第2話 名探偵

 私の思う強い女とは、しずくかもしれない。

 いわゆる母性からくるものなのか、分からないけど、彼女はいつだって弱い者を守ろうとする。

 特に、私の身に起きた例の事件以降は顕著になった。

 なんでも、地元の祭り会場でナンパされていた知りもしない女の子を助けたとか、学校には付き物の、いじめの現場に遭遇したら、空気も読まずに割って入るとか、ヒエラルキー第一の学園生活でそんなことをすれば、当然浮くんだけど、彼女はいっさい気にする様子を出さない。

 しかし、それで彼女がクラスの悪者みたいな風潮になるのだから、学校を退学してよかった、と思える、唯一のエピソードでもある。

 第三者の目線から見るからこそ、私の道徳は養われたのかしら。

 だって、明らかに間違っているでしょう。


 いや、でも、道徳を養ったところで、そういった、人を虐める側の人間が上に立つ、みたいな、生き残り方、みたいなものは、学べていないわけだから、どっこいどっこいなのかな。


「ねぇ、しずく。夏休みの間ずっとここにいるって本当なの?」

「うん。友達いないからねー」


 私の部屋の中、母が準備してくれた座布団に女の子座りをして、本当にそれが何でもないことと思わされるほどに、明るく言われた。


「それよりさ、夜空、もっと陽君のこと聞かせてよ」

「あ、うん。ごめん」


 しずくは、女の子座りで潰れた太ももの上にメモ帳を置き、お化け探しで得た情報を整理している。といっても、ここ数日、何か進展があったわけじゃない。もちろん陽君には会えていないし、中途半端にされた山奥の電飾もそのまま。最後に約束した古い蔵も、そもそも施錠されていて入れなかった。


「前も言ったけど、家も苗字も聞いてないから、あんまり話せることは……」

「なんでもいいよ。本当に些細なことでもさ」


 顔を近づけ、上目遣いで私を覗いてくる。


「……なんか、しずく、探偵みたいだね」

「ん? でしょー? 名探偵しずくと呼んでください」


 被っていない帽子のつばを掴む所作をして、自信ありげに胸を張った。


 些細なこと。なんだろう。


 考えると、ひとつ、何よりもヒントになるものがあることに気が付き、ふたりの中央にある丸テーブルに目をやった。


 アナログメール。


 私の視線に気が付いたしずくが、同じく、テーブルの上のそれを見た。


 マズイ。


「あ、これが言ってたノートね。ほんと、汚れがひど——」

「ちょっと待って! それは見ないで!」


 しずくが伸ばした手が届かぬ内に、咄嗟に手に取って、胸に手繰り寄せた。見られるのが恥ずかしかったのだけど、冷静になると、恥ずかしがる私が恥ずかしくて、顔が熱い。しずくの顔を見ると、驚きからニヤニヤへと変わっていく。


「そんな恥ずかしがることないじゃーん。可愛いなあ、この」

「……う、うるさい」


 突かれる頬を、身をはすに構えてかわし、ぎゅっと、ノートを抱きしめるしかなかった。


 ようやく手を引っ込めたしずく。声色の笑いを徐々に消し、吐息交じりに、でもさ、と呟いた。部屋は静まり返り、窓の外から聴こえていたジ―という虫の鳴き声が誇張される。


「これが慰めになるのか、っていうか、慰めって言っていいのかもあれだけど、夜空も、普通に恋する女の子なんだよ」


 急に、真面目。言い返したいことは色々浮かんだけど、全てをひっくるめて、

ありがとう、としか言えなかった。


 虫の鳴き声は、オケラかな。もっと頑張って鳴いてほしい。


 しずくに見られないようにノートを胸の近くで開き、お化け探しに役立ちそうな情報を探した。見返すと、陽君からの質問ばかりで、つまり、私の情報ばかり。でも、いくつかだけは、手がかりになりそうなものがあった。


