第9話
9
一週間が経って、すっかり一人暮らしの真似事に慣れてきた。
洗濯も料理も毎日しなくなった。
そのかわり、酒の空き瓶がリビングを満たしていくのを、今日も同じソファーから眺めている。
スーツを着替えもせずにソファーに横たわり缶ビールを開けた。
庵司はきっと
女か男の家に居る。
そんな事は分かっていた。
今に始まった事じゃない事も。
まだ酔いも回らない内に、俺は二人で暮らすマンションを出た。
時間にして夜の10時を回った頃だ。
タクシーに乗り込んで目指したのは、一度だけ庵司に連れて来て貰ったバーだった。
皮肉な事に、庵司と会った最後の場所でもある。
一人で乗り込むにはハードルの高い扉を、一度来たという思いだけで押してのけた。
中には客がおらず、バーカウンターの中で、榊さんがグラスを拭いている最中だった。
「お〜、雪乃くん!」
「どーも。お久しぶりです」
最近眠れてないやつれた顔は、榊さんに筒抜けのようで、小さな溜息が帰ってきた。
「雪乃くん…食べてる?ちゃんと、寝てるか?」
眉間に寄った皺は何も言わずとも理由を察しているように感じた。
「座りなよ。何か軽く食べられる物出すから」
「榊さん…大丈夫ですから。」
カウンターの椅子にかけて頬杖をつく。
「黙って座ってな」
榊さんは暫くカチャカチャと料理をしているように見えた。
いつの間にかカウンターに突っ伏す俺の耳にコトンと大きな物音が響く。
顔を上げると、榊さんがおにぎりと卵焼きを焼いてくれて、それが一枚の皿に収まって俺の前に置かれたのだった。
「食べて。話はそのあと聞くよ。」
「…すみません」
謝りながら、おにぎりに手をつけて、がっかりしていた。
庵司がいるかも知れないという…僅かな希望は砕かれたからだ。
榊さんは、一度店の外に出たと思ったら看板を店内にしまった。
「榊さん…俺、帰りますから!」
「良いんだよ。今日は客入りが悪いし閉めようと思ってたんだ。ゆっくりしていけよ」
肩を押さえて席に戻される。
「で?…庵司だろ?探しに来たのか?」
俺は俯いて自分の組んだ手の指先をイジイジと動かして溜息を吐いた。
「初めて…ここへ連れて来て貰った日から、もう一週間、帰って来ない。」
ポツポツと呟く言葉が辛かった。
「雪乃くん…俺、言っただろ?良い奴なんだが…あいつの恋人が幸せそうにしているのを…俺は見た事がない。」
榊さんの言葉には説得力があった。
見て来たんだろう。きっと…今までの恋人達の悲しみを。
「ただね、俺、雪乃くんは少し違うのかと思ってた。今まで付き合ってきた子達とは…」
俯いていた俺は顔を上げた。
「どうしてですか?…何が違うって…」
「うん…雪乃くんと付き合い初めて何回かバイトに来てるんだ、アイツ。雪乃を美味い飯に連れて行きたいから金がいるとか、雪乃が作る飯は最高に美味いとか…雪乃、雪乃って…よく話してた。正直今までそんな風に恋人の話なんて全くしなかった奴がさ…どんな子なんだろうって、俺もずっと気になってたんだ。」
「庵司が…俺の事?」
榊さんはタバコに火をつけてフゥーッと天井に紫煙を吐き出す。
「あぁ…やっと本気になったんだなぁ…って思った。だけど…」
榊さんはサラサラの黒髪をクシャリと左手で握った。
「何ですか…だけど…」
「俺が雪乃くんを止めたのは、こんな日が遅かれ早かれ来る気がしたからだ。庵司は相手の全てを吸い取ってから捨てる。金も、仕事も、生活も、心もだよ…廃人だよ。雪乃くんほど大切にされなかった相手でさえそうなる。アイツは悪魔なんだよ…」
「ハッ…ドラマみたいな話ですね…そんな…悪魔だなんて…」
「信じたくない?」
俺は榊さんに向けて首を左右に振った。
「榊さんは勘違いしてますよ…庵司は最初から俺に優しいなんて事なかった。…庵司は我儘で…強欲で…意地悪です。」
「…俺に向かって、俺のだって主張したのも初めてだったよ?」
「嬉しい話ばっかりしないでくださいよ…俺は…庵司が好きで仕方ないんですよ?庵司が居なきゃ…ダメなんです。」
ポロポロと情けなくも溢れる涙を止められなかった。
このまま、庵司が帰らなかったらと思うと、胸が痛くて潰れてしまいそうだった。
息も上手く出来ない。
俺はどうやって偽りながら、この世界で生きていたんだろう。
涙に滲んで、榊さんの煙草の煙が揺れる。
庵司の吸っている煙草と銘柄が同じで、同じ香りが店を満たしていた。
「榊さん…庵司に…会いたいです」
温かくて、大きな手のひらが俺の髪を何度も撫でた。
その度に、寂しさが強まって、庵司の手を
思い出していた。
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