第9話
目が覚めると、胸のなかが燃えるように熱かった。
窓から見える庭のシュロの木を、じっとみつめていると、真一郎の姿がうかんできた。
あいつが来てからだ。あいつが、日本ではとか、こんな所にいたくないとかいうから、ぼくが、変な夢を見るんだ。そんなにここがいやなら早く日本へ帰ればいい。
ぼくはパッと起き上がって、鎧戸になっている窓を開けた。キキッと音がして、十センチぐらいの幅の窓ガラスが水平に並びかわった。
庭のすみの細い竹の植え込みが、コソッとゆれた。
(あいつが、いなくなればいい)
ぼくは、ぼんやりそう思った。
窓からふっと涼しい風がふきこんできた。
ぼくは、急に目が覚めたように頭をふった。
ああ、いやだ。あいつのことを考えると、なぜか、何もかもがうっとうしくなる。もう、真一郎のことなんか考えるもんか。
ぼくは、タオルケットをかぶってベッドに丸くなった。
「祐介」
お母さんの声が聞こえる。ぼくはまったく無視した。
「祐介、起きてる?」
お母さんが、ぼくのへやのドアをパッと開けた。
ノックぐらいしろよな。ぼくは心のなかでつぶやく。
「いつまで寝てるのよ。起きなさい」
「今日は日曜だよ。いいじゃない」
ぼくは、タオルケットをしっかりと、頭からかぶりなおした。
「よくないわよ。早く朝ごはんを食べちゃってよ」
お母さんは、ぐいぐいとタオルケットをひっぱった。
「ゴルフに行くんだろう。早く行ったら」
「早く行かなきゃならないから、起きろっていってるんじゃない。今日はお父さんもいっしょなんだから」
「何してんだー?」
お父さんの声がした。
「これ見てよ。南洋ボケもいいとこよ」
お母さんの声。
「おきろー」
ぼくには、お父さんの声のほうが南洋ボケのように聞こえる。
「アニスさんがいるからいいよ」
ぼくは「ぼくだって一人で考えたいときがあるんだ」っていいたかったけど、これをいうとまた話しが長くなりそうだからやめた。
「もう。いつもアニスアニスってあまえて。じゃ、行くわよ」
「いってらしゃい」
ぼくはタオルケットの中から手だけを出して、バイバイと手をふった。
「そうそう、スニーカーを洗っておきなさいよ。自分でね、アニスに洗わしちゃだめよ。いいわね。わかったわね」
お母さんはそれだけをいい残して、ドアをパタンと閉めた。いそがしい人。
ぼくは、自動車の出る音を聞いて起きだした。
テーブルの上に用意してあったパンをトースターに入れる。けさの果物はパイナップルとマンゴー。牛乳を冷蔵庫から出していると、「おはよう」ってアニスがハムエッグを持ってきた。タイミングがいいんだな。これで、今日もいい一日がおくれるって感じ。
朝食を食べ終わり、スニーカーを手にぶらさげて庭へ出た。
さすがに、南の国の太陽は朝からギラギラしている。といっても、ぼくは日本の太陽のことは、ほとんど覚えていないんだけど。
「洗うの?」
後ろでアニスの声がした。
「ヤァー」
「アニスが洗う」
「だめだよ。お母さんが怒るもの」
「平気、平気」
アニスは、ぼくの手からさっとスニーカーを取り上げた。ぼくはやったと思った。けど、お母さんが帰ってきたら「自分で洗ったの」なんて聞くだろうなぁ。
ぼくはアニスの後をついていった。
アニスは、自分たちの部屋の横にある洗い場にこしをおろした。ぼくもブロックの固まりの上にすわった。
ぼくはアニスを見て「お母さん、怒る。いっしょに洗うね」ていった。
「ヤァー。いっしょに洗う」
アニスはにっこり笑った。
やっぱりアニスはやさしい。アニスにも、ぼくと同じぐらいの子供が田舎にいるんだって。メイドさんをしているのは出稼ぎなんだ。年に一回、日本のお盆みたいな日に子供のおみやげを持って帰る。アニスは、自分のだんなさんのことは何もいわない。
アニスは自分の子供にもやさしいんだろうな。お母さんも少しはアニスを見習えばいい。
何でも自分のことは自分でしろなんていわないで、子供のくつぐらい洗ってあげよう、なんて気持ちにならないかなぁ。なんてったって、掃除も洗濯も料理もメイドさんまかせで自分でしないんだから。