「いつも朝の四時過ぎとかに会ってたから、それについて、私が訊いてる」

「なるほど、たしかに。夜空はあれだけど、陽君は不思議だよね。なんて言ってたの?」

「待ってね。何回か『お化けだから』って流されてて……あっ、あった」

「なに?」

「『家が嫌いだ』って」

「ふむふむ」


 しずくは持っているペンを走らせた。


 他にあったのは病院の話題。私の精神状態を心配していた彼の質問から始まっている。私は例の事件について、警察の捜査の協力も、通院も、あまり出来ていない。とにかく、少しでも思い出すのが嫌なんだ。だからこそ、母も自然豊かな田舎町へ引っ越すくらいしか出来なかったのだと思う。


 罪悪感がチクチクと、私の心を刺す。


「『俺も病院は嫌いだ』って」

「病院が嫌い? これは、何か……、手がかりになりそうな……」


 しずくはペン先を顎にあて、遠くを見た。

 病院が嫌い。

 別に珍しいことでもないでしょう、と考えていたら、


「そうか!」


 彼女の頭上にビックリマークが浮かんだ。


「家が嫌いで、早朝に山奥、つまり、家出してたんだよ」

「病院の件は?」

「えーと、だから、それは……、家出してて、しかも病気してて、でも病院は行きたくなくて……、的な?」

「じゃあ病気が悪化して、家出どころじゃなくなったってこと?」

「あー……、そうそう! そういう感じ!」


 なんだか信頼に欠ける探偵さん。彼が具合を悪そうにしているところは見たことがなかった。隠していただけ? 可能性はゼロじゃないけど、なんとも言えない。


「あ、それかさぁ」


 早々に次の仮説が出来たらしい。


「物書きになりたかったって言ってたんだよね? てことは、親とかにさ、医者になれって育てられてて、それが嫌で家出したとかは?」


 なんだか説得力のある探偵さん。なるほど、と思った。でも、それで「病院が嫌い」という表現をするのかしら。


 依然、分からない。


 私も考えを巡らすけど、推理を進めるほどに、時間が経つほどに、あえて無視していたことが、いよいよ無視できないまでに、膨れ上がってきた。


 今の私たちは、彼がこの世に実在していることを前提に考えているんだ。


 それは、お化けという要素だけじゃない。


「普通に、事故は……ないよね」


 希望的観測から脱して、考えられる最悪の現実と向き合ったのに、私の言葉は未だ、希望を含めた言い方になっていた。私はやっぱり、彼に会いたいみたい。


 いや、嘘、違う。会いたいというか、心配なんだ。


「うーん。ネットニュースとかにはなかったからね。でも、今言った家出とかが本当で、もし誰も、それに気が付いてなかったら……」


 しずくの囁くような言葉に、空気が重たくなるのが分かった。


「一応、本当に事故とかだったらあれだし、明日から町内の人に訊いてみようか。夜空、大丈夫?」

「うん。陽君と会ってから、少しはマシになったの。でも、分からない。出来るだけやってみる」

「そっか。ほんと、陽君さまさまだね」


 彼女の優しい微笑みが、少しだけ、空気を戻した。


 更に、


「次、会えたらちゃんと告白するんだぞー」


 にやけた微笑みで、すっかり元通りになった。


「もお、バカ……」


 これから幾度となく繰り返される探偵ごっこの初回は、成果なし、なのだけど、存外、そうでもないことは、今の私たちには、まだ、知る由も無い。


 ベッドに入り、ふたり、並んで仰向けになった。


「でもさー、夜空が最近、ゲーム誘ってこなかった理由は分かっちゃったよ」

「いつも朝早かったからね。夜はすぐに寝ちゃってた」


 私としずくはゲーム友達でもある。毎晩、オンラインでボイスチャットを繋いで、通話をしながら同じゲームをするんだ。しずくの場合、それが好きというよりも、私に付き合ってくれているだけだけど。


