2話

正装なんてろくに外出しない引きこもり高校生が持っているわけがなく、Yシャツに黒いパンツにクローゼットにある親父のジャケットを拝借した。

「どこまで行くんだっけ?」

「渋谷のイタリアン料理店らしい。」

河咲桜が訪ねてきてから3日が経った。

もう一度ゆっくり話すために会う約束をしたのだが、まさか高級イタリアン連れて行かれるとは思っていなかった。

お代はあちら側が払ってくれると言っているがさすがに申し訳ない気持ちになる。

「ほら、そろそろ出る準備しないとすぐタクシー来ちゃうよ。」

「わかった。」

茜音はというと赤いドレスに身を包み、カーネーションの髪留めを頭につけて待っていた。

「あ、そうだ。」

スッと茜音が抱きついてきた。

「外出るから。」

「そうだな。外出るもんな。」

「うん。」

まだ外に抵抗感があるのだろう。僕の胸に顔を埋めた状態で固まったままだ。

彼女なりに何かメンタルを安定させるために挙動なのだろうが、さすがに恥ずかしい。

いい年齢の高校生2人が抱き合うのはさすがに理性が吹き飛びそうになる。

幼なじみという魔法の言葉で理性にセーブをかけてきたが、今日は理性が少し解けえしまう。

そっと小さな茜音の体を自分の体で包み込むように大事に抱きしめた。

「あ、雪?」

「もうちょっとだけ。」

「うん。わかった。」

ここで許しがもらえてしまうのはあまり理性に良くないかもしれない。

今ここで理性が外れたら。

思っていることとは裏腹に体は正直でもっと強く強く茜音の体を抱きしめた。

「もう雪は甘えん坊だね。」

「うん。」

ああ。このままずっと溺れていたい。

彼女のいい匂いと柔らかい感触が脳をバグらせる。

このまま浸水しようとしたその瞬間。

「はい。終わり!」

少し強引に茜音は僕からの抱擁を解いた。

「そろそろタクシーも来るし、あと髪ちょっとボサボサになっちゃったから直してくる。」

「ごめん。」

「別に謝らなくていいって。私から求めたんだし、それに君から求められて嬉しかったよ。」

彼女は真っ赤な笑顔でその場を去っていった。


数年経った今でも大人数の前に行くのには抵抗があるらしい。

当時の記憶がフラッシュバックすることがあったり、手の震えが止まらなくなったりして精神が不安定になる。

駅や映画館など大勢の人が集まる場所にはまだ足を運ぶことはできない。

だから今日もタクシーを使っての移動になる。

タクシーで1時間弱。渋谷の裏路地にある小さなイタリアンレストランに入った。

どうやら河咲さんが個室を予約してくれたらしい。

茜音にとっての配慮と後シンプルに秘外部に口外できない内容なので個室にしたのか真実はわからないまま。

「こんばんは桜さん」

「こんばんは2人とも今日はきてくれてありがとう。」

椅子に座り、前菜のサラダを食べながら会話は始まった。

「いきなり本題に入ってもいいかな?」

「はい。詳しくプロジェクトについて聞いてもいいですか?」

「うん。なんでも聞いてくれ。」

「まずこのアイドルプロジェクトの情報公開日が明後日なんですけど、これについてはどうお考えですか?」

「明後日に行う。メンバーが全て揃った場合のみ」

「揃った場合のみというのは?」

「あーちゃんが参加しない場合はこのプロジェクトは畳む。」

「え?」

「私はこのプロジェクトはあーちゃんが参加することに意味があると思ってる。あなたのためにこのプロジェクトを作ったし、あなたを羽ばたかせるためにお金も用意した。」

「なんで私なんですか?」

「雪斗君にも全く同じことを聞かれたよ。」

感覚だと。河咲桜の中の何かが黒瀬茜音をアイドルにしろと叫んだ。ただそれだけの理由が彼女を動かした。

「雪斗君。あーちゃん。私は今答えを見出したよ。」

ワイングラスに入った赤ワインを一口飲み、勢いよく放った。



「私はねあーちゃんの笑顔が好きなんだ。」



「そのたった1つの笑顔がアイドル業界を変えると思うし、間違いなく今このタイミングでcolors所属のアイドルとして売り出せば売れる確証はある。」

「桜さんがそういうならそうなんでしょうね。」

ここ2日ぐらい軽く彼女の経歴を漁った。

起業してから、所属しているタレントの成長の質が素晴らしいことに気がついた。

おそらく事務所側からの手厚いバックアップがあるのだろう。所属事務所を変えた途端にみるみる成長していくタレントが何十人もいる。実績があるというのは仕事選びにとって重要な要素になる。

この様子を見るにcolors所属のアイドルとしてデビューすればまず売れることに間違いはないだろう。

「でも私の中にはまだ不安と恐怖が残っています。」

「うん。でもね。私はその気持ちも大事にしてほしいと思うんだ。」

「この思い出したくもない過去をですか?」

「もちろん本人にとっては最悪の記憶だと思う。だけどね。あーちゃんの中でその出来事がきっかけで手に入ったものもあったでしょ?」

一瞬、会話が止まった。

「横にいる彼は多分、芸能活動をしていたら出会わなかったし今みたいな関係になってなかった。そう考えてるとあーちゃんはああいう状況になって「よかった」まではいかなくても「結果的に新たな幸せに出会えたからOK」っていう感情に切り替わったんじゃない?」

目の前に運ばれた赤いソースがかかったお肉を切りながら話す。

「じゃああれですか、もう一度私が最悪を見ても彼がいるから立ち直れるってそういうんですか?」

「そもそも彼がいる時点で最悪なんてものは訪れないと思うんだ。」

ナイフで切られたステーキを一切れ口に運び、咀嚼した後赤ワインを一口飲んだ。

「君たちは多分、お互いがお互いに心酔しきっている。どちらかが傷つく危険性があればそれを自分を犠牲にしてでも排除しようとする。ならあーちゃんのマネージャーに雪斗君がなれば全ては解決するんじゃないか?」

「それは、そうかもしれないけど、雪斗の雪斗の許可がなきゃ!」

「彼からの許可はすでに取ってある。」

「え?」

驚いた顔で彼女がこちらをむく。

いつもと違う向けられた目線に怯えながらも僕も口を開いた。

「僕は了承した。」

「なんで?」

彼女の戸惑いを初めてぶつけられた。

「僕が、」


”昔の輝いている頃の君を見たかったから”


その一言が喉から詰まって出てこなかった。













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