第5話 蟹

「ねこち、今日はカニになろう。」


 まっすぐな瞳で家主は言った。吾輩は四方八方に目をやったが、吾輩の他には誰もおらぬ。どうやら、今の言葉は吾輩に向けられたもののようだ。


 

 この話から読み始めた者のために、もう一度、自己紹介をする。吾輩はである。ではない。そして、猫は蟹にはなれない。人間が猫になれないのと同じ道理で、猫も蟹にはなれぬ。そもそも、蟹というものを吾輩は見たことがない。知識としては存じているが、


「STOP!!!解説はNO!」


 巡りかけた思考に家主が待ったをかける。普段は猫の言葉など耳も貸さないが、こういう時だけは吾輩の思考を読む。ご都合主義とは、こういうことを言うのだろう。


 家主は一旦、声を落ち着けて、続ける。


「ねこち。私はねこちの博識で皮肉屋なところ、大好きだよ。」


 

 一呼吸を置く。



「でもね、こういうのは頭で考える前に、やってみるんだよ!!!」


 普段、家主は寡黙だ。何かを考え込んでいるようで、考えていないまま時を過ごすことが多い。しかし時折、情緒が崩壊して陽気になりすぎることがある。今回もそれだろう。

 吾輩が悟っている間に、家主が変な動きを始めた。体を回れ右して、横移動をしている。横移動しながら、両手は人差し指と中指を錆びた鋏のように、動かしている。蟹になるのは、吾輩ではなく家主の方だったか。ほっと胸を撫で下ろしていたのもつかの間、


「ねこちも、ほらっ!」


 誘われてしまった。仕方があるまい。吾輩も回れ右をする。家主は笑みを浮かべた。

 普段と違う動きをするのは難儀だ。明らかに横歩きは猫には向いておらぬ。いつもの動きがいかに洗練されていたかが分かる。


「うーん。」


 家主が溜息を漏らすと、急に吾輩に近づいてきた。家主が四つん這いに体勢を変えたのだ。


「四つん這いだとカニは難しいのかな…」


 呟きながら、足と手をじたばたとさせている。


「……!ねこち!手、足足、手の順で動かすといける、いけるよ!!!」


 エジソンが電気を発見したかのような喜びの声で、家主は言った。


 前足、後ろ足、後ろ足、前足。


 前足、後ろ足、後ろ足、前足。


 …うむ。非常に遅く拙いものの、決まりをつくると、新たな歩行方法も体に染み込んでくる。運動にもなりそうだ。最近は蝉も鳴りを潜めてしまい、蝉取り運動ができず、運動不足であった。蟹歩きを新・新式運動として、認めよう。


 カニカニカニカニカニカニカニカニカニカニカニカニカニカニカニカニカニカニカニカニカニカニカニカニカニカニカニカニカニカニカニカニカニカニカニ



 吾輩は猫である。蟹ではない。

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ねこち日記 ふじあつむ @f_tumu

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