「朝が楽しみで、すぐに寝てたんでしょ」

「もう、違うって。何回もイジらないで」

「ごめんごめん。陽君のこと考えたら眠れなくなっちゃうよね」


 それもイジリ。しつこいから無視して、ちょっと睨んだ。しずくも私の視線に気が付いて顔を向けてきた。

 母のような温かい笑みを浮かべ、両手を伸ばしてくる。


「さ、おいで。ねんねしよ」


 ずるい。

 いじわるな優しさに悶々しつつも、彼女の柔らかい懐に収まる私は、多分、不貞腐れた顔をしている。

 私は、ひとりでは眠れない。


 かわい子ぶって、ごめんなさい。


 この暗闇の夜に、安心が欲しいの。



 玄関を出れば林。右手は早速、獣道になっていて、お化け山に続いている。左手だけが唯一、人に続く道だ。


「ねぇ、しずく。本当に行くの?」

「何今更ひよってんのさ。昨日決めたでしょ」

「そうだけど、いきなり交番って……、相手してくれるのかな」

「どうだろうねー。でも墜落事故とか、行方不明とかだったら、警察が一番っしょ」


 人に続く道、田んぼのあぜ道をしずくと並んで歩いた。


 霧白町はほとんどが民家と田んぼで構成されているけど、中心部だけは申し訳程度に舗装された道や、数えられる程度のコンクリート造の建物がある……らしい。今はそこにある交番を目指している。


 遠くを走る貨物列車がどこまでも奥へいく。農作業をする腰の曲がったお婆ちゃんを通り過ぎ、瓦屋根の古い民家を通り過ぎ……何件も、何件も、通り過ぎ——。


 交番に着いた。隣の無人駅はホームが筒抜けになっていて、人の気配も、音の気配もない。

 中心部……?

 足元で飛んだアマカエルの着地する音が、聴こえた気がした。


「夜空、大丈夫そう?」


 交番の入り口はガラス張りになっていて、デスクに座って居眠りをしている男の警官が見えていた。


「う、うん。ここまできたら、行こう」

「無理はしないでね。いい? 少しでも息が荒くなったり、心臓がおかしくなったら私の腕を引っ張ること。手を離さないこと。約束」

「うん」


 私には母が二人いる。


 入口のスライドドアを開けて、しずくを盾にするかのような形で室内に入ると、居眠りをしていた警官がビクッと肩を上げて、起きた。


「うおぉ! ビックリした」

「すいませーん。ちょっとお聞きしたいことがあって来ましたー」


 ふたりの会話が始まると、私は顔を上げられない。しずくの後ろで黙って聞くだけ。


「お嬢ちゃんたち、見ない顔だね。どうしたの……ってか、後ろの子、大丈夫? もしかして迷子……って歳ではないか」

「あ、すいません、この子、ちょっと人見知りなんで気にしないでください」

「そうかい……。で、どうしたのかな?」


 しずくはあの手この手で陽君の存在と、その事件の可能性を説明した。優しい口調の警官だけど、そして、これはやっぱりなのだけど、どうしてもしずくの言うことから深刻度や現実味といった気配を感じられない様子で、その声色だけで、困っているのが丸わかりだった。


「しかしねぇ、この辺で若い男の子っていったら数えるほどしかいないから、絞れることは絞れるけど、陽君? 聞いたことがないなぁ。僕がここに赴任したばかりってのもあるけど、それにしても随分と町内の人間のことは知ったつもりさ。届出(行方不明者の捜索願い)もないしねぇ」

「他の町からとかもですか?」

「そうだよ。一応近隣の市や町、全部調べたけど、それらしいのはないね。ただ旅行に来てたとかじゃないのかなぁ? 田舎だけどね、割と有名らしいよ、霧白町」

「そうですか。うーん、難しくなってきたなー」


 しずくは話しながらも推理を進めているらしい。


「うん。あと、お化け山は霧で視界が悪くてね、最近……といっても、何十年も前だけど、墜落事故も何度かあったらしいから、定期的に崖下のパトロールはしてるんだ。直近だと一週間前かな? 特に変わった報告はあがってないよ」

