま、言った。


 「今は、心穏やかでないな、おぬし」


 俺は思わず吹き出した。


 「それは、「今は、雨が降っているようだ」と言うのぐらい、くだらない発言ですよ。くだらない」


 彼は、臆せずに言った。


 「人を殺めたことはあるか」


 俺は、ここまで感情を露わにする俺を前に、落ち着き払っている彼に感心を覚え始めた。

 この言葉を聞き、彼は武士だったのかもしれない、と俺は思った。


 「この世では、そんなことをしたら最悪、死刑です。勿論、ありません」


 俺は一息おいて、喉元につかえていた言葉を吐き出した。


 「いや、俺は人を殺めたかもしれない」


 また瞼が熱を帯び出した。勘弁してほしい。


 気がつくと、先程まで10mぐらい離れていた彼が、右隣にいた。


 「殺めた者が、おぬしから離れんのだな」


 俺はこの時初めて、彼の顔をしかと見た。その顔はのっぺらぼうで、ただ、二つの小川が、目があったと思われる位置から流れている。

 雨音が不気味に身体にこだまし始め、俺はようやく、彼と話している怖れを覚え始めた。


 俺は、恐怖と感傷がないまぜになり、わけが分からなかった。間を置こうが、震う声で言った。


 「俺も一緒に、逝きたかったです。なんにもしてやれなかった。こんなクズと一緒になった時点で、あいつはあっという間に死ぬって決まってたんです。でも俺はあいつと生きたかった……。

だからあいつは死んだんです。俺のエゴが、あいつを殺したんです」


 彼は俺を見つめた。厳密に言えば、見つめられている気がした。そして、彼は俺の右肩に手を置いた。重みや温かみ、触感は全く感じられなかったが、妙に落ち着いた。


 「最も辛いのは、人を殺めることでなく、人を殺めることが我が心をも殺めることだ」


 彼は池に目を移した。


 「戦に勤しんでおった時分は、この庭を眺めれば、心穏やかであった。我が心を殺めたと気がついてからは、池は血に、山は殺めた志士たちの堆い亡骸に見える。寧ろ、そのようにしか、見えん」


 俺は右肩を見た。彼の手は小刻みに震えていた。彼もまた、生き地獄を彷徨っているのだ。


 俺は池に目を移した。


 「池の俺が見えますか。……雨に打たれて、ぐちゃぐちゃに揺れてる俺が。これが今の俺です。

……そして俺は、あなただ」


 俺がこう言い終わらないうちに、俺たちの間を強い風が吹き抜けた。その風は、彼の羽織袴を揺らした。


 俺は驚いて彼を見ると、その顔はのっぺらぼうではなくなっていた。ぐしゃぐしゃに泣き崩れる表情がそこにはあった。彼はわんわんと泣きながら、笑顔だった。その身体は雨に濡れ、絵の具のように解け始めていた。


 俺は彼を抱きすくめた。もう彼は、藍色の濃霧のようになってしまっていた。


 「いきます」

 

 俺は両腕の中に囁くように言った。すると、俺の背中を押すような風が吹き、俺は前のめりになって転び、両手をついた。


 池に映るずぶ濡れの男の顔は、やけに晴れ晴れとしていた。

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