第6話



 次の日。

 ぼくらは、校長室の窓の下でひざをかかえて息をひそめていた。ブーゲンビリアの花のかげが、ぼくたちの顔におちている。

 校長先生のたんたんとした声が聞こえていた。

「どういうつもりだったのですか?」

「はあ」

「危険だということは、考えられませんでしたか」

「はあ」

 香川先生の声は「はあ」としか答えない。

「日本の動物園でも、猛獣はおりますよ。檻に手を触れないように注意するのが、子どもたちを引率するものの勤めではないのですかね」

「はあ」

「コモドドラゴンの檻の中に入るというのは、非常識といわれても、しかたないのじゃありませんか」

「はあ」

「香川先生もご存じだとは思いますが、日本人学校というのは特殊な事情がありますから、あまり保護者の方に、いらない心配をさせないほうが得策と思うんですがね」

「ええ、それはもう」

 特殊な事情って校長先生が言ったのは、ぼくらの親の力が強いっていうことなんだ。学校には運営委員会っていうのがあって、ぼくらの親がそのメンバーになっている。気に入らない先生だったら、すぐにでも日本へ帰すことができるって、本気でそのメンバーは考えているんだ。だから、そのメンバーににらまれると、校長先生だってかなわないらしい。

 ぼくは、きのうのことを誰がいったい校長先生に話したんだろうと考えていた。みんなも、誰だろうというように顔を見合っている。

そして、ゆっくりと、みんなの目が、ぼくらの教室へとうつっていった。その中には「立ち聞きなんかしない」と言った真一郎が、一人残っている。

「それに、もう一つ注意していただきたいことがありまして……」

 校長先生の声が続いた。

「じつはイーチェ先生のことですが」

「はあ?」

「いや、私も、お若い方の行動をどうこういうような朴念仁にはなりたくはないのですが、この前、イーチェ先生のご両親から電話がありましてね。教室に男の先生と二人っきりにするのは、さけてほしいとおっしゃるのです」

「どういうことですか?」

 香川先生の声が、今度は少し大きい。

「いや、日本ならそんなことは問題にもならないかもしれませんが、こちらでは、若い女の人が男と二人でいたというのは、まずいとおっしゃるのですよ。うわさにのぼると、こまると……」

「ぼくは、何もやましいことはしていません」

「いや、わかっています。でも、ご両親が注意するようにということなんですよ。なにしろイーチェ先生はお若い女性ですからね」

ぼくは、あの時のことかと思った。

 ぼくは家へ歩いて帰るから、時々みんなより遅く学校を出ることがある。あの時もぶらぶら教室の外を歩いていたんだ。教室の窓から香川先生とイーチェ先生が見えた。机に浅く腰をかけている香川先生のまえに、イーチェ先生がうつむきかげんで立っていた。ハイビスカスの葉っぱの間からもれる光が、ちょうちょうのように教室を舞っていた。ぼくはなぜかしら、とっさに木のかげにからだをかくしてしまった。からだのなかがカッと熱くなって、じゃまをしちゃいけないって気がしたんだ。あのとき、用務員さんが、教室の中を気にしながら歩いていたっけ……。


 「何してんだよ。先生、出ていったよ」

 香川先生とイーチェ先生のことを思い出していたぼくの胸に、卓也のひじがあたった。

「ほら、帰るよ」

 ぼくたちは腰をかがめたまま、教室に走って帰った。

「誰がいいつけたのかしらね」

 まゆみがいった。

「いいつけそうなのが一人いるよな」

 卓也が真一郎をにらんだ。

「何をだよ」

「昨日のコモドドラゴン事件だよ」

「ああ、ぼくだよ。お母さんに言った。言うのが当たり前だろう」

「わかってないわね」

 まゆみが机をどんとたたいた。

「何がだよ。何でもわかったふりするなよ」

 真一郎がまゆみにくってかかった。

「香川先生が日本へ帰されたらどうする気なの?」

 まゆみも、まけてはいない。

「どういうことなんだよ」

「どういうことって、運営委員会のこと、わかんないの?」

「わかるわけないじゃないか。なんだよ、それ?」

「運営委員会は、気に入らない先生がいたら、自由にやめさせる事ができるのよ。なのに家に帰ってコモドドラゴン事件の事を言いつけるって、どうかしてるわ」

「ぼくはここへ来てまだ一ヵ月もたってないんだ。家で動物園はどうだったって聞かれたら、あの事だってしゃべるのは当たり前じゃないか」

「まあ、まあ、二人とも落ちつけよ」

 浩司が二人のなかに割って入った。

「真一郎も、うすうすは感じていると思うけど、香川先生ってさ、ちょっと問題をかかえた先生だろう。先生らしくなくて、ぼくたちは好きなんだけど、親たちから見ると、何とかならないかっていう感じなんだと思うんだ。今までにもいろいろ問題を起こしてるんだよ。屋台の食中毒事件とかさ」

「何それ?」

 真一郎が聞いた。

「去年、香川先生、三年の担任だったんだよ。社会勉強だっていって、三年生に屋台の食べ物を食べさしちゃったのさ。それで、食中毒をおこしたやつがいてさ、大変だったんだ。もちろん全員が食中毒になったわけじゃないから、原因がその屋台だってことにはならないんだけど、なんかそんなふうになって……。

だから、今度何か事件を起こしたら、香川先生、日本に帰されるかもしれないって、ぼくたちはひやひやしてるってわけさ」

「何だ、そんなこと」

「何だってどういう意味よ」

 まゆみが目をつり上げた。

「先生の資格がない人は、先生にならないほうがいいって意味さ。そういう問題を次々おこす人ってさ、先生に向いていないんじゃないの。日本に帰されるのが当たり前じゃないのかな」

「よくそんなことがいえるわね。私たちのクラスは香川先生がいて私たちのクラスなんだから。あなたはいなくてもいいけど、香川先生はいなくちゃならないの」

「感情的。ついていけないよ」

 真一郎は、口をゆがめて自分の席に座ってしまった。

 ぼくは、何かいっぱい真一郎にいいたいことがあるはずだった。でも何をどういえばいいのかわからない。息を吸いっぱなしではくことがわからないような、そんな状態のまま口びるをかんだ。

(いやなやつ)

 いつかの声が、ぼくの頭のなかにひびいた。ぼくは、ふっと窓の外を見た。ハイビスカスの木のかげで、何かが動いたような気がした。何だったんだろう。


教室のピンとはりつめた空気を断ち切るように、ガラガラと戸が開いた。

「おう、おはよう」

 香川先生がいつものように教室に入ってきた。

「先生、日本へ帰らんといて」

 友里が叫んだ。

「なんだ。おどろかすなよ。ははぁん、立ち聞きしたな。今朝の校長先生の話を聞いたんだろう」

 ぼくらは、うなずいた。

「よくないよ、そういうことは。立ち聞きとか盗み聞きというのは話が中途半端になるからいけない。校長先生は以後気をつけるようにっていったんだ。ぼくに日本へ帰れといったわけじゃない。そうだろ」

「そやけど……」

「心配するな。ぼくは、おまえたちをほっぽりだして日本へ帰ったりしないよ。せめて、卒業式だけは見たいもんな。ぼくの初めての卒業生だ」

 香川先生はいつものように笑ってみせた。

 その笑い顔で、ぼくは、ハイビスカスのかげで何かが動いたことなんか、すっかりわすれてしまっていた。

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