「へー。意外としっかり、寝ないで仕事してるんですね、お巡りさん」


 しずくのイジリ癖が出た。


「ハハハ、いやぁ、何も言えんな……」


 結局何も分からないし、もちろん、捜査をしてもらうなんてことは無理だったけど、この警官は優しい人だった。十七歳、十八歳の女が二人で押しかけて、突拍子のないことを言ったんだ。これだけ付き合ってくれたら、しずくも身を引くしかなかっただろう。


 私だけ、何もしていない。


「それじゃ、気を付けて帰りなよ。あ、お化け山は基本立ち入り禁止だし、私有地もあるから、今後は行かないこと! 分かったかい?」


 外に出ようとする私たちにかけられた言葉につっかかって、私は足を止めた。


「わっ、ちょっと、夜空、急に止まらないで!」


 しずくばかり頑張っている。

 私だって頑張らないと。

 男の人と話せるように、ならないと。


 振り返ると、しずくの体で奥が見えない。まだ、これくらいの甘えは、許して。


「あ、あの、私有地……なんですか」


 沈黙。

 響くカエルの鳴き声が、ふたりの驚きを表しているようだった。


「え? あ、あぁ、そうだよ。八雲さんっていってね、この辺じゃ有名な人だよ。僕の上司でもある人さ」


 カエルの鳴き声はやまない。

 沈黙に心臓の音も乗っかってきた。


 咄嗟にしずくの腕をひく。


「あ! はいはい! じゃ、お巡りさん! 今日は本当にありがとうございましたー!」

「え、あ、うん。気を付けてね~」


 速足でしずくに引っ張られ、角を曲がった。

 立ち止まり、眉根を上げた表情で私を見てくるから、何故だか謝りたい気持ちになるんだけど、


「あ、あの、ごめ——」

「夜空! あんた本当に変わったたんだね! びっくりしたよ!」


 遮られ、しずくの顔に満面の笑みが咲いた。


「いや、本当はね、陽君に会って、少し変わったって言ってたでしょ? それでもすんごく心配してたの。またあの時みたいに倒れたらどうしよう、って。いやー、びっくり。すごいよ~、夜空~」


 抱き付かれ、頬をすりすりされた。


「ちょ、ちょっと、暑いよ……」


 そこまで褒められることじゃない。ただ一言、発しただけ。まだ普通の「普」の字にも至ってないのは分かっているんだけど、しずくの力強くも柔らかい抱擁ほうようと、いい匂いが、嬉しくて、恥ずかしくて……そして、少しだけ、みじめ。


 自由な両手の行先が分からないから、顔だけあげて、空を見た。日はまだ高く、綺麗な雲が浮かんでいる。


 往きと同じ帰り道を歩く。古い民家を通り過ぎ、また、通り過ぎ、家の近くのあぜ道まで戻ってきた。途中、しずくから「その調子で頑張るのもいいことだけど、絶対に無理だけはしないこと」と、改めて釘を刺された。


 褒められて喜び、心配されて、あるいは注意されて、頷く。


 私自身が安心を求めているから、人の優しさが嬉しいという気持ちに偽りはない。

 ただ、それによって、いつも分からせられることがあって、日に日に募っていく感情もあるんだ。


 それが……「惨め」。


 私たちに気が付いた農作業中のお婆ちゃんも、こっちに来て、また早速、私の正と負の感情を同時に高める。


「あら、ちょっと、あなた……もしかして夜空ちゃんじゃないかい? そうでしょう? あらあら……お母さんから話は聞いてるよ。ほら、こっちきて。お願いだから」


 と言って、私を優しく包み込むの。


「大変だったねぇ。大変だったねぇ。大丈夫だからねぇ。この町の人はみ~んな、あなたの味方だからねぇ。お願いだから、お願いだから、もう少しこのままでいさせてね。ハァ、もう、本当に、大変だったねぇ」