バケツのそばをありが歩いていた。ぼくはぬれた手をアリの上に止めた。ぽとぽととしずくが、ありの上に落ちた。
「だーめ。かわいそう」
バケツの中の手をとめて、アニスがいった。
「黒いありがいっぱいいるところは、お金もいーっぱい」
「どうして?」
「昔からそういうの」
アニスはまたブラシを動かしはじめた。
この国には昔からの言い伝えがいっぱいある。この、黒いありがいっぱいいる所はお金もいっぱい入ってくるというのも言い伝えの一つだろう。そして、今も言い伝えを信じている人がいっぱいいる。
ぼくは、アニスには不思議な力があるような気がしている。
ぼくがここに来てすぐのころ、砂糖の入れ物にありがいっぱい入っていたことがあったんだ。その時、アニスはその入れ物を指先でトントンってたたいたんだ。そしたらアリは一列になってその入れ物から出ていったの。まるで、アニスのトントンが合図みたいに整然と出ていったんだよ。次の日、また入ってたけどね。
お腹が痛い時も、怪我をした時も「痛い、痛い、消えろ」って手を当ててくれたら本当に痛みが消えていくんだ。
不思議な力だなぁとぼくは思う。
アニスたちの部屋からラジオの音が聞こえてくる。ちょっと変な歌。
ぼくが歌に合わせてからだをゆらせていると「このごろ、プールへ行かないね」とアニスがいった。
「おもしろくないんだ」
ぼくは答えた。
「ふーん。友だちのところへも行かない」
「うん。なんか、おもしろくない」
アニスがぼくの顔をのぞきこむようにして言った。
「悪魔がついた」
「冗談がきついよ」
ぼくは顔をしかめた。
「悪魔にもいろいろいる。熱が出る。腰が痛くなる。頭を痛くするのもいる。一番厄介なのは元気をなくさせる悪魔」
「うん」
「わけもなく、何もする気が無くなったら、アニスの田舎では悪魔がついたっていう」
「そうなんだ。ぼくに悪魔がついたのかもしれない。変な夢ばっかりみる。どうすればいいんだろう」
「こっちむいてごらん」
アニスはぼくの目をのぞきこんだ。
「だいじょうぶ。悪魔の目、してない」
アニスはにっこりほほえんだ。
「でも、ぼく本当に変な夢ばっかり見るんだ」
「アニスもいっぱい見る。ユウスケはどんな夢を見るの?」
「独りぼっちになる夢とか……」
「アニスがいるよ。独りぼっちじゃない」
「でも、ぼくの学校に悪魔が転校してきたんだ」
「ええッ!」
アニスが目を真ん丸にした。
「冗談だよ」
ぼくは、いけないことを言ってしまったと口をつぐんだ。
アニスの目がふっと細められた。
「ほら、庭の大きな樹の下を見てごらん。静かに静かに」
ぼくは、ゆっくり首を回した。
大きな樹の下で、ミラが黒ねこと遊んでいた。
一瞬、ぼくには黒ねこがふうせんのようにふくらんだような気がした。すると、どんどん、どんどんねこが大きくなっていった。まるで、人間のような形になっていく。
「アニス! ミラがあぶない」
ぼくは、アニスのうでをつかんだ。
「悪魔はなにもできない。ミラはだいじょうぶ。樹の上を見てごらん」
アニスはまっすぐ前を見たままいった。
ぼくは、樹の上を見た。おいしげった葉っぱの上に金色に輝くライオンのようなものが寝そべって、じっとミラと変形した黒ねこをみつめていた。
ああ、あれはバロンだ。太陽の神様だ。
去年の夏休みに旅行で行ったバリ島で見たバロンという神様ににている。バリ島はこの国の近くだから神様もにていてもおかしくない。
ぼくがそう思ったとき、アニスがうなずいた。
「この国には、悪魔もいるけど、神様だってちゃんといるんですよ」
ぼくは、寝そべっている樹の上のバロンを見て「アニスが神様をぼくに見えるようにしてくれているの?」と聞いた。
アニスは何も言わずに静かに笑っただけだった。
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