 と言って、私のために涙まで流して、震える手で頭を撫でてくるの。


 裏も底もない優しさに触れて、私は自分の惨めさをことごとく実感させられて、辛かったって、どうして私の人生はって、言葉にしたくなってしまって、その欲求と、溢れそうになる涙を、またことごとく、必死にこらえて、ただ空を、見上げるんだ。悠長に佇む白い雲がとても綺麗で、澄んだ青色が果てしなくて、そんな、悩みという概念の全てを限りなく分散させてしまうかのような、神々しい昼の空が、気に食わないんだ——。



 家に戻り、ソーメンを茹でた。熱水ごとザルに移し替えると、大量の湯気が立ち込めて、暑い。リビングの絨毯じゅうたんに座って私を待っているしずくは、扇風機にへばりつき、薄紫色のキャミソールの胸元を片手でなびかせている。


 食べながら、次はお化け山にいくことを決めた。あの優しい警官から聞いた情報によると、お化け山には私有地があるらしい。つまり、人が住んでいる可能性がある。安直に、そう思ったんだ。ただ、しずく曰く、最近はキャンプが流行っているらしくて、著名人がキャンプのために山を買ったとか、そんな話も、あるらしい。そういう類なら何にもならないけど、行かないという選択は、やっぱりなかった。


「夜空の作るご飯は本当に美味しいねー。料理にゲーム、どっちもプロ級。本当すごいね」

「ただ茹でただけだよ」

「謙遜ばっかしないの。いいんだよ。それを言ったら麵系の料理はほとんどそうなっちゃうでしょ? きっと茹で方があるんだよ」


 他の料理は出汁とか、トッピングとか、色々ある。私にはとても、店に出てくるようなラーメンやスパゲッティなんて作れない。思い出せる味はどれもこれも、中学生までの記憶だけど。


「あー美味しかった。よーし、夜空、すぐ出れる?」

「うん。ちょっとだけ待ってね。洗い物だけする。……ていうか、しずくの方こそ、その恰好……」

「大丈夫だよ。一枚羽織るだけだから……ほらね!」


 簡単な準備にしては随分と可愛い、天真爛漫な女の子が現れた。胸元がヒラヒラで、少し日焼けした肩を露出させた恰好。見えているキャミソールの紐が、なんだかエッチ。


 可愛いくて、天真爛漫な、普通の、女の子。


 少しだけ、奥歯に力が入ってしまった。


 食器を手に取ってシンクに置いた。蛇口を上げて水を流すと、不意に「夜空ちゃん」と、しずくから、珍しく、ちゃん付けで名前を呼ばれ、振り向く前に、後ろから優しく抱き付かれた。


「洗い物は任せて。それよりさ……いっかい、こっち来ようか」


 母が使っている化粧台に座らせられた。

 私は、色気付くのは嫌いだ。男の人を意識しているみたいでしょう? だから、どうして私が、という想いが湧いて、化粧やお洒落の類からは離れてきた。


 でも……。


「もし陽君に会えたらあれだから、お化粧しましょうね、夜空ちゃん」


 そう言われると、ファンデーションを塗ってくるしずくの手を、止められない。あたかも、この後に行くお化け山に、間違いなく陽君がいて、絶対に会うことが決まっているような気になってきて、お願いだから、張り切っていると思われない程度に抑えてほしい、と思いながらも、変わりゆく自分の顔を、鏡越しに覗く、何も言えない、私。


 外に出て、今度は獣道の方をいった。願い通り、私の顔はあからさまには変わっていない、と思う。


 さっきまで気にもしていなかった脚の疲れが、山を登るほどに姿を現した。今日一日、歩き過ぎ。それでも、スキップを交えて元気に進むしずくを見て、自らを鼓舞し続けた。


 例の蔵まできた。瓦の三角屋根で、木造だから、周辺の自然とよく馴染んでいる。瓦は特別、自然感があるわけじゃないけど、何より、木の部分に張り付いたこけが物理的に自然と同化している。


 静か。


 そう表現するのが、最も適切な感じの佇まいで、その静けさが、どこか恐ろしい。


「やっぱり鍵はかかったままだよねー」


 しずくが入口までいって、錆々の南京錠に触れてから言った。

 でかい文字を書く。

 彼が言った言葉が指す何かが、この静けさの中にある。

 今はまだ、分からない。


「何も、表示とかないけどさ、ここって、既に私有地なのかな?」


 名探偵しずくは私と同じことを考えていたらしい。


「私も、そうかなって思う」

「だよね? だって、この蔵、町で管理してるって感じじゃないし、何かの施設って感じでもないもんね。まさか家ってわけでもなさそうだし」

「うん。少なくとも、誰かが建てたってことだよね。倉庫か、何か、分からないけど……」


 だとしたら、不法侵入になるのかしら。

 ……今は、許してほしい。

 蔵の近く、木々が生い茂る林のふもとに、両手を合わせた小さいお地蔵さんがいて、心の中で懺悔した。


「なんか、いっそう探偵っぽくなってきたね! わくわくしちゃう!」

「そんな、しずくがワクワクすることかな……」

「何言ってんのさ。大切な友達の初恋相手が急に、霧の中に消えちゃった! ワクワクしないわけないじゃん」

「もぉ。だから、初恋とか、そんなんじゃないって」

「はいはい。それとね、なんか……、変に気になるんだよね」

「変に?」

「うん。その、陽君が言ったっていう『でかい文字』を書きたいって……なんだそれ、みたいなね」

「あぁ、うん。それは私も、そう」

「夜空から聞いた感じ、陽君って結構変わり者で、それでいて純粋な少年って感じもするから、案外、言葉の通り、単純におっきい文字を何かに書きたかったのかなって思うんだけど、それって物書きとは言わないし、ほんと、意味不明過ぎて逆に気になっちゃう」


 本当に、そう。私たちの探偵ごっこの目的は、推理物の創作にありがちな殺人事件の捜査でもなければ、何か、宝探しをしているわけでもない。「でかい文字を書きたかったんだ」。そんな意味不明な「欲求」を探しているんだ。


「さ、どんどん行こう。この先は夜空も行ったことないんだよね? 楽しみだなぁ。夏休みって感じ」


 しずくは爽やかな笑みを浮かべ、スカートをひらりと回した。


 途中、休憩を挟みながらも、山道をどんどん進んだ。太陽は少しだけ高度を下げている。道しるべである獣道は随分前から崖沿いを離れ、山の中を切り開いていた。両脇の雑草が行く手を阻むかのように押し寄せてくるから、何となく触れないように、時折、体を右へ、左へ、傾けて、進み、やがて、前をいくしずくが大きな声をあげた。


「わぁ! 夜空! あったよ!」


 何が?


 両脇の雑草を体で押しのけ、私も急いで草のトンネルを抜けた。


 眼前に、広場。

 ポツンと、二階建ての家。


「これ……、そうじゃない?」


 先にいって佇んでいたしずくがボソッと言った。

 言いたいことも分かった。たしかに陽君の家と考えても、違和感はない。蔵と同じ、瓦屋根の木造で、ただ、一点、違うところがあるんだ。

 こけの量が少ない。

 それは今でも人が住んでいると思わされる情報だった。

 また、私と同い年くらいの男の子が、早朝にお化け山を行き来出来るということは、近所に住んでいると考えるのが自然かと思う。


 とすれば、彼の名前は、八雲陽?


 あの警官は言っていた。土地の所有者は八雲さんという、この辺では有名な人だと。


 大きな手掛かりを前に佇む私達ふたりは、自然と目を合わせた。何を言わずとも、交番に入った時の形となり、玄関にいき、先頭のしずくがインターホンを、鳴らす。


 家の中に鳴り響いたインターホンの音が、扉越しに聴こえた。

 それ以外の物音は、しない。

 数秒待って、また鳴らした。

 やっぱり物音は、しない。


 ただ、沈黙。


 普通、留守を察するのに必要な時間は十秒くらいかしら。私たちは、三十秒以上も待った。


 しずくがゆっくり振り返った。

 スカートのポケットからスマートフォンを取り出し、画面を見て、言う。


「んー。考えてみれば、まだ十五時だもんね」

「そ、そうだね」


 密かに高まっていた心音は安心を経て戻り、密かに気になっていた前髪の位置もどうでもよくなった。ただ、残念。大自然の中にぽっかり空いた広場の中で、ふたり、路頭に迷うと、


「どうしよっか!」「どうしようね」


 言葉が重なり、意思疎通。束の間の休息と笑いを生んだ。


 こういう時は決まって、しずくが私を引っ張ってくれる。


「とりあえず、ちょっと待ってみようか。陽君は分からないけど、お巡りさん言ってたもんね。自分の上司だって。警察官ってことでしょ? 夕方には帰ってくるかもだし」

「うん。分かった」


 ——しかし、待てど待てど、人が来ることはなかった。

 限界があったのもある。

 今いる場所から自宅まで一時間は掛かるから、日が落ちてから帰るのは流石に危ないと判断したんだ。


 草のトンネルのちょうど反対に、車一台通れるくらいの道が山を下っている。恐らく、この家への正規の道。

 トンネルの中に戻る前、首を回して、その稜線りょうせんをずっと見た。ちょうど今、あそこから車が出てくるかもしれない。そう思うと、中々トンネルに入れなくて、先をいくしずくの背中を、慌てて追いかけることになった。


 スマホはあるし、電波も良好だった。だから私たちは本当の意味で帰り道に迷うことはない。ただ、少しだけ迷った。それは、つまり、段々と広がっていくはずのトンネルが、さっきよりも明らかに長いんだ。GPS上は着実に自宅に近づいているから問題はなさそうだけど、いつの間にか来た道とは違う道を選んでしまったみたい。


 もう随分と汚れてしまった。草木に擦れることなんてどうでもいい。思っていたことは、時折視界に入る見たこともない虫への嫌悪と、はぐれたらどうしようという焦りと、もし急に崖が現れて、先頭をいくしずくが……、という不安。


 定期的に「気を付けてね」と後ろから声を掛けては「大丈夫だよ」と返事を貰い、募る不安を頑張ってかき消しながら、進み、ようやく、そして、またしても、さっきとは少し印象が違うのだけど、大自然にぽっかりと空いた広場に出た。


 歩くペースはゆっくりだったのに、一日で溜まった疲労と、募りきった不安のせいか、息はあがっていた。両ひざに手を当てて、息を整え、しずくに一言掛けようとしたら、彼女は姿勢を正しく、夕日を全身に浴び、広場の中央に視線をやっている。

 瞳に反射するオレンジ色がとても綺麗で、つい見入ってしまった。


 近くでカラスが鳴いた。


 驚いて音の方向を見ると、そこには今日見かけた地蔵の背中が。


 もしかして、と思い、今度はその周辺を注意深く見ると、例の蔵と思われる建屋が木々の隙間から確認出来た。


 戻ってきたんだ。


 自然と安堵の溜息が出て、再びしずくを見た。


 ……え? どうしたの。


 彼女は眉根を上げた表情で、いや、それはもう、到底、この世に存在する、ありとあらゆる物の何れかを見る顔じゃない……、まるでそこに、絶対にあるわけがない、あっていいはずがない物を見てしまったかのような、最大級の怪訝の表情で、一歩、二歩、前へ歩いていく。


 行く先を目で追って、私も、戦慄した。


 墓石。


 達筆な文字で、八雲陽と、そう掘られていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る